Novel
Bypath-0 CHILDFOOT
一瞬の爆光を合図に、少女は駆け出した。
前方に見える男の広い背中を追い……彼の腕に守られている、何より大切な兄をじっと見つめながら。
コロニーが騒然と動き出すその直前に、少女達は何とか『脱出』することに成功した。
そう、脱出だ。
庇護者であった母が死に、明日をも知れぬ身だった二人をこの閉鎖した場所から連れ出してくれたこの男は、一体何者なのか。
身を隠すようにコロニーを抜け出る小型のシャトルの中で、少女は兄を寝かせると、あらためて男を見た。
サングラスの鈍い輝きが、男の素性を隠すと共に、言い知れぬ底を見せ付けられるような気がして少女は一瞬竦む。が、それでも気丈に問いただす。
「おじさんは……」
「……おじさん、というのはやめてくれないか?まだ若いつもりだからな」
「じゃあ、なんて呼べばいいの?」
「私のことは、そうだな……ラウと呼んでくれ」
男……ラウはそう言って口の端だけで笑う。
名乗るまでの僅かな逡巡のせいか、少女にはそれが本名なのか判断することはできなかった。
しかし例え偽名でも、呼び名があるというのは便利なことだ。
「ラウ、なんで私たちを助けてくれたの?」
「君たちが私と同じだからさ」
「……どういうこと?」
躊躇しないラウの口ぶりに、少女は首を傾げた。彼の答えは、いまだ13をかぞえるばかりの少女には、抽象的すぎて理解できない。
だがそんなことはお構い無しに、ラウは続けた。
「君たちは望まれてあそこで生かされてきたわけではない。だからさ。望まれぬ存在が世界を変えるさまを、私は見たいのだよ」
「……よく、分からない……」
「今はそれでも構わんさ……君も兄を助けたいだろう?私が君たちを助けたいと思ったのも、それと同じようなものさ」
「…………」
ちらりと兄の方を見遣る。
コロニーでそうしてきたように、彼はうつろな目を薄く開けて、『何か』を見て微笑んでいるように見えた。
兄には、この世界で普通に生きていくことができないのだ。少なくとも、今は。
「うん……私は、兄さんを守る。そのためにラウに生かされたんだって、そう思うことにする」
「それでいい」
ラウは、少女の頭を軽く叩くと、シャトルのコクピットへ移ろうと背を向ける。
その背中に向かって、少女は言った。
「私は、兄さんは…兄さんは名前はないけど、私の兄さん!」
ラウは少女──の言葉に僅かに振り向くと、何か四角いものをに投げて寄越す。
重力の働かないこの空間で、四角いものはふわふわと宙を舞い、の手に納まった。
「ならば君が名をつけてやるといい。名前というのは、人が他人に認められるために外見の次に必要なものだ」
「これは……」
「君たちの母君のラボに残されていた。形見の品だ」
「お母さんの……」
四角いものは、ハードカバーの本の装丁を成していた。ぱらぱらとめくってみると、今時珍しく、紙にペンでのメモ書きがぎっしりと詰め込まれていた。
どうやらこれは、母の日記帳か何からしい。はその中に、インクで滲んだ自分の名前を発見した。
見れば、いつの間にかラウの姿は消えている。
おそらくシャトルの制御をしに行ったのだろうが、例え彼がここで自分達を見捨てて逃げたのだとしても、は彼のことを恨もうとは思わなかった。
ここまでは、彼の力であのコロニーから出ることが出来た。後は、自分の力で何とかしてやる。
そんな決意と共に、は再び日記をめくった。
まずは兄に名前をつけなければ。
「……日、…に……発覚……名付け親を頼まれ……カガリ、と……?」
ページの最初の方、古い日記は、滲んだインクでぐちゃぐちゃになっており、非常に読みづらい。
しかも、当初は日記帳として使う予定もなかったらしく、研究メモと思しき走り書きも多く見られた。
だが根気よく読み進めていくと、はその中に兄の表記を見つけることとなった。
「えと……により、名前をつける…できない、が…………?」
。
その言葉だけが、の心の中に残った。
兄は最初から実験のために生かされ続けてきた存在であり、固有名というものを持たない。
だが母ならば、兄に名前を付けてくれているのではないか、その思いが彼女に日記を読ませたのだ。
……・。これがきっと、兄の名前なのだ。
「兄さん!」
「……」
「兄さん、兄さんの名前が分かったよ!」
兄は変わらず、曖昧な笑みをに向けるだけだが、それでもは嬉しさを兄に向けることをやめなかった。
「今日から兄さんは。兄さんだよ!」
「…………」
兄の──の表情は変わらなかったが、彼の口元がもぐもぐと動き、自らの名を口にしたのを、は確かに聞いた。
おそらくそれがどういう意味をもつ言葉なのか、兄にはまだ理解できていないだろう。
だが、今はそれでもいい。
いずれは自分の名前というものも分かってくれるだろう。焦ってはダメだ。
自己を認識させることが、兄を立ち直らせる第一歩だ。