愛しいあなた。

 私の愛しいあなた。

 お願いだから、この子を助けて。

 この子を、飛ばしてあげて。

 どこか、戦のない、平和なところへ。

 私たちの分まで、どうかこの子を、幸せに……!
 
 
―6―
 
 
「ガルシアが、帰ってきたようですね」
 嬉しそうに言い、アレクスは水晶の前から離れた。
 彼の言葉通り、宙に光の渦が出来たかと思うと、ガルシアが姿を現した。アレクスは、彼を手まねで引き寄せると、その唇を掠めるように奪う。主従というより、ただたんにアレクスがガルシアで遊んでいるだけのような印象を、メアリィは受ける。
 水晶の中に閉じ込められて、どれだけの時が経ったのだろう。
 アレクスがピカードを殺す寸前まで追い詰めたことも、ガルシアをおぞましくそして哀しい手管で《魅了》したことも、彼女は見ていた。
 見ていた、それだけだ。
 彼女の意志は、誰にも届かない。
 特に、彼には。
 そう経たないうちに、ロビンとジャスミン、ジェラルド、シバの四人の姿も現れた。イワンの姿がないのは、負傷したピカードを介抱しているからだろうか。ピカードのことが心配で、メアリィの胸がちくりと痛む。
 どうして、アレクスは自分をこんな水晶の中に閉じ込めたのだろう。
(ねぇ、アレクス、あなたは何を考えているの?)
 彼女の戸惑いをよそに、水晶の外では時間が流れ行く。
「これはこれは、二人ほど足りないようですが、まずはお久しぶりです」
 アレクスは、ガルシアを側に控えさせたまま、上機嫌でそんなことを言っている。それに対し、ロビンはいきなり本題を突きつけた。
「お前の望みは何だ。ここにわざわざオレたちを呼び出して。それに……メアリィを出せ!」
 アレクスの答えは簡単だった。簡単すぎるほどに、簡単だった。
「ウェイアードを私のものにするためには、どこをどう考えてもあなたたちは邪魔です。メアリィをああして閉じ込めてあるのは、お人よしなあなたたちが、私と容赦なく戦うことが出来るようにですよ?どのみち、これから私がなすべきことのなかで、最大の脅威となりえるのもまた、ドゥームドラゴンを倒したあなたたちぐらいなものでしょうから」
 この空間で眠っている間、アレクスは力を飛ばし、外界のことを色々と調べていた。マーズ灯台で何があったのか、黄金の太陽現象のあと、世界がどうなったのか、あの誇り高き女戦士が絶えず気に掛けていた虚無の侵攻は止まったのか。そういった細々としたことを。
「今までは私はあなたがたを利用していただけでしたから、あなたがたと戦う機会もありませんでしたが」
 今は違う、とアレクスは笑う。
「先ほど述べたように、あなたがたを倒してからでないと、安心して目的達成に取り組めませんからね」
「お前がウェイアードの支配を望むのなら、オレたちは、全力で阻止する」
 ロビンは剣を構えている。
(やめて)
 メアリィは思わずそう叫んだが、事態には何の変更もない。悔しいぐらいに、何も。
(それは、本当にアレクスが望んでいることなの?)
「勝てるのならばね」
 アレクスは、傍らに控えさせたガルシアを、不意に後ろから抱きすくめた。肩に唇を寄せ、そして首筋を優しく噛む。そこから、染みるように風と水の力が彼の中に入っていった。《魅了》の力を強めたのだと、メアリィにはわかった。ジャスミンが、ひたすらに目を見開いている。掛けるべき言葉に迷い、その意を汲み取ったシバが代弁した。
「忘れてたわ……ガルシアに何をしたの」
 答える代わりに、アレクスはガルシアから身を離し、命じた。
「ガルシア、皆さんのお相手をしてあげて下さい」
「……仰せのままに」
 短く答え、ガルシアはソルブレードに手を掛ける。すらり、と鞘から剣が抜かれた。切っ先が、アレクスではなくて、更にはジェラルドやシバでもなくて、ロビンに向けられる。
「そう、あなたは賢い。よく覚えていましたね」
 アレクスは、ガルシアの髪を少し口に含んだ。
「私の敵はロビンとあなたです。あなたを損なうために、まずはロビンを倒しなさい」
「ガルシア!」
 たまらなくなって、ジェラルドが叫んだ。
「お前、なんだってアレクスなんかの言いなりなんだよ!」
 ガルシアは聞く耳を持たなかった。ジェラルドの声を戦闘開始の合図代わりに、動き出した。狙うのは、ロビン。ガルシアから攻撃を受けるという事実を上手く飲み込めていなかったロビンには、若干の隙がある。それだけで、ガルシアが攻撃するには十分すぎるのだ。舌打ちし、ジェラルドは二人の間にフレアを発動させた。
 炎に怯むガルシアを、アレクスは叱咤する。
「ガルシア。私が何を考えてあなたに風と水の力を与えていると思っているんですか」
 ガルシアは無言のままだ。アレクスの言わんとするところを理解したか否か、それはガルシアにしか判らない。まるで、ガルシアは言葉を忘れてしまったかのようだった。案外《魅了》は使いづらいものなのかもしれない。冷静に、アレクスはそう認識する。もっとも、彼が《魅了》されているという事実と、自分が彼に唇を寄せたのを見て、ジャスミンは多大なる衝撃を受けている。今の彼女を倒すことは、たやすい。アレクスは、ガルシアが戦いやすいように、他の三人の相手を引き受けることにした。
「あなたたちの相手は私がしますよ、もちろん」
 しかしながら、ジャスミンの反応は激烈だった。
「フュームドラゴン!」
「っ!」
 真正面から炎の竜の突撃を受けて倒れるアレクスに、ジャスミンは昂然と言い放つ。
「よく判らないけど、アレクスを倒せば兄さんは元に戻るんでしょ」
 兄の様子に何の動揺もしたいないとでも言いたげだ。それがただの虚構であることに気付けたアレクスは、喉の奥でくつくつ笑う。
「……そりゃあ、そうでしょうねぇ」
 ガルシアを満たす風と水の《魅了》の力は、アレクスのものだ。アレクスを倒せば消えるだろう。それは、自明の理だ。
 アレクスはジャスミンとシバの相手をしながら、ロビンを補佐しようとするジェラルドを牽制した。よって、ガルシアとロビンは事実上、一騎打ちとなる。
 三対一でもアレクスの優勢は変わらなかった。炎が来れば水で散らし、風からは大地の力で身を護った。アレクスが注意すべきなのは、ジェラルドとジャスミンから繰り出される剣の切っ先だけだ。それにしたって、ジャスミンの剣には隠しきれない動揺が宿っている。表情や仕草に動揺の色を隠せても、剣まではそうはいかないのだ。ジェラルドの剣は、怒りのあまりだろう、がむしゃらだ。よほど油断しないとその切っ先がアレクスを傷つけることはないし、事実、アレクスは最低限の警戒を怠るほど愚かではなかった。
 一方ではガルシアとロビンが戦っている。
「どうしたってんだよ!」
 剣とともに叩きつけられるロビンの言葉に、ガルシアは一切の反応を示さない。
 《魅了》を受けた彼にとって、今はただ、マスターの指示に従うだけだ。それ以上のことはしないし、する必要もない。
 それをロビンが理解するのに、結構な時間が掛かった。
 その間も、戦いは続く。
(やめて)
 メアリィは、水晶の中で祈る。
(もうやめて。どうして戦うのです。アレクス、あなたの目的は世界の支配ではないでしょう?)
 戦いを前に、目を閉じてしまいたい衝動に幾度駆られたことだろう。自分だけこうして閉じ込められていることに、メアリィは恥じ入った。目の前ではかつての仲間たちが激しい戦いを繰り広げているのに、自分だけ、こうして安全な場所にいる。そう、水晶の中では、自由が奪われている代わりに、彼女に危害を加えるものは一切なかったのだ。
 誰も彼も、傷ついている。
 ロビンもジャスミンもジェラルドもシバも、幾つもの傷を受けている。
(みんな、みんな傷ついている……アレクスでさえ)
 浮かされるようにそう呟いて、メアリィははっとした。
 今、自分は何と言った……!?
(アレクスもまた、傷ついている……!?)
 ジグソーパズルの最後のピースが見つかったような感じがした。メアリィの中のどこかで、かちり、と何かが嵌る音がする。瞬間、メアリィは悟った。この場で一番傷ついているのが誰なのかということを。
 有り余る力に、我を忘れている者を。
 自分の望みさえ、見失いかけている者を。
(やめて)
 メアリィは、一心に彼を見据えた。
(もうやめて、アレクス。あなたの望みはこんなことではなかったはず。それに、これ以上戦っても、真に傷つくのはあなたです)
 全ての属性の力をほしいままにしているアレクス。そのことは、彼が考えている以上に、彼の身体に負担をかける行為だ。そもそも、生まれもっていない属性を扱うことは、精霊ジンの力を借りてようやくできること。生身の人間では、その負担は重過ぎる。
(やめて)
 メアリィは、何度でも呼びかけた。
 良く考えてみれば、自分の声が彼に届かないはずはないのだ。この水晶は、彼の作り出したもの。何の反応もないのは、彼が自分の声を無視しているから。だったら、何度でも呼びかけてやるんです、とメアリィは息巻く。
 生きていたアレクス。
 三年間帰りを待っていた、人。
(わたくしの大切な人。わたくしの……いとしいひと)
 戦いは進み、仲間たちの傷は増えている。
 ガルシアとロビンでは、どうしてもロビンの方が劣勢だった。ガルシアを相手にするためらいが、彼の剣を鈍らせている。他方、今のガルシアには心がない。命じられたとおり、全力を以って、ロビンを倒そうとしている。
 メアリィは、みたび、アレクスに呼びかけた。
(やめてください)
 想いは、言葉に乗って心から、唇から、溢れゆく。
(わたくしは、あなたが傷ついているのを、もう見たくない……)
 アレクスの動きが、一瞬止まった。
 その隙にジャスミンが剣を振りかぶって体当たりを仕掛けてくる。
 すんでのところで身を躱したものの、頬から一筋の血が舞った。
「つ……」
 乱暴に血を拭うと、アレクスはジャスミンを突き飛ばした。
「デンジャフュジョン!!」
 最大限に危険な爆発が、ジャスミンと、次なる攻撃を控えていたジェラルド、そして援護に回ろうとしていたシバを、地面に叩き付けた。アレクスは、即座に次の攻撃に入る。彼は水の力を体内で練り上げた。それを、一心にジャスミンにぶつけようとする。
 ガルシアと戦っていたロビンは、アレクスの攻撃を見逃さなかった。防ぐには手遅れに見えたそのエナジーからジャスミンを護るため、ロビンは走り、彼女とアレクスの間に身を滑らせる。
「アクアスプラッシュ!」
 ジャスミンを押し潰すはずだった水圧は、ロビンのお陰でかなり弱められた。代わりに、ロビンを痛めつけている。攻撃がやんだとき、ロビンはゆっくりと地に滑り込むようにして倒れた。ガイアの剣が地に落ちる。
「ロビン!」
 悲鳴をあげたのは、ジャスミンだったかシバだったか。
 次の攻撃に入ろうとして、アレクスはぐらり、と視界がかしいだのを感じた。倒れそうになるのを、慌てて押し留める。次の攻撃の機は逸してしまったが、まあいいと、自分に言い聞かせた。
 アレクスの力が一瞬とはいえ弱まった瞬間でもあった。メアリィは、この好機に、水晶に内側から触れた。少しだけ力を込めて、押してみる。彼女の期待する前で、水晶には細かな亀裂が走り、気がついた時にはもう粉々になっていた。
 頭を振り、髪に残った水を振り払う。そして目を開けると、アレクスがこちらを見ていた。
「リトル・レディ……どうしてあなたは!」
 唇を噛み、アレクスは振り向きざまにガルシアを呼んだ。
「目的変更です。ロビンは、もういい。……彼女を倒しなさい」
 アレクスの敵意が自分に向いたことを、その言葉は教えてくれた。
 なぜだろう、それでもメアリィはちっとも怖くないのだ。
 まるでリードを使ったかのように、その言葉がアレクスの本心からの言葉ではないことが、判ってしまったのだ。
 意外なことが起きたのは、そのとき。
 アレクスの支配下にあるはずのガルシアが、動きを止めたのだ。更には、その瞳が揺らいでいる。
 アレクスは忌々しそうに言い重ねた。
「どうしたというのです。あなたのマスターは私だと、確認したでしょう。いいからメアリィを倒しなさい」
 ガルシアは、ひどくゆっくりとではあったが、剣を鞘に仕舞った。
「従えない」
 そうとだけ言って。
「どういうことです」
 《魅了》された状態で、反抗できるほどの強靭な精神を、ガルシアは備えているとでも言うのか。
 だが、ガルシアの従わない理由は、もっと別のものだったのだ。
「マスターは、それを、望んでいない」
 
「それは、どういう――……!?」
 
 くるりと振り向いたガルシアは、倒れているロビンの方に歩み寄り、手をかざした。土が集まり、槍の形を成していく。エナジーでとどめを差そうというのだろう。それはそれで構わなかった。ジャスミンたちが必死にガルシアを止めているが、今の彼には何の効果があるだろう。
 なぜガルシアが命に従わなかったのかが、ただひたすらに判らない。
 自分はメアリィを殺せない?
 メアリィを倒すことは、できない?
 彼女を、損なうことは、できない?
 アレクスは、小さく舌打ちをすると、氷の剣を作り出した。ピカードにとどめをさそうと先刻作り上げたものと良く似ている。細くて、鋭くて、美しい軽い蒼の剣だ。剣を使い慣れていないアレクスには、重い剣は使えない。
 すっ、と、空気を切る音がする。
 次の瞬間、自分の喉もとに突きつけられた剣の切っ先に、メアリィは少しだけ目を丸くした。
 それだけだ。
 メアリィは、避けようとも、アレクスを止めようともしなかった。ただ、真っ直ぐにアレクスを見つめていた。何か言葉を発することもなく、静かに、しっかりと、見つめていた。彼女の瞳に囚われたかのように、アレクスも動けなかった。このまま彼女を殺してしまえば、すべての逡巡は終わるというのに、それでも。
 思えば、メアリィこそが、自分の最大の敵だったのではないか?
 ロビンは、強かった。今はやや弱くなっていたが、それでも、まだまだ強い部類に含まれるだろう。
 ガルシアは、強い。今でこそ《魅了》で自分に従っているが、もし一対一で戦ったら、苦戦必至となるだろう。
 では、メアリィは。
(私は、メアリィを殺せないのですか……?)
 判りきっていたこと。
 ジュピター灯台で、彼女を助けようと思ってしまったときに、気付かされたではなかったか?
「…………………………」
 一方、ガルシアは今にもロビンに止めをさそうとしているところだった。ジャスミンやジェラルド、シバは動かない。ガルシアが、スリープのエナジーで眠らせたのだ。アレクスが与えた風と水の力は、ガルシアの持つ石のお陰で増幅され、シバさえも赤子の手をひねるように簡単に、眠らせた。
「オレを殺すのか」
 水の攻撃のせいで動かない身体を、ロビンは厭わしく思う。身体はただただ痛みを訴えるだけで、意識を保つことさえも邪魔している。
 ガルシアの瞳を見据え、ロビンは、彼の瞳の中に映る自分が、ひどく頼りなく、嘘っぽく感じた。
 終わりだ。
 アレクスにやられるより、ガルシアの手に掛かるほうが、まだマシだとロビンが半ばやけくそに思った、その、刹那。
 声がした。
 本当に、突然声がした。
 その声は、この緊迫した場にそぐわないほど落ち着いている、少し低めの女の声だった。
 彼女の方を見ることは出来なかったけれど、どうやら彼女は呆れているようだった。
「何をしているのです、ガルシア」
 それが、誰の声かを認識するより早く、ロビンは目を閉じた。
 すぅっ、と意識が大地に吸い込まれていくような感じがした。