全てを捨て去ったと思っていた。

 夢を叶えるために、邪魔なもの、すべて。

 全てを。

 けれど、あの日、あの場所で。

 私はそれが間違いだったことを知った。

 私は、あなたを捨てることに、失敗していた。

 
 
―4―
 
 
 
 ピカードの命を救った「やめろ」の声は、確かにガルシアが出したはずだった。
 アレクスは、地に倒れ付すガルシアを見下ろしていた。
 ぐったりとしていて、動き出す気配はない。先刻のリターンのエナジーで、すべての力を使いきったかのよう。しかし、彼は、まだ意識を手放していない。その証拠に、あごを握り、顔を自分に向けさせると、ガルシアはこれ以上ないというぐらいの気迫を以て、睨みつけてきた。
 これ以上動くだけの余力など、とうに残っていないくせに。
 蔑みが、アレクスの唇の端を歪ませる。
「そうです」
 突拍子もない、しかしアレクスにとって楽しくて仕方がない思いつきは、天啓のように彼の脳裏に閃いた。
「眠っている間に考えていたのですが……一つ、あなたで試したいことがあるのですよ」
 訝しげに眉をひそめるガルシア。本当に、彼は、思っていることが顔に出やすい。そんな彼の恐怖が顔に出てこないのは、彼自身が、アレクスの言葉に一切の不安や恐れを抱いていない何よりもの証。それこそが、アレクスのやる気を奮起する。
「まだサテュロスたちが生きていた頃……初めてトレビに行ったときのことを。覚えていますか?」
 すっ、と。
 アレクスはガルシアの唇に、自らのそれを重ねる。
 ガルシアに、あらゆる反応をする暇を与えないほど、素早く。
 それでいて、唇は、まだ離さない。 
 驚きのあまり息が出来ないのか、ガルシアの表情が、苦しそうに歪んだ。それを十二分に楽しんでから、つ、と唇を離した。はぁはぁと、ガルシアの荒い息がアレクスの鼻に当たる。それだけの至近距離に、いた。

「回復して差し上げましょうか」
 施しを与えるメシアのように、アレクスは、軽く右手をガルシアにかざす。青い光が彼を包み、全ての痛みを消した。
 それでも、ガルシアは、自由に身体を動かすことは適わなかった。ガルシアの身体は、地面から生えた蔦にがんじがらめにされている。傷を癒すのと平行し、アレクスがグロウのエナジーを発動させたのだと、すぐに判った。ガルシアは、地のエナジスト。地のエナジーのことは、他のどのエナジストよりもよく知っている。
「いい眺めです」
 アレクスは、再び身を屈めた。
 唇が、触れ合う。
 二度目だからだろう。ガルシアは、先ほどより苦しそうな顔はしなかった。唇が塞がれていても、鼻で息が出来ることに、あるいは気付いたのか。アレクスにとっては、どうでもいい話だ。彼はただ、思い付きが成功するか否かにだけ関心があった。
 アレクスが行おうとしているのは、《魅了》だ。
 口付けを通し、唾液にのせて、アレクスは直に風と水の力をガルシアに注ぎ込む。ガルシアは、与えられたものをそのままこくんと飲み込むだけだ。反抗するすべなど、知らないだろう。あるいは彼に男の本能なるものが目覚めたとしても、だ。唇を奪われるのは、男の本分ではないゆえに。
 おぞましさにだろう、ガルシアは瞬きの回数をだいぶ減らしていた。そんな彼の代わりに、彼の服の下で、一つの石が鈍い光を発している。アレクスは、それに気づかない。濃い茶の瞳に、自分の瞳だけが映っていることに、単純に満足する。
(私を受け入れなさい、ガルシア)
 心で呼びかけるだけで、通じる。唾液にのせた風と水の力が、そうさせる。
(私に従いなさい、ガルシア)
 ぎゅっとガルシアは瞳を閉じた。
 それを合図に、アレクスは唇をずらす。首筋を強く吸い、所有の印を残していく。たまに甘噛みなどを織り交ぜてやると、おもしろいぐらいに彼は反応した。
 本当に、判りやすい男だ。
 アレクスは、ぱちん、と指を鳴らすことで、ガルシアの戒めを解いた。ぐらり、と前屈みになる彼を、親切にも支えてやる。そのまま、ガルシアはアレクスに身体を預けていた。鍛えられた身体は、どっしりとしたものに感じられる。戯れに、髪をなで、うなじに唇を寄せた。
 その様子は、男同士でおぞましいはずなのに、メアリィの瞳にはどこか哀しく映った。アレクスもまた、《魅了》の術に囚われているかのようだと、水晶の中で静かに思う。
やがて、ガルシアが目を開けたので、アレクスは真正面から彼を見た。
「私が誰か、判りますね?」
 ガルシアは、答えない。代わりに、ひどく緩慢に、頷いただけだ。言葉を話す術を忘れてしまったのだろうか。なにぶん、《魅了》なる技を行使したのは初めてで、勝手がよく判らない。そう簡単に解けるとも思えないが……。
「ふぅん……」
 目の前で手の平をひらひらと動かしてみても、芳しい反応はない。一種の催眠態にでも突入しているのだろう。つまりは、それが、《魅了》を受けた状態なのだと、アレクスは手前勝手に解釈することにした。よくよく見れば、瞳の焦点は、ぼんやりと鈍っている。若い乙女の恋に浮かされた瞳と、似ていないこともなかった。
「いいですか?ガルシア。あなたのマスターは、私です」
 判っているかそうでないのか判断しかねるが、判っていることにしよう。アレクスはそう決め、早速彼に一つ命じることにする。
「ここを出て、ロビンやジャスミンたちをここまで連れてきてください。一対二も楽しいですが、一対多数もまた、別のおもしろさがあるでしょうから」
 ややあって、彼は答えた。
「――仰せのままに」
 ふと、ガルシアは、果たして口付けごときでこうも簡単に魅了されるような男だっただろうかという疑問が、脳裏を掠める。ややあって、アレクスは嘆息した。《魅了》が解けたときは解けたときだ。別に、ガルシアを絶対に魅了したいというわけではない。
 ロビンたちをここに呼ぶために、ガルシアを使う。
 ガルシアがアレクスのしもべに成り下がったことを知れば、ロビンたちは大きな衝撃を受けるだろう。
(だから?)
 だから、何なのか。
 ロビンたちを呼んで、彼らを精神的にも肉体的にも追い詰めて、何をしようというのだろう。自分はただただ手にした力を振るいたいだけなのだろうか。
 ピカードとやりあったとき、しかし力を振るえた喜びに浸ったのは、今思い返せばほんの一瞬ではなかったか?
(当たり前ですよね)
 ふっ、とアレクスは笑う。
 自分の目的は、莫大な力を手に入れることでも、永遠の命を手に入れることでもないのだから。
(本当に私は、何をやっていたんだか……)
 求めたものは真実、それだけのはずだった。
 求めたものは、自分が《人》である証、それだけのはずだった。
 自分は《化け物》ではないと、《人》であると、そう証明したかっただけのはずだった。
 いつから間違ったのだろう。
 我に返ると、ガルシアの姿はない。命じたとおり、ハイディア村に向かったのだろう。
「……賽は投げられた。あとは、成り行きに任せるだけ」
 戯れに、アレクスは彼女に言う。
「ねぇ?リトル・レディ」
 水晶の中の彼女は、何か言いたげな顔をしている。
 
 その声は、届かない。
 彼の耳にも……心にも。