Novel
「困っちゃうよな、ほんとにさ〜」
夜。下町の宿屋『箒星』の二階の一室で、完全に気配を消した影が、寝転がったユーリに迫る。
夢うつつだった彼を起こしたのは、手を伸ばした影がその瞬間だけ発した殺気に似た空気。おそらくわざと気付かせたのだろう。ユーリは目を開けると、未だ慣れない視界の中で音も無く伸ばされた手首を掴んでくるりと捻るように投げ捨てた。
「あだっ!」
「何やってんだおっさん」
起き上がると古びた旧式のランタン(魔導器の使えない今となっては必需品である)に火を点す。床に転がった中年男を冷ややかな視線で見下ろし、ユーリは低く呟いた。
今晩、この宿に寝泊りしている人間の中で、ここまで完璧に気配を殺すことができるのはこのレイヴンくらいしかいない。となれば、自ずと犯人は分かる。
ぶつけたらしい後頭部をさすりながら、レイヴンは床に胡坐をかいた。
「何ってそんなの、分かるでしょ? んーと、夜這い?」
「本気で言ってんだったら、今度は窓の外に投げ捨てるぞ」
「ちょ、冗談よジョーダン!」
ユーリの目がすぅと細められる。
レイヴンが冗談を言っているのはすぐに分かった。生来の女好きは、いくら整った顔立ちをしているといっても立派な成人男性であるユーリに手を出すほど女性に飢えているわけではない。
「ったく……今日フレンが来るんだよ。邪魔にならねえうちにさっさと自分の部屋に戻れよ」
「青年、冷たい……」
「ウソ泣きすんな気色悪い」
よよよ、と泣き崩れる演技をするレイヴンに吐き捨てると、ユーリは肩をすくめた。
次の瞬間には、けろりとしたレイヴンがこちらを見上げてくる。
「あら、そうなの?」
「そうなの。だから邪魔すんなよ」
手をひらひらと振るユーリに返ってきたのは、ニヤニヤした表情のおっさんだった。ゴシップを噂する主婦のように。あるいは恋人のできた同級生を冷やかす学生のように、顔をユーリの方に突き出して。
「せいね〜ん、さっき随分手際が良かったけど……もしかして、毎晩フレンちゃんの夜這いをこうやってのしてたりするわけ?」
「だったらいいんだけどな」
「?」
レイヴンの頭にクエスチョンマークが浮かぶ。はっきり言ってしまえば、彼のからかいは全くの無駄に終わったのだ。
次の瞬間ユーリは、深く溜息をついてから、怒涛のようにまくし立てた。
「フレンが夜這いなんかするわけねえだろ? 清廉潔白品行方正、顔良し性格良しで腕も立つし騎士の鏡で男の中の男! な、あの完璧超人が!」
「あ、あのぉ……」
「まあそこがいいんだけどな? ちっと真面目すぎてオレを気遣ってばっかりなのが玉に瑕だけど……」
「…………」
「オレとしてはさ、もっとフレンの好きに激しくやってくれたっていいのに、あいつオレの体の負担のことばっかり考えて……優しすぎるんだよ、あいつは。困っちゃうよな、ほんとにさ〜」
「ごめんなさいおっさんが悪かった」
ユーリにとっては、彼のフレンに対するちょっとした不満をぶちまけただけのつもりだった。だが世間一般ではそれは惚気と呼ばれるものに相違ない。
レイヴンは額に幾本もの縦線を浮かべながら、気がつけば謝っていた。
「なんで謝んだよ、だいたい話はまだこれから……」
「ユーリ、待たせて……あれ、レイヴンさんも来てたんですか」
「フレン!」
ユーリの視線がドアの方に向けられ、表情がぱぁっと明るくなる。お前それはどこの乙女だと言いたくなるような豹変っぷりは、普段の不遜な兄貴風の彼しか知らない者が見れば彼の正気を疑うレベルのものだろう。
礼儀正しいにしてはノックの音がしなかったのはそれだけ気を許した間柄だからなのか、ドアをがちゃりと開けて、それまでの話題の人物であるフレンその人が顔を見せている。
救いの主が来た。これ以上ユーリの惚気を聞きたくなくて辟易していたレイヴンにとって、フレンの来訪はそう表現してもいいもの、のはず……だった。
甘かった。
「あ、うん、まあね……あーお邪魔しちゃ悪いし、おっさんそろそろ帰……」
「夜這いに来たんだそうだ」
適当に挨拶して抜け出すタイミングは今しかないと思っていたレイヴンに、ユーリが追い討ちをかける。まるで明日の朝食のメニューを告げるかのようにさらりと。
「……シュヴァーン隊長?」
瞬間、フレンの瞳が鋭くなる。右手は腰に佩いた剣の柄にかけ。こういう時に発せられる彼の『シュヴァーン』呼びは、他の者に言われるよりもよほど肝が冷える気がする。レイヴンは慌てて両手を振った。
「ちょ、違、違うってあれは冗談だって!」
「冗談だそうだ」
「なら、いいんですが。相手の合意を得ない行為は犯罪ですよ。それから、ユーリは僕の恋人ですから」
フレンの口調が幾分か和らぐが、それでも表情は厳しいままだ。もしかしたら本当にそういうことをしそうだと思われているのかもしれない。
「……ハイ……」
仕方なく頷いて、レイヴンが部屋を出ようと立ち上がった、その時だった。
「それよりフレン、夜這いプレイしようぜ! オレ寝たふりしてるから襲え!」
「えっ」
唐突に言うユーリの顔は期待の色に満ちている。ナチュラルに恋人宣言が飛び出したおかげか心底嬉しそうだ。
俺か、俺のせいなのか。レイヴンはそう叫びたくて仕方がなかったが、またややこしい事態を招きそうなので、ぐっと抑えた。
フレンは一瞬、困惑の表情を見せ、またあの硬い声で低く答える。
「聞いてなかったのか? 犯罪だよ」
「夜這いじゃなくて、そういうプレイだって! プレイならいいだろ?」
「……まあ、ユーリがしたいならいいけど」
そう答えるフレンもフレンで、まんざらでもないといった顔をしているところがまたどうしようもないなと思わせる。
「スイマセンもう勘弁してください……」
そしてすっかり忘れられたレイヴンが、そわそわしながらベッドに寝転がるユーリと照れながら部屋に入ってくるフレンに挟まれた場所で、そう呟いたという。
---
あとがき。
ユーリ・ローウェルさん21歳、気を抜くと延々とフレン自慢をしてくる男。もちろん無自覚。
フレンはたぶんHの頻度は少ないけどその分がっつり激しそうな気がします。でもユーリを気遣って優しく。
それが不満というユーリの贅沢なお悩み。単体だと淡白そうなイメージなのに、対フレン限定で淫乱なユーリとかいいよね……!
まあフレンはフレンで、ユーリに対して結構容赦ないところもあるけど、それが見えないのは恋は盲目だろうか(笑)
あー、えと、レイヴンはホントに冗談でやってるので、カプ的なそれやこれではないです……!