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第八話-第三次ビクトリア攻防戦-
明朝には作戦開始。もうそんな所まで時は迫っていた。
薄暗闇の中、キラ──今はまだ、彼を『キラ』と呼ぼう──彼は、あてがわれた部屋の簡易ベッドのふちに腰掛けて、目の前に白く浮かび上がる体を見ていた。
はっきり言ってしまうと、キラの体調は万全とはいえなかった。ノーマルスーツを着ずに無理な出撃と、いくつもの衝撃的事実。折り重なった偶然で溜まったストレスを発散しきるには、まだ少し時間が必要だ。
だが、そうも言っていられない。作戦は待ってはくれないのだ。それに、キラの体は頑丈だ。普通のコーディネイター以上にタフに作られていた。
それが生まれつきなのか、これまでの戦いの経験によるものなのか、定かではなかったが、ともかくキラが現在のモチベーションを維持したまま戦いに赴けるくらいには、彼は健在だった。
そして今も。
キラの目の前にある白い体は、のものだった。そう、この行為はキラを奮い立たせるための儀式。
キラがを欲しいと言って、それをは拒まなかった。気を遣われているのかな、とふと不安がよぎる。自分の機嫌を損ねたくないがために、はその体を差し出しているだけではないのか、と。
「キラ……」
暗闇に目が慣れてきたのか、が恥ずかしげに目を伏せて、最後の一枚の下着を床に落とす様子が分かった。反射的に唾を飲む。
「今、約束を果すよ……」
が顔を上げる。そこには羞恥心より先に立つ決意の程が見て取れた。
ゆっくりと、キラの方に歩いてくるのを、両手を広げて受け止める。
は僅かに震えていた。初めてなのだろう。少し目を伏せて、抱き合った後どうすればいいのか戸惑っている風に見えた。
その緊張を解くように、微笑みかける。これはただの儀式ではないのだと、お互い好き合ってする当然の行為なのだと、その行動で示したかった。
「分かるよ……が僕に勝利を運んでくれる」
「うん……」
頷き、素直に自分の方に体重をかけてくれるをしっかりと抱きとめると、その肩口に唇を落とした。
ビクトリアの朝。
既にキラは機体の中で待機していた。は戦闘要員ではないため、基地で待つ身となる。
出撃の合間、『ヒルコ』の整備を手伝いながら、僅かに残された時間をキラと共に過ごしたいと思い、そうした。
二人の態度の中に、昨夜の名残はほとんどと言っていいほどない。お互いやるべきことは多くそれ所ではなかったし、二人とも一夜を明かした後も不思議なほど自然体でいられたからだ。
「出力、火器管制、言われた通りにしたけど……こんなにピーキーでいいの?」
広げた携帯端末を見ながら、は不安げに機体の中に呟く。すぐに平然としたキラの声が返ってきた。
『うん。どうせ僕専用だし、徹底的に仕上げた方がいいと思って。だから汎用性、ユーザビリティについてはできる限り削ってもらったよ』
通信機越しとはいえ、キラの声は不自然なまでにくぐもっている。の側からは見えないが、この時キラはヘルメットをきちんと被り、バイザーを下ろしていた。空気振動がバイザーのおかげでいったん途切れ、古いラジオ音声のように聞こえてくるのだ。
「でも、キ──」
『っと、? その名前は言っちゃ駄目』
「あ……」
たしなめるように言うと、が慌てて口を押さえる。
夜が明け、形式的には『傭兵』扱いとしてロンドの部隊に参加したキラは、『キラ・ヤマト』を名乗れなくなっていた。その名は既にフリーダムのパイロットのものだったからだ。
ここではキラはコードネーム『K』を名乗っている。自分のイニシャルのみの、単純なものだが、それくらい素っ気無くていいと思った。ただのコードネームなのだから。
そして、本当の名前を取り戻すまでは、顔も極力隠そうとした。前述の、きっちりとかぶったヘルメットはそのためだ。
さすがにと会話している時くらいは、とも思ったが、ここは二人きりのプライベートルームでも何でもない。いつ誰に見られるか分からないのだ。用心は越したことに過ぎない。
そうやって、隊内では、『K』として過ごした。生身でと話したかったが、それは作戦が終わってからのお楽しみだ。
『僕は必ず生きて還る。そして真実を知る』
「……?」
それは独り言なのか、それともに聞いて欲しいことなのか。自分でも分からなかったが、とにかく口に出して、はっきりとさせておきたかった。
『でも約束はしない。これは、僕が自身に課したことだから』
ゆっくりと吐き出し、自分に言い聞かせる。キラの側からは、立ち上がって不安げにヒルコを見上げているの姿が見えていた。だけどはそうではないのだろう。キラが今どんな顔をしているのか、どんな気持ちでその言葉を言ったのか。
キラはふと思案すると、コンソールを叩いた。
が今まで弄っていたディスプレイに、コクピット内の映像を送信する。は画面から目を外していたため気付くのに少し時間がかかったが、それも待った。
双方の顔が(といってもキラはヘルメット越しだが)見えるようになると、キラはとんとん、と指でノーマルスーツの懐部分を叩いてみせた。その仕草で中にある小さなポケットを差す。
『大丈夫。……お守り、貰ったから』
「もう……!」
からかうように言うと、がはっと頬を染めるのが分かった。
それでいい。変に思い詰めた顔をさせるよりは、例え怒りや羞恥心といったものでも、生の感情を見せてくれる方が安心できる、と思った。
そうして、他愛のない話を続けた。
その間にも、刻々と作戦開始の時は迫っていた──……
この宇宙時代に、これほどの自然が残されていることに、キラは驚いていた。ビクトリア基地は、緑あふれる中に存在していたのだ。
だがそれも、三度目を数えるビクトリア奪還作戦により、失われていく。
ヒルコのモニター越しに、キラは戦火を見下ろしていた。
コズミック・イラ71年の現在、まだ単独で飛行能力を持つモビルスーツの存在は貴重だった。ザフト側には、既に飛行モビルスーツ・ディンも配備されてはいたが、それもたいした数ではない。いまだ、ザフトの主力はジンである。
眼下に撃墜された大量のジンを見ながら、キラは作戦中だというのに別のことを考えていた。
(フリーダム……)
オーブにあの青き翼持つ自由の剣が舞ったそのすぐ後、キラはかの機体についてできうる限りの情報を集めた。
ザフトの開発した新型モビルスーツ、だがロールアウト前に何者かに奪われ、地球に降り、アラスカでアークエンジェルにその姿を見せつけ──その後のことは、彼が見た通りだ。
一体何者なのか。この時点では明確な判断は下せない。
奪ったのは誰なのか? そもそも何故奪う必要があったのか?
──そして、なぜキラ・ヤマトが乗っていたのか?
もどかしくなる。不明瞭な点が多すぎて、全てを解明できない。無理に推測しようとすると、『あのキラ・ヤマトがフリーダムに乗って現れる必要があったため、自分は消された』……などという考えすら浮かんでくる。
自分で導き出したというのに、キラはその推測に恐ろしさを感じた。
許してはおけないと、思うのだ。もしかしたら、イージスの自爆すら、自らを抹消するための工作ではないかと思えてくる。今こうして生き残っているのが幸運なのではないか、と。
「フリーダム……僕は、お前を」
言いかけて、キラの脳裏に一人の少女が浮かぶ。
自分になり代わった何者かに対して憎しみを募らせると、必ずの顔が思い浮かぶのだ。幼い頃の、再会した時の。場所や時は様々だが、どれも確かに印象的な瞬間の、彼女の様子だ。
(──駄目だ)
復讐に身を染め切れない自分がいる。そのことをキラは自覚していた。
(名前なんてどうでもいい、と一緒に、どこか静かな所へ行きたい……)
そして、そんな感傷にとらわれると、すぐさま別の感情が、もとのフリーダムに対する憎しみの感情が襲ってくるのだ。
オーブの砂浜で見た、もう一人の自分のことがフラッシュバックする。自らと同じ顔、同じ声、同じ名前を持ち、自分から全てを奪った奴のことを。
その二つの背反する気持ちが、繰り返される。それは痛みすら伴って、キラを苛んだ。
「……っ! くそぉーっ!!」
色々とやりきれなくなり、キラは『K』の顔になる。
復讐者の、顔になる。
叫んでそのまま、ヒルコを急降下させ、すぐ下にいたジンをビームサーベルで一刀のもとに切り伏せる。パイロットがどうとか、コクピットがどうとか、そんな生ぬるい考えは最初から存在しなかった。
相反する二つの心。
それを象徴するかのように、……捻れて引き裂かれそうなキラの心象を表すかのように、ヒルコは次々とジンを真っ二つにしていった。
そして気がついた時には、作戦は終わりを告げていた。当然、勝ったのはロンド率いるオーブ・連合の部隊。
コズミック・イラ71年6月25日、遂にビクトリアは陥落した。
コクピットから降りてくるキラに、ロンドは進み出た。彼の後ろには、全く同じ顔を持つ少年兵三人が、機械のように追従する。
「大活躍だな、『K』?」
「……これは、指揮官殿」
緩みかけた気を引き締め、キラは脱ごうとしていたヘルメットを再び被り直す。
目の前の男は自分の正体を知っているのだが、なぜか顔を見せることを憚られた。
シェード付きのバイザーも下ろして、くぐもった声で応対する。人との関わりを断とうとする、短い言葉で。
「何か?」
「労いの言葉は聞きたくなさそうだな? ならば単刀直入に言おう。……私のもとに来い」
ぴくり、とキラの肩が揺れた。
「ここにいるソキウス達は、作戦協力の礼として譲り受けた。もう一つくらい連合に強請っても、ばちは当たるまい?」
「……何が言いたいんです?」
「脱走兵キラ・ヤマトをオーブ、いやサハクが引き取る。お前は堂々とキラ・ヤマトを名乗れるぞ?」
ロンドはくっと笑いを噛み殺す。反対にキラの表情は険しくなっていった。ロンドに対し殺気すらうかがわせていたが、それすらも面白いものとして、ロンドは見ていた。
ソキウス達は動かない。キラがコーディネイターであると知っていたからだ。彼らの倫理では、コーディネイターは守るべき対象とはならない。──例外を除いては。
彼らが守るのは、無数のナチュラルと、自らの主人と、彼らに同意し同じ道を歩むもののみ。薬で精神を焼き殺されてなお、ソキウスの遺伝子はナチュラルに仕えることを至上とした。
そのことをキラは知っていたが、同情することと道を同じくすることとは違う。
バイザーを上げ、ロンドに向き直りきっぱりと言い放つ。
「僕はフリーダムを追っかけてみようと思います。どうせ死んだ身だ、宇宙に亡霊が出るくらい、構わないですよね?」
「追ってどうする」
「色々聞きたいことがあるんですよ。「お前は何者だ、僕の名を騙って何をするつもりだ」って」
「そう上手くいくかな? 既にキラ・ヤマトとはフリーダムを駆るあの者のことだぞ」
「いいえ……取り返しますよ、指揮官殿」
「フン……」
キラの暗い決意を灯した目がロンドには気に食わなかった。
彼は手駒を欲していた。今回、連合の作戦に従事することで手に入れたソキウスたちもその中の一つだ。
ここへ、初期のG一機で強奪された四機と渡り合ったストライクのキラ・ヤマトが入れば、ロンドの力はさらに磐石のものとなる。
だが、ここで強引に引き止めることをロンドは良しとしなかった。
宇宙に出るというのなら、そうさせてやろう。彼は意思持つものを拘束することを好まない。彼にとっては、意思持つものとは『思い通りにならない人形』でしかない。
それならば、宇宙で『姉』に任せた方がいい。どうせアメノミハシラを通してしか、彼らはフリーダムに接近はできまい。
何より最大の理由はそのフリーダムである。
かの『キラ・ヤマト』の存在にはアスハが一枚噛んでいるとロンドは推測していた。その邪魔をしてやるのもまた一興というものだろう。
ちらり、とキラの向こうにある機体を見遣る。
黒き光を放つそれは、己の『天』よりよほどみずぼらしく見えた。だが今、一人の少女の手により、損傷した機体に修繕がなされつつある。
傷付き、ボロボロになりながらも、彼女の手により何度でも立ち上がる。がいれば戦い続けることができる。まさしくヒルコはキラそのものだと思えた。
「あの娘も連れて行くのか?」
ロンドの視線は機体にかかりきりのに向けられていた。キラはそちらを振り向くことはせずただ頷く。
「彼女が望むなら」
「では、行くがよい『K』よ。宇宙へ上がる手筈は、私が連合を通じて整えてやろう」
「ありがとうございます。……指揮官殿も、お元気で」
「……心にもないことを」
皮肉げに唇を歪めるロンドを見ると、キラは形だけの敬礼をしてみせて、再びバイザーを下ろした。
もうこの鎧は、の前以外では二度と取らないとキラは心に決めた。
自分は復讐者、コードネーム『K』であろうと、決めた。