印
こぬか雨に濡れそぼったぺトンの瓦礫を踏みしだき、まず小さな影が立つ。
重たげなこうべ。
華奢な骨が支えるには、いささかバランスの悪い金属の髪飾りが複数、それを首輪にいつか聞いた見るものを石に変える魔女と同じ蛇を幾匹も飼って。
蛇ではない。みっしりと編んだ髪だ。しかし、髪よりは明らかに蛇に近い。
ゴルゴン。
その者のかんばせは、頭髪の邪悪さとはうらはらな、切れ長で涼やかな目元、上向いた小さな鼻。鼻梁はそこはかとなく紅に染まり、突き出し気味の小さな上唇と相まって、ずいぶんと、いとけない風に見える。
だが、残骸を踏むその脚。女人とみままごう肉のつき方をしている腿には、墨色の悪魔の証。そして、腿肉を裏切る下肢の力強さ。
なにより。
肩から突き出た、異形の腕。
生き物よりは石に似た、石よりは金属に似た、菱形の両腕を操りながら、それは空を飛んできた。
そうして、今ここに降り立ち、金色の瞳で、まっすぐに見る。
小さな唇が、裂け目のように開き、ちろり、と、薄い、とがった舌が覗いた。
左手につむじ風。
最初の影の背後に立つ、これは、男。
うつむいた面を徐々に上げたかと思うと、そのまま背後にぐらりと傾ぐ。
屍が動いている。
思わせるほどに、生気がない。
傾いだ面がまたふらりと前方に揺れ、青ざめた表情の中に、冷たい色の眉根が現れた。彫りの深い貌ゆえ、翳った眼窩の示す先は測れない。否、どこも見ていないのかもしれない。
頸から上は、抜け殻のようだ。なぜなら、小さな影と同様に、これも肩から下に、異形の肉体をまとっていた。
きっとこちらが本体だ。背すじと肩からだらりと下がった緑衣は、着衣ではなく、皮の一部であった。表面を這い回る緑の脈。嬉々として根を伸ばし、死者の皮を一気に剥いだかのようなだらりの膜をかすかに震わせている。
緑色を恐ろしいと例える者は知らないが、確かにその色は存在するのだ。脈は緑色の邪なものを彼の身体へと行き渡らせ、きっと同じ色をした心臓を波打たせる。臓器は再び、奇態な緑衣へと力を漲らせて、その薄絹は何枚にも膨れ上がり、嵩を増す震えはつむじ風を呼ぶ。
ふと下方に眼を遣ると、人の形を残したその者の右足に、くっきりと節のようなものが見えた。
ああ、やはり。
頸から上は人への擬態。
右手に、女。
淡い色の長髪に、可憐な容貌。
白い胸元には、墨色の徴があるが、それさえも霞ませるたおやかな肢体。
なのに、左眉と左頬に、ざっくりとした刃瑕。
背に残る瑕は敗者の証であると言われるが、視覚を奪わんとも知れぬ場所に大きな痕を残すのは、いかなる鬼女であろうか。
女の異形には、臆すまい。
ところが、その両の手が、臓物を引きずっているように見え、再び血が凍る。
まさか、自分の腹から?
違う。
女は、腹ではない、手首から腸をねじりだし、鞭であるかのように無残に扱い、しぶく血を振りまきながら、瓦礫を分けて立つ。
凛としたその姿は、いままで見た、どの女より美しい。
ふと、女の瞳が揺らいだ気がした。
人である、と判り、更に恐れが湧き上がる。
ただの異形であれば。
ただの異形であったなら。
ひと際、ゆっくりと、後方から、うっそりとした影。
火柱があがったかと見えるほどの、かつてない殺気。
初めに兆したのは、爛々と輝く黄金の双眸。
眼球の白が失せただけで、人は易く異なるものに変わってしまう。
引きずるほどに肥大化した右手と鉤爪は確かに恐ろしいものだった。
だが、膨れ上がった腕の赤。毒をはらんでしまった肌と同じ色。その赤さは、男の顔半分まで滲みだしている。痛みは一体どれほどのものなのか。
腕の畸形よりむしろ、腫れた肉体を想像することで眩暈が襲う。
それも、人の心が残っていてこそ。
腫れた腕が、さらに膨張して行く途中で逆剥け、角質化した皮膚がほぼ死んで、黄ばんだ色に変色していることにさえ、男は気づかぬに違いない。
鈍色の外套から、その巨大な腕をちらつかせ、人ならぬ目で明らかに周囲を脅しながら、ゆっくりと唇を歪ませた。
白く、光る、長い、犬歯。
しゅう、とそこから、音が漏れた。嘲い声か。呻き声か。
やがて、それはもうひとつの影を呼ぶ声なのだと、わかる。
しゅう。
再び、音が漏れ、続いて。
その者たちの影を割るように、さらにもうひとつの異形の影。
しろい、男。
骨でできた、ましろな男。
頸も、腕も、脚も、なにもかも、灰色で、真っ白な、男が、細い身体で真ん中に現れた。
ただ胸に刷いた橙の標だけが、よそよそしく雨に映える。
男の刻印は、左頬にあった。
刻印の墨色がなければ、男の顔はひどくうつろに見えただろう。
作り物めいた、目鼻立ち。
左右対称な顔など、この世にはありえない。
だが、男は、そのありえない容貌を持っていた。
均衡を破ったのは、悪魔の印。
男の、前歯が、見えた。
そして、犬歯。
赤い、口腔。
刻印が、頬にできた皺で、醜く歪んでいく。
奇跡の容貌を持った、男の、造作が、どんどんと。
壊れ。
顎を外しながら、拡がって行き。
口角は、耳朶まで裂け。
目元と、眉根と、小鼻に、深い溝を生み。
そこを汗か涎か涙か血かも、しれない体液が流れて行き。
きしんだ雨音に割り込むように。
ひしゃげた声が、叫ぶ。
「喰らえ」
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