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条件反射

 クリスが部屋に戻ると、据付の机の前に陣取り、部屋の明かりの中鈍く光る篭手を磨くトランの姿が目に入った。
「何やってるんだ?」
「あ、おかえりなさい」
 磨く手は止めず、トランが振り返る。そのままの状態で説明を始めた。
「調べものしてたら、ちょっとコーヒーこぼしてしまいまして」
 匂いがつかないうちにこうやって綺麗にしているところです……と彼が言い終える前に、クリスはダッシュで部屋に押し入る。
 彼の目には、いまだ机の上からぼたぼたと落ちている黒い液体がトランの着ているローブにかかり続けているのが見えていた。
「篭手の前に拭くものがあるだろうが!」
 大慌てで布巾を用意して、机の上にかぶせるように置く。白い布が瞬く間に琥珀色に染まっていった。
 だが相変わらず篭手を磨きながら、トランは変わらぬ様子で、
「そんなに焦らなくても、調べていた書物は先にどけましたし、カップも危ないから向こうに……」
「そういう問題じゃないだろ……」
 机の上で布巾を動かしながら、クリスは嘆息した。
 どうやらトランの脳内では、

 書物>>>カップ>>>アガートラーム>>>(越えられない壁)>>>机と服の染み

 という図式が完成しているらしい。
 まあ確かに、紙にコーヒーが染みてしまえばそれはもう使い物にならなくなるし、カップは誤って割ったらいけない。
 だが普通は液体の染みない金属より布と木が優先だろう……との思いでトランをジト目で見る。
「全く……火傷したらどうするんだ」
「ご心配なく。わたしは耐熱構造ですし、万一そうなっても火傷跡くらい自力で治せます」
「だからそういう……」
「それにやはり、優先すべきはこのアガートラームでしょう。禁忌の薔薇の武具がコーヒーくさいなんて、大首領に献上する時に恥ずかしいじゃないですか」
「お前がそれを大首領とやらに持って行けるかどうかは別にして、だ」
 あらかた拭き終わり、クリスは布巾を持ったまま窓の外に腕を出し、ぎゅっと絞る。
 ミルクほどではないが、ああいうものを拭いた後の布は凄まじい匂いがするものだ。
 あ、もちろん彼はトランがアガートラームを大首領に献上しようとするのは真剣に阻止するつもりでいるので、念のため。

 ともかく、布巾をたたんで、呆れ顔になるクリス。
「金属なんだから、匂いなんて目立たないだろ」
「そうですか?」
「ていうか、さっきまでコーヒー飲んでたから匂い分からないだけじゃないのか? 貸してみろ」
 と言うと、答えも聞かず強引にトランの左腕を取り、匂いをかぐ。
 やはり特にコーヒー臭というものはなかった。
「ほら、別に匂いなんてついて……」
 トランはそんなことをぶつぶつと言っているクリスを見下ろしていた。
 アガートラームはいつもの通りトランの腕につけたままである。
 つまりクリスは今、トランの腕に思い切り顔を近付けて、鼻をふんふんとさせているわけで……
「……」
 猫の鼻先に指を近づけたら、これと似たような感じになるだろうか。
 と、トランはそんなことを考えていた。
 そしてふと、思い立つ。

 思い立ったが吉日、である。トランは早速実行に移す。

「ていっ」
「ふがっ!?」

 アガートラームで、至近距離からクリスの顔面に一発ぶちかます。
 どうやら鼻にクリーンヒットしたようで、クリスは奇声をあげて後ろに倒れた。

「き〜さ〜ま〜」
 鼻を押さえ、涙目でようやくクリスは立ち上がった。
 一方のトランといえば、少しだけ申し訳なさそうに、頭をポリポリとかきながら。
「いや……つい、条件反射で」
「条件反射〜!?」
 手で押さえているため、くぐもった声でクリスは反芻する。一つ文字を発する度に、鼻の頭がジンジンと痛みを訴えた。
 さらに追い討ちをかけるように、トランがこぼす。
「目の前に憎き神殿の犬がアホ面を晒しているんです。一発ぶちかましてみたくなるのが人情ってもんでしょう」
「……!」
 コノヤロウ。
 しれっとした態度のままのトランを睨みつけ、クリスは心の中で毒づく……口に出すとまだ鼻っ柱が痛いから。

 が、追い討ちはそれに留まらなかった。
「それに、コーヒーこぼした件であなたに言われたくはありませんね。この間、禁忌のウィガールにカレーうどんの汁をこぼしていたでしょう」
「うっ」
 調子を取り戻したのか、クリスに一発ぶちかましたことをさらりと水に流したのか、それはともかく、トランの怒涛の口撃。
「カレーうどんですよ、カレーうどん。コーヒーなんかよりよっぽどたちの悪い、白い服を着ている時に限って食べてしまう、一度布に付着すると絶対取れない、あの! カレーうどんを!」

 びしぃっ!

 とコーヒー臭はしなかった禁忌のアガートラームでクリスを指す。

(そんなに連呼しなくても分かってるわい!)

 ついに爆発したクリス。売り言葉に買い言葉、とはこのことを差す──のかどうかは別として。
 クリスは羽織っていた神官用のローブを肌蹴ると、白銀にきらめくウィガールをトランの眼前に突き出した。鼻梁が痛むのも今は忘れる。
「あの後ちゃんと洗ったし、金属だから匂いもついてない! 嘘だと思うなら確かめてみろ」
「ふ、いいでしょう……このあらゆる臭素を嗅ぎ分ける、ダイナストカバル神秘のトランノーズでかいでみて、カレー臭が全くしなかったら、先程の凶行を詫びましょう」
「と、とらんのーず?」
「極東支部長トラン=セプターに隠された26の秘密のうち一つです。宿敵たる神殿の犬に明かしたのは初めてですから、光栄に思いなさい」
「いや、いらんから」
 いらんから早くしろ。とクリスは手招きする。
 よく見てみるとこのポーズ、道端でコートの中身を見せびらかす変質者と同じ格好なのだ。

 幸いにもそのことにトランは気付かなかったらしい。少し身をかがめると、その鼻先をウィガールに近付けていく。
「ん……確かに、綺麗なものですね……」
「だろ?」
 クリスの胸元で、トランは先程自分がやっていたように鼻をふんふんとしてみせている。いや、本人的にはなんたらセンサーみたいなのを発動中なのかもしれないが。

 しかし、いい位置だ。
 少し手を伸ばせば、頭だろうが肩だろうが余裕で上からポンポンとできる。
 普通に立っていると、どうしても身長差を自覚させられるクリスにとって、現在のトランの身のかがめ具合はまことにもってちょうどいい──……

 と思うと、腕が勝手に動いていた。
 ローブを持っていた手を離すと、曲げられたトランの背中に回す。
 完全に抱きしめる形になる。背中の感触にトランが気付き、クリスの方を怪訝に見上げるまでにそう時間はかからなかった。
「何のつもりですか」
 静かに、しかし凄絶なドロドロした何かを中に抱えて、トランは呻く。はっとしたクリスが自分の腕を見てみるが、時既に遅し。
 トランの背にしっかりと回されている。
 何でもないわいと怒鳴って手を離そうとしたのだが、口を開くと呆けたような声が出た。
「……つい……条件反射で」
「はぁぁ!?」
 腕の中で呆れかえった声を発するトラン。
 一方のクリスは、微妙に視線をそらしながら。
「目の前に憎き悪の幹部がアレな感じに腰をかがめているんだ。だから……」
「……だから?」
「…………抱きしめたくなるのが人情ってもんだろう」

「あ、あ、あ、アホですかアンタはっ!?」
 あまりのことに素っ頓狂な声を響かせた。
 先刻の仕返しするにしてもこれは悪ふざけが過ぎる。
 こっちは篭手でガキーンとかましたのにそっちは優しく抱きしめるなんて。

 そんな思いで放った言葉だったが、クリスにはその意味までは伝わらなかったようで。

「悪かったなアホで!」
 むっとした口調になる。
 整った眉を中央に寄せ、唇を僅かに尖らせてしまっていた。

 これではまるで駄々っ子の相手をしているみたいだ。
「……しょうがないですね」
 軽く溜息をついて、トランは背中から手を伸ばし、クリスの後頭部をそっと撫でた。
「? ……?? と、トラン?」
「条件反射です」
「な、何が」
「つい、捨て犬とか見ると拾って懐に入れたりするでしょう。そういう感じのアレですよ」
「捨て犬っ!?」
 うろたえるクリスにさらりと返す。捨て犬、のくだりでまたもや気に入らなさそうな声が飛んできたが、無視する。

「んんっ! つまりですね!」
 咳払いをして、やや早口に告げる。
「つまり、これは思わず反射的にやってしまったことで……わたしの意思ではないのだということをですね……!」
「分かった、分かったから」
 苦笑しながらクリスは、いつのまにか自分がトランの頭を彼が自分にしたのと同じように撫でていることに気付いた。
「……言っとくが、これも条件反射だからな」
「え?」
 怪訝そうなトランに弁解するように呟く。
「普段、いけ好かないと思っている奴が、急にしおらしくなったりしたら、ついこういう風にしたく……」
「そんな反射があるかー! っていうか、いつまで続くんですかこれ!?」

 ついに入ってしまったツッコミ。そのトランの叫び声を聞きながら。

 お互いに「これも反射だから」「あれも反射」など言い訳しながら、この状態はもう少し続く。

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あとがき(?)

意地っ張りだけど結局ラブラブ〜みたいのを目指してみましたが、トランがノリノリで喋りすぎて挫折。
世話焼きの癖に自分のことには無頓着なトランさんとか、なんか萌えませんか。
あ、あと26の秘密が云々は全くの捏造です。ってことは4つの弱点とかあるのかな?(*゚∀゚)=3