荒野の彼方から、風が来る。
とても強い。金具でしっかり結わえたシエロのドレッドが、軽く浮かび上がるほどに。
水色の髪の少年は、風の生まれる方向に、目を凝らす。
風はこめかみのほつれ毛も揺らし、小さな生き物の羽根の震えに似た音を立てる。
それはまるで風自体の囁き声のようだった。
風が意志を持つなら、今、いったい何と問いかけただろう。
こんな強い風は、初めてだ。
正しくは。
――こんな強い、自然の、風は。
シエロの記憶にある、人々が住む街は、必ず鈍色で、しとしとと雨が地を濡らしていた。
水滴は重く、肌にすがるように張りつくのだけれど、服の中に染みこむほどの気力はなさげに、すぐに萎えて足下に落ちる。
その雨が、死んだ人間の残骸だと知ったのはいつのことだったろう。
記憶を探りながら、彼は、乾ききった建物の一部とおぼしき瓦礫に片足を乗せ、再び風の生まれる方向に目を凝らす。
この街に雨の痕跡はない。
ならこの風は彼の地での雨の代わりだろうか。
この風もまた、人間の残骸なのだろうか。
風の生まれるその手前には、夥しい数の人型の石が、絶望と狂気の表情を伴って、シエロを出迎えていた。
いましも動きそうな姿勢。しかし、一体たりとも動くことはない。その石の足が、半ばで欠けているからではなく。動けないのは、彼らが悪魔でないから。人間の魂を持ったまま、凍りついたから。
空から吹き降りる風は、人石を鋭くえぐって粉にしていく。シエロがかつてよく知っていた街の屍体が、雨にゆるゆると溶かされ、消えていくのに、とても似ている。
彼の街――ジャンクヤードと呼ばれていた――の地下には、大きな地下水道があった。溶けた屍体は、その澱んだ河を通り、サハスララに建つ教会の地下の巨大なドラムへと、流れ込んで行く。
そこで、屍体は、生まれ変わるのだ。
新しい人として。
「…生まれ、変われるのかな?」
シエロは呟く。
ここの石も、再生されるのだろうか?
…いや。
すんでのところで石化を逃れて、地下に避難しているの人々の絶望を思うと、ことはそんなに単純なことではないように思えた。
この砂が、例えばどこかに集められ、そこで新たに人として生まれ変わったとしても、地下の人は誰も喜ばないに違いない。
自分の子どもが、恋人が、家族が、石化される前の姿そのままで戻ってくることが、なにより一番重要なことなのだ。
「…恋人が」
シエロは、足下に目を落とす。石と同じ色の砂が、さらさらと風紋を描きながら小さなつむじ風と一緒に舞い踊っている。
つむじ風。ツイスター。
屍体を弄びながら渦を巻くその姿に、緑衣の悪魔を連想する。
「どうした。シエロ。何をしている」
小さな風を蹴散らして、背後から人影が射す。
「俺が敵であれば、今、おまえは間違いなく死んでいた」
硬質な声。
シエロに近しい、本物の、緑衣の悪魔だった。
「ゲイル」
シエロが、別の世界にいた時、彼も共にあった。
人であった時から。そして悪魔になった後も。
ゲイルのまなざしは、他の仲間たちよりもいつも遠くに、そして、高みにあった。
翼を持つなら、ゲイルの方がふさわしいのに。
シエロは、自分が悪魔になった時の姿を思う。
悪魔の感染を受けた瞬間、彼は一散に天空に舞い上がり、血と肉の飛び交う修羅場を眼下に見た。
天に駆け昇ったのが、ゲイルだったら。
ジャンクヤードに於ける自分たちの『群れ』の参謀だったなら、あの時一体何をしただろうか。
背後に現れたゲイルを、シエロは振り返る。
その瞬間、ゲイルは拳を突き出した。シエロのこめかみが、また、風を切り、音を立てた。
「用心しろ」
この拳が敵のものだったら、確かにシエロは死んでいた。
そして、参謀の繰り出したものが、拳ではなく、悪魔の踵であったなら、更に確実に。
――死か。
この地で、自分たちのような者どもが死んだら、屍はどうなるのだ。
流れる雨がない。地下で反政府運動をしている生き残った人々の弔いもない。
「ちょっと、飛んでみようかと、思ったんだ。このニルヴァーナの全部を、見渡してみたかった」
世界の果ては、どこにあるのか。ここでの命のドラムは見つかるのか。
ドラムが見つかるなら、シエロはそこの砂をかき集めてみたかった。
もしかしたら、と思ったのだ。
そこの砂とジャンクヤードの雨は、実は生き別れたひとつの海なのではないだろうか。
ふたつを合わせたら、セラの夢の館でかいま見た、船の浮かぶ青い海が現れるのではないだろうか。
その青い海こそ、本物のドラム。人々の生まれる源なのではないだろうか。
ジャンクヤードが、0と1とにちりぢりになって消えて行ったのは、確かにこの目で見た。でも、自分たちが今、この大地に立っていることを考えれば、あちらの雨の欠片さえ持ち込めていたなら、海の再生も夢ではなかったのかもしれないと思ってしまう。
妄想だと、理解していた。
俺が、バカだから、これくらいしか考えられないんだ、とシエロは思っていた。
「でも、空を飛べるのが、ゲイルだったら」
きっと、もっと、別の、何かを得て。
そして、答えを探れるのではないだろうか?
目の前の悪魔は、何も言わない。
何も言わず、シエロの身に、覆い被さってきた。
厳かな緑衣の悪魔の、硬質な体温。
いつかのように、シエロは逃げることはない。
彼は目を閉じる。
どこからともなくつむじ風が舞い立って、シエロの髪と、身体とを揺らす。
――
「大丈夫か」
ゲイルの声が耳元で聞こえて、シエロは目覚めた。
無機質な白い回廊。一瞬どこにいるのか考えた。
少しずつ記憶が甦ってくる。
カルマ協会本部。その内部に入りこんだところだった。
そして、シエロは、ゲイルに背負われていた。
「…俺?」
「すまんな。おまえの『呪い』を解いてやれなかった。敵を倒すと同時に、戦闘不能になった」
思い出した。
「いいって。それで、ゲイルが?」
自分でディアをかけることもできたが、ゲイルが立ち止まろうとしなかったので、そのまま背負われていた。
サーフとアルジラが、前を歩いている。今のアニキの知覚なら、後ろから襲ってくる敵にも、事前に気づけるはずだ。
夢の細部も、また甦ってきた。
つじつまのあわない夢だった。
シエロが、人型の岩を見たのは、ニルヴァーナに墜ちてすぐの頃だった。――ニルヴァーナは天高くそびえ立つ場所にあると思っていたのに、『墜ちる』とはなんたる皮肉!
ゲイルたちと合流していないばかりか、ロアルドたちローカパーラに出会ってもいない。
当然、岩の謂われなど、知りもしない。
けれど、夢のシエロは、全てわかっていて、岩を眺めていた。そこに風の化身ヴァーユになったゲイルが現れた。
夢の中の緑衣の悪魔の、硬質な体温を思い出す。
それは、このゲイルの背中。トライブスーツ越しの体温だった。彼の保護帽が頭にひたひた当たる感触を、ヴァーユの蟷螂のような羽根と取り違えたらしい。
敵地のただ中で、とろとろと夢のことなど考えている自分が、シエロはおかしくなった。
そして、幾たび触れても、変わらずに大きく逞しい、ゲイルの背中。
「俺、簡単に背負われるくらい、ちっちゃいんだな」
小さく嗤う。
「俺がさ、ゲイルくらい大きかったら。ディアウスの羽根だって、もっと、長く頑丈で…いや、違う」
夢の中で考えたことなのに、いきなり、口に出た。
「ゲイルがディアウスだったら、よかったんだ」
緑の悪魔のうすい翅。飛べないことの方が不思議なんだとシエロは思った。かまいたちを起こしながら、敵を切り裂く彼が飛翔したら、どれだけ俊敏な凶器となることだろう。そして、怜悧な頭脳。
棘のような寂しさが、シエロをかすかに突いた。
そこから生まれた身じろぎを、ゲイルは解したのだろうか。
ゲイルの背骨が揺らぎ、接したシエロの胸に、彼の低い声が直接響いてくる。
「俺には、飛ぶ、勇気はない」
勇気?
「おまえは、強い。天から血の戦場をつぶさに見ながら、揺るがない。俺はシミュレーターだ。仮想の駒を操作することしかできない」
そうなのか?
そんなことはない。ゲイルは実戦でも有益に働いている。ルーパとの会見の時も。ローカパーラと渡り合った時も。
「考えすぎて、動けないことがある。飛ぶのは合わない。飛んだ後のことを考える。怖じ気づいてしまうのかもしれない。一度は、飛び出してみたいと思うが…おまえのように」
『おまえのように』
そんな言葉が、参謀の口から出ることに、シエロは驚いた。
ボスと同じくらい、秀でた存在だと思っていたから。
重ねて、参謀は言う。
「おまえは強い。俺は、何人もの、命を背負って飛ぶ勇気はない」
「あんたらしくないぜブラザー」
らしくないことを言い始めたのはシエロの方だったが、誰かが落ちこんでいると、慰めてしまいたくなる。そんな性分だった。
「…そら、すぐ、懐に飛んでくる」
ゲイルは低い声に、すこしおどけた色を加えて、シエロにそう言った。
シエロの大腿を支える両の手のひらに、力がこもり、背負われている彼は、それに赤くなった。
「恥じるな。おまえの翼がまっすぐなのは、おまえのこころを映しているからだ。真のニルヴァーナへの憧れが、空色の翼に宿っているんだ。手を、翼を、天にのばせ。俺はいつでもその翼を浮かす風を起こしてやろう」
夢の最後の場面を思い出す。
あれは。
ひとつになった、徴か。
風と翼が、ひとつになり、飛翔へと。
「今度、さ。また、俺と飛んでみないか?ゲイルの眼で、世界の果てを見たら、なにか、俺とは別の…」
地平に、何かが見つかるかもしれない。
最果ての海が、失われた起源が。
保護帽が、かすかに左右に振られる。
「俺の風で、おまえが飛ぶ。その姿を見るのも、また、喜びなのだと、知らないんだな。おまえは、緯度となり、経度となる。俺は、その地図を描く」
ふたりで、ひとつなのだ。
ゲイルはそう言っている。
あの参謀に、そこまで言わせた。
シエロは、人知れず、また赤くなる。
黒いニットの背に頬をもたれさせると、ゲイルの手のひらに、再び、熱い力がこもった。
――直後。
夢の中で浴びたつむじ風が、またシエロの髪を揺らす。幻ではなく。
シエロは自分でディアラマをかけた。ゲイルの背中から、するりと滑り落ちる。
先頭に立つ、サーフの声がする。
「カルマ兵だ。用意はいいか。ゲイル、シエロ。前へ」
素早さでは、誰にも負けない。シエロは返事の代わりに指を鳴らすと、ディアウスへと変化した。ゲイルが少し遅れて、その身を震わせ、ヴァーユとなる。
「行け、シエロ」
再びしかつめらしい口調に戻った参謀に、シエロもまた宙をくるりと回りながら、真面目な声で答えた。
「アイ、アイ、サー。よろしくブラザー。俺が飛ぶには、あんたが必要だ」