-----牡丹雪------


幼い足が踏みしめるには、薄く白化粧をした地面はまるで拷問のようだった。
無数の針が足の裏を突き刺す。
耐え切れずに、交互に上げ下げして少しでもその痛みから逃れようと試みる。

足の指先に感覚は無い。

脹脛に片方の足の裏を擦り付けると、一気に体温が奪い取られて
柔らかい肉も冷えてきた。


小さな口が震えながら息を吐く。
白い靄が暗い空へと消えて、降り落ちる雪と同化していく。

鼻も頬も耳も

痛々しいほど赤く染まり、まるで熟れた桃のようだった。


廊下に並ぶ障子から零れる橙色の灯りだけが、子供を照らし暗闇を僅かに明るくさせていた。


カタ


大きな音を立てないよう、慎重に開かれた雨戸から小さな頭と手が覗いた。

「雲水」

名前を呼ばれ、子供は雨戸の隙間へ近寄る。
足の感覚はとうに無くなり、歩くと痺れが体を走った。

「雲水、こっち」

半分ほど開かれた障子と雨戸の向こう側から、子供と同じ顔が現れる。
一緒に生まれ落ちた片割れ。彼の弟だった。

「早く、ババァに見つかる」

縁側へと降りた弟が手を伸ばした。
片手には白い手拭い。

「阿含まで怒られるよ」

近付いたが差し出された手を掴む事を躊躇い、眉を下げて立ち止まると
焦れたように阿含の手が雲水を掴んで引き寄せた。
もたついた足が縁側の縁にぶつかり、よろける。

「大丈夫だよ。雲水と一緒に寝るって言ったから。ホラ、足拭いて、早く寝てしまおう?」

縁側に上がり、受け取った手拭いで足を拭く。綺麗に洗われた白い布が、一瞬で土色に変わる。
廊下へ戻って障子を閉め、足を拭った雲水が立ち上がるのを見届けると
阿含は汚れた手拭いを受け取り、雲水の手を引き、廊下を歩く。
軽い足音二つ分。その足音は古びた床板を軋ませて奥の座敷へと急いだ。

繋いだ兄の手はまるで死人のように冷たかった。




互いに何故こうまで待遇が違うのか、なんて知らなかった。
一緒に居るのが当たり前で、一緒に居させてくれない周りが理解できなかった。






その日は特に寒くて、牡丹雪が灰色の空から舞い落ちて地上を白く染め替えようとしていた。

小さな息でも真っ白な煙となる。母方の祖母が死んだと連絡が来たのは今日の早朝。
暖かい布団の中で惰眠を貪っていた阿含も、母親に布団の上から身体を揺すられ起こされた。
寝ぼけながら、隣りに身体を丸めて背を向けて寝ている雲水を起こそうと手を伸ばす。
けれど、その手は母親に止められ、何故だ、と問えば夜に熱が出たのだ、と返された。
熱を出したのは誰の所為だと内心思いながら、阿含は静かに布団を抜け出し、隙間なく雲水を布団に
包むと母親に手を引かれて部屋を後にした。
ギシギシと古い床が軋み、雨戸の隙間から冷たい風が廊下を走る。
吐いた息は真っ白だった。


寝顔を見ることは出来なかったが、きっと何時ものように穏やかな寝顔だったのだろう。
熱で頬を赤く染めて、小さく丸まって、暖かい毛布に包まれて、
小さな鼻と口で懸命に息をして深い眠りを楽しんでいるのだろう。


母親に手を引かれて畦道を歩く間も、阿含の頭には今頃布団から這い出して、誰も居ない家で
寂しがっていないだろうか、熱は酷くなっていないだろうか、と雲水の事しかなかった。
このまま手を振り払い、家に戻りたくて仕方なかった。



夕暮れ、葬儀の途中だったが一人で帰れると言い張って、
渋い顔をする両親の言葉と手を振り払い、阿含は元来た道を息を切らせて走っていた。
周りの田園を抜けて、重々しく構える門扉をすり抜け、草履を脱ぎ捨て、荒々しく廊下を走り
きっと雲水が寝ているだろう、部屋の襖を開いた。

「・・・・うんすい?」


見開かれた幼い阿含の両目に映ったのは、今まで使っていたかのように敷かれたままで
掛け布団が捲れて締まっている寝床。
そこに同じ体躯、同じ顔の兄の姿はなかった。

「雲水!」

首を回して、廊下を突き当りまで走る。襖という襖を開いて、部屋を見渡す。
何かが居る気配は全くない。

「雲水!」

しんと静まり、耳鳴りがした。
動悸が激しい。耳の奥で自分の心音が響く。
小さく、細い息と共に再度兄の名前を呼んだ。

何も返ってこなかった。

つんと鼻の奥が痛み、ほとりと一滴、見開かれたままだった眦から雫が零れた。

最後に阿含の脳裏に残った雲水の姿は、寝る前におやすみと微笑んだ顔と、
氷のように冷え切っていたが、徐々に温まってきた手足だった。


痛いほど冷えた空気が阿含の頬を撫でて部屋の外へと抜けていった。








茶屋の二階座敷の細い格子窓から、懸命に伸ばされた白い指が覗く。
とうに鐘は八つ。
静まった暗色の空からは五月雨が降るか降らないほどに、板葺の屋根にかすかな音を立てていた。

「何ぞ外におるのか」

燈火にほんのりと浮き上がった男の顔は楽しそうに、目を細めて徳利から酒を注いで煽っていた。
隣り合う座敷からはからからと笑い声が聞こえ、ちんとん、と箸で皿を打つ音まで聞こえてくる。
まるで正反対に、香の匂いが程よく充満しているこの部屋は、落ち着いたものである。
伸ばした指をそのままに、格子窓に張り付いた後姿が男のほうへと顔を向けた。
袖に焚き染められてた香が揺れた拍子に、ふわりと部屋を舞った。
初瀬という名香が男の座している場所まで薫っている。

「蛍が外を飛んでいるのです」

笑みを浮かべながら、小さくも良く透き通った声で、穏やかに言うとまた細い外へと首を戻してしまう。

「もう少しで指先に止まってくれそうなのですけれども、どうにも上手くいきません」

暫くそうして艶やかな着物を纏った後姿は格子窓に張り付いていた。
男は文句一つ零さず、とうに切れた肴の代わりとでも言うように、
目の前の時折揺れる肩や、もう少し外へと伸ばされる指を眺めながら酒を旨そうに呑む。

「捕れた」

言葉も交わさぬまま、すでに酒も切れてしまった頃合に、弾ける様な声を上げて、
蛍を逃がさぬようにだろう、両手を窄めて振り返り、満足そうに男に向かって微笑む。
畳の上に広がる裾を巻き込まぬよう男の座る場所まで近寄り、ほら、とゆっくりと白い手を広げた。

「これは見事な。よう捕れたものだ」

手の中で尻を光らせる蛍を覗きこみながら、男もまた楽しげに笑った。
笑い、愛しげに己の手で動く蛍を見つめていたその手を取って、懐へと引き寄せる。
あ、と小さく声を零した拍子に蛍は飛び立つとぐるりと燈火の周りと飛び回り、徳利の縁へと止まった。
肩を撫でる男の分厚い掌を着物越しにでも肌で感じながら、蛍が、と吐息と共に零し隙間をぬって手を伸ばしてみる。
その手はもう一つの手で絡め取られてしまったけれども。
絡んだ手が、白い甲へ食い込んでいる。

「相変らず身請けの話は受けては・・・・」

「それは出来ません」

男が言い終わる前に、はっきりとした声が男の声を遮った。抱きすくめていた腕を緩め、何故だと男が問い詰めれば
困ったように笑いながらそれでも強い意思を持った眼差しを男へ向けた。

「出来ません。まだ、此処に居なければなりません」

「何故?」

向かい合った男は、僅かに語尾を強めて言った。それでも暖かな笑みを浮かべて、彼は男を見た。

「それは旦那にも言えないのです。お許しください」

笑顔を絶やさず、しかし、それ以上は聞いてくれるな、と暗に含ませて、彼は一歩身を引き
両手をついて頭を下げた。目先には規則正しく編みこまれた藺草。

「あぁ、そんなことをお前がする必要はない。言えぬと言う事を聞いた俺が悪い。頭を上げなさい」

衣擦れの音とともに、男の手が肩に掛かった。少し強めに押し上げるように抱く手に、彼は口元に
笑みを湛えて、ゆったりと身体を起こした。

「有難うございます」

「あぁ、そんな他人行儀な。そんな仲ではあるまいに」

引き寄せられ、首筋に掛かる男の生暖かい息とともに、くぐもった声が耳を撫でた。
背中を這い回る手をそのままに、白い腕を男の首に絡ませる。それを合図と取ったのか、男の手が
性急に動き出した。まるで獣のような息遣いが、身体を這う。

燈灯の灯り一つの仄暗い部屋と、焚き染められた香の匂い。
男を喜ばせるために、只管声を上げて、手足を絡ませる。

男の線香はそろそろ尽きる頃だ。

「雲水・・・、あぁ、雲水」

荒い息遣いの合間に名を呼ばれ、相手にどう取られるか気にもせずに、彼は剥き出しの男の背中に爪を立てた。


雲水

快楽と熱とにぼやける頭に、自分の名前を呼ぶ小さな姿が蘇る。

雲水

手を差し伸べてくれた。
傍に居てくれた。
温めてくれた。

あぁ、今何をしているのだろう。何処にいるのだろう。
いつだって一緒だった。彼だけが疎まずにいてくれた。

あぁ
あぁ

阿含

叶わぬだろうけれど、いつか見つけてくれないだろうか。

阿含


そうして、どうか、願いを聞き届けてくれないだろうか。

閉じた目の奥には、あの時の牡丹雪。
隙間から現れた細い幼い手。白い手拭い。
おやすみ、と微笑んでくれた笑顔。暖かく包んでくれた手。

阿含

小さく囁いた言葉が男に聞かれることはなかった。


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「双鬼」の過去話。
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