●新刊「AQUALOVERS」のサンプルです。

巨大ホテルグループ総裁の孫であるコンラッドは出張先での仕事の打ち合わせを終え、社への道を車で向かっていた。

 急いでいたわけではない、が不意に飛び出てきた自転車に急ブレーキを踏んだ。
 怪我をさせたのではないか!と慌てて車外に出ると、車の陰には倒れた自転車とうずくまる野球 ユニフォーム姿の少年がいた。
「君! 大丈夫か?」
「イテテ…、わりぃ、飛び出して」
「ぶつかったのか? 怪我は?」
「ああ、大丈夫だよ、危ないと思ってハンドル切ったからさ、転んだだけ。ゴメン急いでて、お れ」
「でも、これは交通事故だ、どこか怪我でもしてたら大変だから病院へ」
「そんな時間ないって! 試合に遅れそうなんだよ。っていうか、ぶつかってないし、おれが飛び 出したんだから気にしないで。じゃあ」
 少年は自転車を起こし、スポーツバックの埃を払うと前かごに放り込んだ。
「擦り傷ができてるじゃないか。分かった、試合会場はどこ? 俺が送って行くから、試合が終わったら一緒に病院に行こう、いい ね?」
「へ? ホント、マジ大丈夫だから! 離せって!!
 有無を言わせずに少年の手を掴み、車の助手席に座らせる。
「俺はコンラッド、君の名前は?」
「ども、初めまして渋谷有利です…って! 知らない人の車に乗っちゃいけないって小さいときか ら言われてんだよ! これじゃ誘拐!」
「知らない人、じゃないだろう? 誘拐なんかしないよ、ちゃんと病院に連れて行きたいだけ」
「確かに…高そうな車…うちみたいな普通の家庭から身代金取るほど困ってないみたいだけど…。 あぁぁ! あと10分だよ! 急いで市民球場まで!」
 有利にも分かる海外自動車メーカーのマークのついた、深緑色の車は不安気な顔の高校生を乗せて市街地の道路を走っていった。
 渋谷有利は、助手席でバックを抱えながら、車内の時計とにらめっこをしていた。
 ああ、置きっ放しにした自転車どうしよう。鍵もかけなかったから無くなってるだろうな。
 大体、今日は朝からツイてない。
 目覚まし時計は机から落ちて乾電池が外れていた。
 いつも迎えに来てくれる村田は修学旅行で北海道へ。
 おふくろはお友達と出かけるからと置手紙をして姿を消した。
 当てにはしてないが親父は急な出張で留守、兄貴の勝利は徹夜でパソコンに向かって入れ違いで ベッドに沈んだ。
 うちには誰もおれを起こしてくれる人がいなかったのだ。
 
 そして、これだ。
  
 ギリギリ間に合うかと思ったら車にぶつかりそうになって、拉致されてます。
 「ついたよ、間に合うか い?」
 ぶつぶつ焦った思考回路を落ち着かせようとつぶやいていた有利の肩を叩いた。
「あ! ありがとうございます、ホント、大丈夫だから! じゃ」
 きちんと誘拐もされず市民球場の入り口前にジャスト5分前到着したことに感謝して、頭を下げ るとみんなの集合するベンチへ急いだ。




0211発売「AQUALOVERS」に続く。





(c)Tsukasa Ichinose