Novel

戸惑いと、温くなった缶コーヒー

 支部に帰ってきた高崎隼人は意外に温かく迎えられた。
 任務を放っておいて個人的に七緒に会いにいったことを咎めるものはなく、ただ、雨に濡れた隼人の頭に柔らかなタオルを投げかけ、ロビーの自動販売機で買ってきた暖かいコーヒーを手渡す。
 任務放棄とも取れる行動については、事件が片付いた後での反省文くらいで済まされるだろう。本来ならば重い罪であったが、情状酌量の余地はある。
 それについては、帰ってくる直前に入れられた隼人自身からの報告からも分かった。

 "タイム&アゲイン"が隼人を取り込んだ、と。

 渡されたタオルで頭をがしがしと拭きながら、まだプルトップの空けられていない缶コーヒーを頬に当て、僅かな暖を取る。隼人の目は虚ろに開けられていた。支部についてからというもの、いまだ一言も口を開いていない。
 彼の目の前には、椿の調べてきた資料の山が置かれていたが、それすらもちゃんと目には入っていなかった。
 それを見れば、また隼人の心に七緒の影が重くのしかかるだろうから。

 それでも、この事実を告げなければならない。横で様子をうかがっていた椿は、やがて意を決して、資料の一部を手に取る。
「隼人……これを見て」
 目の前に突きつけられる資料。その一番上の紙に書かれてあった文字の羅列が、またも隼人の心を抉った。
 震える声で、ようやく隼人が言葉を発した。驚愕に満ちた言葉を。
「"タイム&アゲイン"能力を移植……実験体!?」
「実験ナンバーTA369。実験中に暴走して、FHを脱走……双枝市に潜入。この雷雨を当然のものとして、人々に認識させた……」
 淡々と、事実のみを椿は告げる。
 二ヶ月ほど前、ここより離れた北明市にて、七緒の能力を解析、複製するためにFHはあるプランを実行した。非常に強力な力だ。これを制御できればFHにとって極めて有利な切り札となる。
 だが、実験体のうちの一人が脱走して、ここまでやって来た。自覚できないまま能力を使い……七緒に影響を与えたのだろう。
「そしてその能力が、七緒ちゃんのレネゲイドを加速させ……一昨日、隼人に偶然出会った時にスイッチが入った。昨日、二回目に会った時は七緒ちゃんの能力のせい。……そしてついさっきも」
「っ!」
 立ち上がり、隼人は奪うように資料を手に取った。頭の上にあったタオルがふわりとソファの上に舞い落ち、それまで手に持っていた缶コーヒーは音を立てて床に転がる。
 椿の言葉は真実だった。資料に書かれている事柄を読めば読むほど、それが理解できる。
 資料を持つ手までもが震えていた。水分を拭き取って、暖房のかかった部屋の中にいたというのに、隼人の背筋が凍りつく。見る間に資料の束に皺が刻まれていった。
「このままコイツを放っておいたら……」
「七緒ちゃんが自分の能力を自覚して、暴走する危険もあるわ」
 椿が頷く。彼女が冷静でいられるのは、七緒の能力を隼人が一手に引き受けてくれているからという理由もあった。椿もかつて七緒の友人として付き合っていたこともあるのだ。
 だから、隼人を心配する言葉が出てきた。普段なら考慮すらしないはずの。
「でも、隼人は残ることもできる……このジャームも、七緒ちゃんの能力をコピーされているから、隼人だって影響されてしまうかも……」

 気遣うつもりでかけられた椿の言葉は、隼人にとっては冷たく突き刺さる棘となった。
 資料を握り締めたまま、全身の力が抜けたかのようにすとんとソファに座りなおす。
「確かにこのまま戦うのは厳しいかもな……」
「…………」
 弱気な物言いだった。普段の椿が聞いていたら、問答無用で張り倒されそうな。
 だけど今は、事情が分かっているのか、椿はそれを黙って聞いている。
「俺は……俺も、"タイム&アゲイン"の影響下にあるんだ……『雷雨をスイッチに七緒と会う』という認識に、体が染まっている……」
「じゃあ、どうするの? 七緒ちゃんに……会いに行く?」
 隼人は奥歯を噛み締める。
 会いたい。この気持ちが七緒の能力によるものだとしても、偽りだなんて思いたくない。
 だが、体内の全てを、隼人は否定することに注いだ。レネゲイドが一気に加速したような、そんな感触。

 先程、七緒の元を去る時に決意した最初の誓いを思い出す。
 握り締めていた紙束を置いて、床に転がっていた缶コーヒーを拾い上げる。それがすっかり冷めているのが分かったくらいには、既に落ち着いていた。
 そして紡がれる、決意の言葉。
「俺はもう……会わない。絶対に、七緒をこちら側に来させない……だから……っ」
「そんだけ聞けりゃあ十分だ!」
「え……?」
「イサム君!?」
 独り言のはずだった決意に不意に返答がもたらされて、隼人は間抜けな声を上げた。椿の方も、意外そうに声のした方向を目を見開いて見ている。
 開いたドアの向こうから、ギターを背負った少年が、不敵な笑みを浮かべつつ隼人に親指を上げて見せていた。
「好きな人に会えて嬉しいって思う気持ちは当然のことなんだから、そう深く考えなくていいと思うんす、俺は!」
 親指を上げたままで晴れやかに告げるイサムの表情は、どこか照れているようにも見えた。その原因は、おそらく彼の背後から同じくこちらの様子をうかがっている少女だろう。
 ここまできっぱりと言い切っているのに、イサムの気持ちが芽以に伝わらないのはどうかと思う……隼人は少しだけ、イサムを哀れに思った。

「じゃあみんなで、ジャームを止める。それでいい?」
 椿がイサム達の方に進み出て、問う。こういう時のまとめ役は大体彼女が担う。
 その言葉に異を唱えるものはなかった。
 三者三様に頷く中、隼人は落ち着いた声で呟いた。
「俺は最初の誓いを守るだけさ。七緒を守る……七緒の平穏を守る」
 その声が合図だった。
 まるで隼人がそう言うのを待っていたかのように、街のどこかで《ワーディング》が張られたのだ。

 決戦の時は近い。
 四人は支部を飛び出し、現場へ急ぐ。外は相変わらず、雷鳴轟く雨模様。だがそんなものは気にならなかった。

 走りながら、椿が言う。
「……これは推測だけど」
「ん?」
 横を走る隼人に聞こえるように言ったのだろう。そこに普段の彼女らしからぬ曖昧さを感じて、隼人は聞き返した。
 独り言のように椿は続ける。
「ジャームが能力を発動したこと。偶然隼人に会ったこと。この二つがトリガーになって、七緒ちゃんの能力はやっと発動した」
「つまり、ジャームを倒せば七緒も落ち着くってことだろ?」
「それだけじゃない」
 首を傾げる隼人に、振り返ったまま椿は笑ってみせた。
「昨日のと今日のとは、"タイム&アゲイン"の作り出した、仕掛けられた奇跡だったのかもしれない。でも、最初のは、きっと……」
「本当に偶然、ってことか……」
 ぽつりと漏らす隼人に、頷いてみせる。もう一度見た彼の表情は、何とも落ち着いたものだった。
 いつものやる気のなさそうな、しかしそれは彼が自然体であるということの証拠だ──そんないつもの顔だった。

「それだけ分かれば十分だ」

 そう言って笑う。
 胸ポケットから、いつか空き地の前で撮った写真を出して、手の中で握り込む。
 雨の中を駆け抜けて行けば、意識する間もなく《ワーディング》の中心点まで四人はたどり着いていた。
 大切な思い出と共に、隼人は写真を握り締めると、それが瞬く間に漆黒の刀身を持つ日本刀へと変異する。構える間もなくジャームに向かって走り込みながら、隼人は七緒を思った。
 七緒の平穏を、願った。

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あとがき。
いよいよクライマックスなんですが……今、凄い失敗を犯したことに気付いた。
芽以がタイム&アゲイン(←UGN最高機密)について知っちゃった……!
さ、さすがは元コールドブラッド。でももう書いちゃったんで、訂正せずに行きます。
ほ、ホラ! イサムだって4巻で知っちゃったし!(笑)