Novel

逃げる君と、追う権利を持たない僕

 胸のポケットには、様々な思い出を詰め込んであった。
 彼が過去の彼であった時代の、捨てられない大切なものが。
 その中の一つを取り出し、懐かしそうに見る。

 それは、彼が今いる空き地前で撮った一枚の写真。
「懐かしいね」
「そうだな……」
 背後には気をつけろ、というのは任務をこなす上では初歩中の初歩ではあるのだが、気配で誰だか分かったため、振り返らずに答える。
 椿が隼人の背中越しに、例の空き地をぼんやりと見上げていた。
「七緒ちゃんに、会ったんだって?」
「イサムめ、ばらしやがったのか……」
 ぶつぶつと言いながら、隼人は写真をしまう。悪戯が見つかった子供のように椿に向き直ると、肩をすくめた。
「大丈夫なの?」
「あ? 何が」
「ただでさえ隼人は、七緒ちゃん絡みだとナイーブなのに。直接の接触なんて」
 禁じられていることでもある、と言う椿の表情は真剣そのものだった。彼女なりに、七緒の心配をしてくれているのが分かった。
「ああー……ま、今んとこ影響はないみたいだし、何とかなるレベルだ。俺はしばらく裏方に徹するから、街中歩く調査とかは任せる」
「うん」
 頭をかく隼人に、椿は頷いてみせる。

ふと、そこに違和感を感じて、椿はまじまじと隼人の顔を見つめた。
「な、何だよ」
「イサム君の話と、随分様子が違うから……」
 不思議そうに、言う。隼人の方はいまいち話がつかめず、頭に手をやったまま顔をしかめた。
「もっとウジウジしてるのかと思った」
「何だよそれ。俺はもう決めたって言ったろ?」
 瞬間、緊迫する二人の間の空気に、湿ったものが混じる。一雨降るな、と思った時には既に遅く、二人の肩や頭に、ぽつぽつと水滴がかかり始める。
 二人とも傘を持ってきていなかった。
「げ。またかよ……ついてねえな」
「その様子なら、吹っ切れたみたいね」
 手のひらを上に向け、雨粒をそこに感じてみては嫌そうな顔をする隼人に、椿はふっと笑んでみせた。そしてあまり雨避けの意味をなさないが、両手を頭の上に覆うようにして、歩き出す。
「いったん支部に戻りましょう」
「そうだな。せめて傘だけでも持ってこないと……」

 そう同意して椿に続こうとする隼人の背中に、その声はかけられた。

「駄目だよ、ちゃんと傘は持たなきゃ……いつ降り出してもおかしくないんだから」
「!!」
 咄嗟に目の前の椿の腕を取り、引き寄せる。後ろにいる人物に顔を見られることのないよう、己の胸の中に抱き込む。
 チルドレンとしての本能が、そうさせた。

 それさえも崩れ落ちてしまうかのような、たった一言、たったの一音節で、隼人の心臓を鷲掴みにさえしそうな、少女の声。
 この心音が椿に聞かれていると思うと、それが余計に隼人を焦りの渦に巻き込んだ。
 驚く椿を何とか抑え込んで、ゆっくりと首だけで振り返る。
「……よ、よう楠森……趣味悪いぞ、こんな場面に」
「……え?」
 傘の下から、楠森七緒が顔を覗かせる。
 できるだけ自分自身を落ち着かせようと深呼吸して、隼人は椿の後頭部に手を伸ばし、自らの体で完全に隠した。事情を理解してくれたらしく、椿も椿で身を硬くして、七緒から隠れようとする。
 濡れた服の生暖かい感触が伝わってきた。

 傘越しに七緒の側から見えたのは、誰かを抱きしめている隼人の腕。
「……あっ」
 それまでキョトンとしていた表情が、さっと朱に染まる。七緒は恥ずかしげに傘で目の前を隠し、あわあわと取り乱した声を出す。
「ご、ご、ごめんなさいっ! あの、私、邪魔するつもりはっ……」
「い、いや、俺も、その……こ、こんな道端で……」
 自分の判断でやったことながら、隼人は現在、混乱寸前の状態にあった。

 このままやり過ごせ。チルドレンとしての隼人は心の中でそう叫んでいた。
 だけどもう一人、七緒の目の前で別の女を抱いている自分をどうしようもなく嫌悪する、そんな自分がいることにも気付く。
 ──誰だ? これは。
 牧村早人ではない。彼は10年以上も前に死んだ。
 高崎隼人の日常に焦がれている部分でもない。彼は現状を受け入れ、決別したはずだ。  なら、誰だ?

 答えは出なかった。

「あ、あの。私、邪魔しちゃったみたいだから、もう行くね……」
「お、おう……」
 傘で顔を隠したまま、早口で告げる七緒に、隼人もしどろもどろに返す。
 足音が遠くなるのを待ったが、不意にそれが止んだ。
「雨……」
「?」
 遠慮がちに、背を向けたままの隼人に七緒は言っていた。その表情は隼人からは見えない。
「いつもこんなだって、前に言ったっけ。傘は常備しとかないと、駄目だから、ね……」
 最後の方は、小さくなってほとんど聞こえなかった。
 水をはねさせて七緒が走り去る。遠ざかる靴音を椿を抱えたまま聞いていた。

 ほどなく解放された椿は、両腕を組んで半眼で隼人を睨みつけた。
「……ダシにしたわね」
「うっ……わ、悪い……」
「まあ、なんとか誤魔化せたみたいだから、いいけど」
 しょうがない、と椿は嘆息する。だが上手くやり過ごしたはずなのに、隼人の表情は浮かないものだった。
「ありゃ、完璧誤解されたな……」
「そりゃあね……でも、仕方ないでしょ」
「そうだけど」
「私も七緒ちゃんとは知り合いだし、顔を見られないように配慮してくれたんでしょ? それについては、感謝してる」
「……ああ」
「…………?」

 先程から生返事を返す隼人に、椿は首を傾げる。
 おかしい。さっきと随分態度が違うではないか。
「……隼人?」
「…………、あ? あー、で、何だっけ」
 やっとまともな(というには鈍すぎるが)反応を返した彼に、再び視線を強める。
「とりあえずは、傘よ」
「あ、ああ……」
「それから、妙なこと言ってたわね。『いつもこんなだ』とか、『いつ降ってもおかしくない』とか」
「ああ……」
「七緒ちゃんの中では、『雨が降るのが当たり前』っていう認識になってるのかもしれない。"タイム&アゲイン"なら、そういうことだって……」
「…………」
「隼人、聞いてる?」
「っ!?」
 状況を細かく分析している椿だったが、隼人は上の空だった。まさに心、ここにあらずといった風である。
 いい加減業を煮やして、隼人の眼前に回り込むと、椿は下から彼を睨み上げた。
「追いかけよう、なんて思ってないでしょうね」
「!」
 びくり、と肩が震えた。
「あなた、さっき自分で言ったじゃないの。『俺はもう決めた』って」
 何の気なしの椿の言葉が、隼人に突き刺さる。
 逃げるようにその場を立ち去った七緒。追いかけたい衝動をぐっとこらえる。その権利は隼人にはないのだ。
 爪跡がつくほど強く拳を握り、奥歯を噛み締め、必死に耐えた。
「分かってる……分かってるよ」
 苦しげに呟く。それでも隼人は、既に去ってしまった七緒の背中を追うように、その方向を見つめていた。

 そんな彼をよそに、椿は自らの推測について思案した。
 雨は相変わらず降り注ぎ、遠くに雷鳴も聞こえたが、もうすっかりずぶ濡れになってしまった以上、多少雨宿りした所で変わりはない。
 だからその場で、あの空き地の前で、椿は考える。
 『いつ降り出してもおかしくない』との、七緒の言葉。
 辺りを見れば、突然の夕立のはずが、皆慌てる様子もなく、傘を差して平然と歩いている。

 これはただの『慣れ』なのだろうか?
 椿には、そうは思えなかった。何らかの方法で、『雨が降るのが当然である』との認識を植えつけられている可能性がある。
 そしてそれを裏付けるかのように、椿の携帯電話がコール音を発した。
「……はい、玉野です」
『椿ちゃん? 緊急事態よ、すぐに支部に戻って』
 電話の主は大宙ヒカル。彼女にしては珍しい、焦りの入り混じった声で、椿を急かす。

『先程、"タイム&アゲイン"の発動を確認したわ』
「──!?」
 椿は言葉を失った。もしや『当たり』を引いたのか、と。
 ヒカルの告げる事実と、遠くに鳴る稲妻とが重なる。
 彼女の隣では、やはり隼人が一点を見つめ、七緒を思っていた。

 そうしている間にも、二人の頭上に雨は降り注いだ。

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あとがき。
ミドルフェイズも中盤に入りました(笑)というか、椿がヒーローでいいよね?
いや、実はシナリオとかあんまり考えてないんですけど(でも真相は決めてる)
いつまで続くか分かりませんが、とりあえず、続く!

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おまけ

GM「と、こんな所でシーンを切ろう」
ヒカル「……ふむ。ここまでで一つ判明したことがある」
隼人「?」
ヒカル「七緒は隼人のこと、ホントにただの友達としか思ってないということだ(笑)」
隼人「ぐおおおおおおおーっ!?(悶える)」
GM「さあ、どうだろうねえ?(にやり)」
椿「せ、切ない」
GM「そこも重大なヒントということで……」
イサム「(GMを遮り)どうだっ! 俺の苦しみが分かったか!(笑)」
隼人「は。身にしみてゴザイマス」
芽以「……? 何の話ですか?」
イサム「ぐおおおおおおおおおおおおおおおーっ!?(盛大に悶える)」
GM「……まあ、なんだ。頑張れ」