こうしてメアリィとアレクスは、イミルの村を後にした。
「今日はここまでですね」
町を目前に、アレクスはメアリィを振り返った。
そこは、名も知らない町だった。アテカ大陸の北の方に位置する町だ。アレクスの出生を調べるためのこの旅で、最初に立ち寄ったのがアテカ大陸だった。
「この町で一泊しましょう。疲れたでしょう?」
メアリィはふるふると首を横に振る。そんなことはないのだ。旅をすることには慣れているがゆえに。ただ、確かに疲れを感じていた。それは、彼と二人きりという状況に。慣れていないから。旅をしていたときは、男3人と一緒でも何も感じなかったのに……彼の前だからか、メアリィは妙に落ち着かない。
「……どうしました?」
「い、いえっ!」
彼女の瞳を真正面から覗き込むアレクスの瞳には、どこかからかいの意図が含まれている。
「そうですか。疲れましたか」
アレクスは急に相好を崩す。そのままごく自然に手を差し伸べる。
「では、私の手を取るといいでしょう。宿までご案内しますよ」
「……!」
ますます真っ赤になるメアリィ。対照的に、アレクスの笑みはますますからかいを含んでいく。
「アレクス!いい加減に……」
その瞬間だ。
彼女の背後から、魔物が牙を剥いて襲いかかってくる。アレクスは間髪入れずに彼女をぐいっと引き寄せると、魔物に左手をかざす。
「アイスミサイル!」
氷の刃が魔物を襲う。しかし、どういうわけか、当たる寸前に霧散する。水のエナジーが効かない敵なのだろう。アレクスは、再び向かってくる魔物に、再び手をかざす。水が効かないなら、炎は効くはず。それが戦いの定石。では、何にしよう。ビーム……では弱すぎる。スクランブルビームは……使えない。
「どうしたの?」
メアリィがみじろぎする。アレクスは右腕で彼女を強く抱き締める。
「アレクス?」
「魔物ですよ……サイクルビームっ!」
一筋の炎が魔物を貫こうとする。今度こそ、魔物の弱点を突いたせいだろう、それは霧散した。
そこで状況を理解するメアリィは、ほっとする。
それも束の間、アレクスは彼女を離すと、その場に力なく膝をつく。
「アレクス……」
使い慣れぬ炎のエナジーが、必要以上に彼の体力を削る。アレクスとて、十分に判っていたこと。されど彼女は、申し訳なさで胸を締め付けられる思いがする。
「わたくしが倒しましたのに」
「奴は、水の力の、効かない」
「わたくし、メイスを扱えます」
「…………」
それは知っているが。アレクスは荒い息のまま、苦笑した。その笑みに、思わずどきんとする。こういうときの彼の笑みに、偽りはない。
しばらくすると、アレクスはどうにか落ち着いた。その笑みは、また、あのからかいを含むものに戻っている。その間、彼女はずっと肩を貸していた。
「そんなに私が心配ですか?メアリィ」
「当たり前ですわ!」
つい言い返し、今度は真っ赤になる。そのままそっぽを向いた。
アレクスは、本当の感情を、中々表に出さない。
丁寧な口調に、柔らかな物腰。人当たりはいい方だろう。しかし彼は、自分の中に他人を入れようとはしない。あの旅の時だって、灯台を灯すことだけしか考えておらず、そのために皆を利用した。そうして彼は、そのことをあまり気にしていなかった。
彼が気にしていたのは、むしろ……。
(わたくし、幸せよね)
メアリィはぼんやりと思った。
アレクスが唯一接近を許す相手が、メアリィだ。同時に、彼を最後まで苦しめたのも、彼を許し、救ったのも。アレクスが唯一気に掛けていたことが、他の何でもない、自分のことだったのだ。
寝台に腰掛けてぼんやりしていると、アレクスがやってくる。二人は、同じ部屋に泊まっている。さすがに、寝台は別である。路銀は節約するに越したことはなく、さらにメアリィはあの旅のおかげで男の人と同じ部屋に泊まることに、何の抵抗もない。
初めて二人で宿に泊まるとき、
「同じ部屋でお願いしますわ」
と宿の主人に告げた彼女に、アレクスはかなり素で驚いていた。
やってきたアレクスは、マントも上着も着ていない。
「メアリィ、この宿は、湯が使えるようですよ」
ああ、それで軽装なのか、とメアリィは納得。
湯を使えるのなら、自分も湯浴みをしておきたいところ。メアリィはマントと前掛けを外した。
「わたくしも使ってまいりますわ」
「のぼせないように気を付けてくださいよ」
「あら……わたくし、そんなに子供じゃありませんわ」
アレクスは、ひとり残される。
しばらくして、メアリィが戻ってくる。
「マントとか、洗っておきますか?」
アレクスは彼女を見るなり、そう切り出した。メアリィは首を横に振る。
「まだいいでしょう。明日、出発すると言ってませんでした?」
「では、そうしましょうか」
それきり、しばらく会話が途絶える。
メアリィは、いつものように所持品のチェックを始めた。エナジークリスタルは、旅立ってすぐハイディアに寄ったとき、ガルシアに頼んでかき集めてもらった分だ。14個もあるが、全ては万が一のときのためのもの。薬草や毒消し草の類も少しとは言え、入っている。もっとも二人とも、癒しの力を使えるため、使用頻度は限りなく低い。二人が大した荷物も無く旅ができるのも、その力のお陰であった。
「足りないものはありましたか?」
とアレクス。
「大丈夫ですわ」
メアリィは答えながら、リュックを彼に返した。
アレクスは、永遠に近い命を持っている。死なないわけではないが、老わないのである。未来永劫、その姿のままだという。
「そういえば……」
アレクスが彼女を見た。
「アレクスは、わたくしが死んだら、ずっと一人になるのですよね」
「そうですね」
「それって……寂しくありません?」
どうしようもないことではある。
しかし、一度言葉に出したことで、メアリィは急にそのことが気になった。こうしてアレクスに付いていくのは、自分がアレクスの側にいたいから。同時に、アレクスが望んだことでもある。二人は、兄妹であり、恋人のようなもの。しかしメアリィは普通の人間で、アレクスに比べれば、その命はとても短い。
「それは……」
アレクスは、笑った。
「承知のことですよ」
メアリィが自分に付いてくると言って間もなく、アレクスはその厳然たる差に気付いた。ごく当たり前のように最後まで彼女が傍にいると、喜んでしまった自分が馬鹿らしかった。けれど、もう、どうしようもないこと。アレクスは、なるべくそのことを考えないようにしていた。今、こうして彼女が傍にいることだけでも、奇跡であり、十分喜ばしいことだから。
小さな小さな再発した葛藤を気取られぬよう、アレクスは問い返してみる。
「それとも、あなたも永遠に近い命が欲しいのですか?」
「どうしようもないことだとは、判っていますけど」
メアリィは、どこか悔しそうだ。
「………………」
ややあって、アレクスは、呻くように呟く。
「この命、あなたに分けられないことも無いのですがね……」
「ええっ?」
メアリィの驚く、その一瞬に。
ずいっ、とアレクスは彼女に身を寄せた。
「!」
思わず息を呑む彼女の瞳を、真正面から見つめる。
そう、方法が無いわけではない……《永遠に近い命》を半分にし、目の前の娘に分け与えることは、不可能ではない……けれど、同時に不可能に限りなく近いことでもある……。
メアリィは、アレクスの不可解な鼓動に、すっかり舞い上がっている。いつも傍にいるとは言え、こういうふうに見つめられたことは、殆どない。アレクスのほうは何の抵抗も見て取れないが、彼女はどきどきするしかない。
長い間、アレクスは彼女の瞳を見つめている。その口元には、いつものからかいを含んだ笑み。他方、メアリィは段々余裕がなくなっていく。遂に、ぎゅっと目を閉じてしまった。
(ほら、やはり不可能だ)
ふぅ、とアレクスはため息。身体を彼女から離す。
「やはり、まだ無理なようですね」
メアリィは、恐る恐る目を開ける。
「な、何を……」
「私の血を飲めますか?」
唐突な問いだ。
「血!?」
「血です。それも、なるだけ空気に触れないように……できますか?」
「どうするのです?」
「私に口付けて、そのまま離さずに私の舌を少し噛むのです。なに、ほんの一滴で事足りますよ」
なんてことを、アレクスは平気で言う。
「…………」
いきなり示された刺激的な話に、メアリィは眩暈のする思いがした。
アレクスに口付けて、舌を噛む……?彼の血を、飲む……?
「い……痛くないのですか?」
自分の口をついて出た質問に、彼女本人が慌てる。自分でも、そう言うつもりは無かったのだ。しかし、他に何と言えばいいのかも、判らない。
アレクスは、にこにこだ。
「痛くなんかありませんよ、あなたと共に永い時を過ごせるのならば」
何のていたらくもなくそう言い放つ。メアリィはというと、もう、顔を赤くするしかない。
「……わたくし、先に寝ますわ」
妙に疲れを感じ、メアリィは寝台に倒れ付した。そんな彼女を、アレクスは優しく見守る。
「…………だから、まだ無理なようだと言ったんですよ…………」
望んでいないのか、と訊かれれば、ノーだ。彼女と永遠に共に生きたいと思う自分は確かに存在している。永遠の命を得ることは、人の域を超える行為。どんなリスクがあるかは、今のアレクスには判らない。
自分ひとりだけなら、どんなリスクでも構わない。自分が何者なのかを知ることさえ、出来れば。そうではなくて、そのリスクにメアリィを巻き込みたくないという気持ちがある。ただでさえ、個人的な旅に付き合わせているというのに。
つまり私は、一人になりたくないだけなのです。アレクスはそうひとりごちた。おかしな話だった。錬金術の開放を目的に旅していたとき、確かに一人でも大丈夫だった。むしろ、他人と群れることは、嫌いだった。
だというのに。
「本当に、あなたは……末恐ろしいレディでしたね。私にとって」
勿論、メアリィは寝ていると思い込んでの発言である。彼女が拗ねたまま狸寝入りをしているとは、よもやアレクスも気付かない。メアリィは、再びどきどき高鳴り始めた胸の鼓動がアレクスに伝わらないようにと、ひたすら神に願っていた。
アレクスの独白は続く。
「どうして、あなたを傍に置いてもいいと思ったのでしょうね、私は。あなたさえもいずれは私の前から去ってしまうというのに。私は……私は……贅沢、なのでしょうね」
どうしてだろう。
その独白が、彼女の心をわけもなく締め付けた。だから、だろう。
「何が、贅沢なのです?」
メアリィは、そっと訊く。アレクスが、弾かれたように顔を上げる。
「聞いて……たのですね――」
「ええ」
さも当たり前のようにメアリィは頷いた。しかし、その顔はどこか赤い。
ややあって、アレクスはふっと笑う。
「何がおかしいのです!」
過敏に反応するメアリィ。ますますおかしくて、アレクスは大いに笑った。かと思うと、ふっと真顔に戻る。
「こちらへいらっしゃい、メアリィ」
「………………」
言われるがまま、メアリィはアレクスの方へ進む。
瞬間。
ずいっ、と。
「アレクス!?」
「嫌ならば、そう言いなさい。私は一向に構いませんから」
そう言われても、メアリィは彼の腕の中である。言葉とは裏腹、アレクスの腕にこもる力は強い。
このまま口付けられるのだ、と思った。どのみち、この距離で逃げられるわけが無い。それに、アレクスは拒絶してもいいと言ったが、そんなの論外だ。このまま、身を任せよう。メアリィは、瞬時にそう決意した。アレクスは自分を求めてくれるのだし、彼と同じ時を生きたいと願ったのは、他ならぬ自分自身なのだから。
アレクスの表情は真顔のままである。
そっと、目を閉じるメアリィ。それを抵抗とみなさなかったアレクスは、ぐいっ、と彼女の唇に自らのそれを重ねる。
「ん…………」
冷たい唇が触れている。メアリィの唇から、微かな声が漏れた。構わず、アレクスは彼女の口唇を割って、舌を差し入れる。そのまま、しばらく待つ。迷っているのだろう、少しの硬直の後、舌に小さな痛みを感じた。自分の血が流れ出していることが、よく判る。メアリィはそれを、こくり、と飲み込んだ。
瞬間、彼女の体が一瞬だけ黄金色に輝いた。
これでいいでしょう。
心の中で呟き、アレクスは舌を戻すと唇を離した。僅かに血の味が残っている。
メアリィはぼんやりとしていた。そんな彼女の髪に、アレクスは触れた。優しく優しく、あやすように撫でる。
「アレクス…………」
メアリィは、夢見心地のような瞳で彼を見つめていた。秘めやかに、静かに。
そう、私のレディはこんなにも傍にいる。
この事実は、きっと、これからも、変わらない。