《忌まわしい》
バビという男の支配するトレビの街は、アンガラ大陸で最も繁栄している街だ。一番の特色は、大陸中の強者の集まる武闘大会「コロシアム」だ。ここでよい成績を残せば、トレビの兵士になることも可能だった。
そういうわけで、コロッセオ開催中のトレビ、とかく賑やかである。人も多い。サテュロスたちが着いた時、トレビはまさにその状態だった。
その盛況ぶりに唖然としているサテュロス、メナーディ、ジャスミン、ガルシア。スクレータは懐かしそうに目を細めている。隙あればバビの宮殿に戻りたいが、サテュロスがそれを許すとは思えなかった。
そんな中で、アレクスだけが、様子を違えていた。
(人……ひと、ヒト……)
人の多さに唖然としているという意味では、確かに彼も同じであるように見えた。だが、彼の脳内に浮かんでいるのは、こことは別の場所、別の時のこと。
――アレクスは、囲まれていた。トレビと同じくらい大きな街でのことだった。広場で、噴水を背に、彼は囲まれていた。八方から、石が彼を襲った。そして、終いには……。
「っ……」
小さな呻き声がアレクスから漏れる。眉が、僅かにひそめられた。それに最初に気付いたのは、ガルシア。続いて、ジャスミンが気付き、メナーディが気付き、サテュロスに報告が行く。
「どうした?」
皆の視線が自分に集まっていることをきっかけに、どうにかアレクスは持ち直す。人を食ったような、いつもの笑みを浮かべた。
「何でもありませんよ。少し、驚いただけです」
その言葉を疑おうとする者はいない。ただ、ガルシアだけが、腑に落ちないらしい。
「サテュロス」
ややあって、ガルシアはある提案をした。
「俺とアレクスで、宿を確保しておく。先に情報収集をしておいてくれないか」
アレクスがいるからだろう、彼はあっさりと了承した。どうせ、お金はアレクスでも持っている。すぐに、彼らはジャスミンとスクレータごと、人混みに消えた。
――背中の傷が、疼いている。あのとき、アレクスは、背中を切られた。思い出したくない、忌まわしい、過去。
「んん…………」
再び、押し殺したような呻き声が漏れた。
眩暈がアレクスを襲う。くらくらしてきて、それがぐらぐらに変わる。サテュロスたちがいなくなっていることにも気付けないでいる。
「大丈夫か」
「!」
そこで自分の状況に気付いたらしい。アレクスははっとして、ガルシアを見……そのまま力なくその場に崩れた。
「おいっ……!」
条件反射で抱きとめるものの、彼の顔面は蒼白だ。意識が無いわけではなく、会話は成り立った。
「力が入らないんです……毒か何かにやられたみたいだ……」
「毒?」
しかし、そもそも彼は前線で戦っていない。それに、傷あとは見つからない。
ガルシアが困っていると、何人か、若い娘が声を掛けてきた。その多くは「大丈夫?」だったり、「何か手伝えることある?」だったりした。その中に宿屋の看板娘が娘がいたことが、幸いだった。彼女の案内で、歩くのもやっとのアレクスに肩を貸しながら、ガルシアは宿屋へ急いだ。
寝台に横たえると、アレクスは吸い込まれるように眠った。熱があるわけではない。傷は、背中に古傷のようなものがあったっきりだ。それは、毒を受けたにしては古すぎる。
「大丈夫かしら……」
と心配げなのは看板娘キグ。年頃の娘は、ガルシアより、アレクスに惹かれているようだった。事実、不謹慎だとは判っていても、苦しげなアレクスは、同じ男の目から見てもきれいだった。
しばらくして、アレクスは目覚めた。
立ち上がろうとすると、まだ足元はふらついた。どうしたというのか、自分でも判らない。この不調の原因が、かつてのモゴルでの出来事と関係していることは判っているが。
モゴルでの、忌まわしい出来事。過去。消し去りたい、忘れ去りたい、もの。
部屋の戸が開き、ガルシアと見知らぬ娘が入ってくる。
「目覚めたのか!」
ガルシアは、ほっとしている。看板娘が、慌てて引き返した。
「何か、栄養のあるもの作ってくるわ!」
寝台に座らせる。まだ少し辛そうだが、顔色は普段通りに戻りつつあった。
ガルシアは、口下手の部類に入る。だから、直球勝負を仕掛けた。
「どうした」
「……昔のことを、思い出したんですよ」
アレクスも、いつもの通り上手くはぐらかそうにも、適した言い回しを考えられないでいた。それほど、頭あるいは心が疲れていた。だからこの場にガルシアしかいないことは、幸いだったと思われた。
「背中の傷か」
「見たんですか」
「毒を受けていないか、心配だった」
だから外傷を探したと、そう言いたいのだろう。
サテュロスたちが戻ってくる気配はない。途中、キグが薬草粥を持ってきたのみで、誰も訪問者はいなかった。その部屋は6人部屋で、二人でいるにはやや広い。
「ガルシア……」
粥を食べ終わって、アレクスは、また頭がぼうっとしてくるのを感じた。崩れそうな身体を、ガルシアに捕まることで支える。どうやら、疲れは抜け切っていないらしい。ガルシアは、気を利かせ、窓を開けてやる。新鮮な外気を吸わせれば、頭もすっきりするだろうと踏んでのこと。
同時に舞い込んだ外の喧騒が、アレクスを締め付けるとも知らずに。
(人の声。ヒト。モゴル……ひとひとひとひとひとひと!)
――化け物!化け物化け物ばけものばけもの!
――去れ!消えろ!くたばれ!化け物め!!
無数の声がアレクスを排除する。
知らず知らず、ガルシアの服を掴む手に力がこもった。それが、ガルシアに失敗を教える。
「アレクス、お前……」
何があった。そう訊きたかった。アレクスは、それを許さない。
「ひと、は、怖い……わたし、は、ばけ、も、の、じゃ、な……い……」
「落ち着け!」
窓を閉め、喧騒を追い出し、彼の頬を軽く叩く。はっとして、アレクスが、疲れ切ったような瞳を向ける。
「ガルシア、あなたは、私を裏切りませんか?私を人だと認めますか?私を化け物扱いしませんか?」
一気にまくしたてる。彼の過去に何があったか知らないが、尋常でないことだというのは判る。
「私を恐れませんか?私を認めてくれますか?私を受け入れてくれますか?」
「どうすればいい」
「私を――」
皆まで言い切らぬうちに。
アレクスは、ガルシアの唇に、自分の唇を押し付けた。
「!!!!???」
ガルシアは、目を白黒させる。柔らかいものが自分の唇に当たっている!冷たくも熱くもない、ただただ柔らかい何かが!ついで、男と口付けているという事実に、おぞましさが募る!それでもアレクスのためだと思い、我慢する。泣きたい気分だった。やがて、閉じていたアレクスの瞳が開いた。瞳に、いつもの人を食ったような笑みを見つけた。
もう大丈夫だと認識した瞬間、おぞましさが最大値に到達した。ガルシアは条件反射のようにアレクスを突き飛ばす。
「なぁんだ、つれないですねぇ」
アレクスは、くすくすと笑っている。さっきまでの弱々しさが嘘のようだった。
「なかなかよかったですよ。あなたには目をつけてたんですよ、実は」
「………………」
汚らわしいものを拭うように(実際、汚らわしかった)、ごしごしと袖で唇を拭くガルシアの姿は、アレクスには滑稽なことこの上ない。
「拭いたって消えませんよ。この事実は」
硬直するガルシアの耳元に、アレクスは唇を寄せた。
「少し、楽になったような気がします。ありがとう」
「……うるさい」
アレクスは、そのまま部屋から立ち去る。その様子は、すっかりいつも通りに戻っている。男との口付けなど、思い返しただけで吐きそうだが……彼が元に戻ったのだから、まあいいか、と思い直したガルシアであった。
それに、アレクスが「ありがとう」という言葉を発するのは、きっと、最初で最後だ。