Novel
第八話 ブランク・ルーン
アハト・イングズの穏やかに見えて鋭い視線を受け、今はシュリー・クライムと名乗るカミーユ・ビダンは、足元を確認する少女を連れ出そうと待っていた。
やがて、少女──メイファ・ギルボードはつま先をとんとんと地面につけながら立ち上がった。
「大丈夫かい?ジュドーの所に行って…」
「その必要は無いよ」
凛とした少女の声に、そこにいた二人は一瞬硬直した。いや、声というより、メイファ…ミネバ・ザビから発せられた空気によって、と言うべきか。
呆けたような表情のアハトと、眉をひそめるカミーユを尻目に、少女はソファに座りなおす。
「話を聞こうか、イングズ?」
「め、メイファ…?何を…」
「さあ…どんな話がいいですか、お嬢さん?」
さも当然と言う風に自分のペースで話を進めようとするミネバ。
彼女の正体に薄々感づいていながら、どう対処すればいいのか戸惑うカミーユ。
そして、そんな二人を娯楽映画でも見ているかのようににこにこしながら反応を待つアハト。
少女が答える。それはアハトの求めたものと一致していた。
「無論…ネオ・ジオンに関する話であろう?」
「ミ…メイファ!!」
思わずカミーユは声を荒げた。彼女はジュドーのもとで一人の女性として平凡な人生を歩むのではなかったのか。既に大人で、自分が今何をなすべきか探している俺とは違って。
そのカミーユの心の声に気付いたのかは知れないが、微笑みを絶やさず、しかし多少音量を落としてアハトは続ける。
「隠す必要はありませんよ、『カミーユ・ビダン』。特に、この僕の前ではね」
「…どういう意味だ?」
カミーユは、自分の本名を知る目の前の男を警戒した。
「説明してもらおうか」
自分一人分からないと言う事態に、カミーユは苛立っていた。自分は『ヌーベル・エゥーゴ』の情報を得るためにここにやって来たのに。ネオ・ジオンの話?ブランク・ルーン?
一体ここで何を始めようというのか。すぐ近くで、声さえ聞こえる距離なのに、自分の預かり知れないところで。自分を抜きにして話が進む。
しかもミネバは、目の前の得体の知れない青年を信用している様子で。
アハトの目は、カミーユの眉間を和らげるかのように優しげに微笑んでいた。
やがて、その表情に相応しい、心地の良い声音で話し始める。
「まずは僕についてお話した方がよさそうですね。アハト・イングズ…この姓は、ジオンにとってある意味を持ったものです」
「イングズ…ふ、『ブランク・ルーン』、まだ機能していたとはな」
両腕を組み、ミネバはソファに深く腰を据え付けた。
「ブランク・ルーン…?」
「ジオン公国時代から存在する、内部特別機関だ。一般市民として生活し、秘密裏に情報を流す。軍の人間でも実態を知るものは少ない」
そこまで説明して、ミネバはアハトの方を向いた。
「で…そんな男が、ここで何をする?」
「僕がここにきた理由は二つ。一つはそこの彼…カミーユ・ビダンに『ヌーベル・エゥーゴ』への手引きをすること…」
ここまで話すのか。
ブランク・ルーンとはそれほどまでに信用のおける組織なのだろうか。
カミーユの疑いの眼差しを気付いてか知らずか、アハトはさらに続けた。
「もう一つは…ミネバ王女、あなたのことです」
「私の……」
「ジュドーさんには、あなたのこれからのことで相談を受けました。…処遇については、本人の意思を尊重したい、とも言っておられました」
アハトの目が一瞬だけ鋭くなったのを、カミーユは見逃さなかった。
「私は…私はザビ家に生まれたというだけで、自分が特別だ、ジオンのために何かを為さねばならない…そう言われて育ってきた。だが、それは違うと教えてくれたのがジュドーだった…」
やがて、ミネバはぽつりぽつりと語りだした。
それはカミーユがあらかた予想したもの、そしておそらくはジュドーが望んだものだったのだろう。
「…だが……そうやって、ジュドーのもとで普通の生活を送れば送るほど、苦しくなっていった。自分が自分でないような気がしてきた…やはり私には、『ザビ家の末裔』というアイデンティティしか残ってはいない。ジュドーと一緒には行けない……」
「……分かりました。では我々と共に来ていただけるのですね、王女」
アハトの問いにミネバは軽く頷いた。
そして二人して、今度はカミーユに視線を向ける。
異論は許さない。と目が訴えている。
その目の色を変えぬまま、アハトは次の話題に移った。
「では、次はカミーユさん、あなたの用事ですが…」
ヌーベル・エゥーゴへ。
ネオ・ジオンと内通するこの男が知る情報なのだ。嘘は無いだろうが、警戒は必要…
とまで心構えが出来ていたのに、アハトの口から漏れたセリフは、カミーユに軽い…『エゥーゴ』と言う名前に対する軽い失望を感じさせるものだった。
「ヌーベル・エゥーゴは地球、ヨーロッパ地区の過激派が元となった反連邦組織です。かつてのエゥーゴとは関係ありません。今はネオ・ジオンに協力的ですが──…」
「何が言いたい?」
先程よりの自分の預かり知らぬ話、目の前の男のもったいぶった態度に、カミーユはいい加減苛立っていた。昔の自分ならば怒鳴り散らすか、最悪、拳が飛んでいたかもしれない。
殺気だったカミーユに、しかしアハトは調子を崩さず告げる。
「僕は連絡員ですから、お望みなら彼らに話をつけて接触の機会を得られます。…しかし、個人的な意見としては、あなたにはネオ・ジオンに来ていただきたい」
「な…んだって……!?」
「…カミーユ。私はまだ、ネオ・ジオンにミネバ・ザビという存在を知らせるべきではないと思っているのだ。秘密を共有する協力者が欲しい」
自分はもしかしたら、新たな戦乱に巻き込まれつつあるのだろうか。
後になって、この予感が当たっていたことを、カミーユは身をもって知ることになる。
カミーユは二人の提案に乗っていた。