Novel
1:…拾っちゃった
閑静な住宅街に、古びた傘が一つ。
叩き付けるかのような土砂降りの中を、それでもふらふらとおぼつかない足取りで家路へと急いでいた。
「……うぃっく」
男は酔っていた。
こんなこともあろうかと用意しておいた置き傘を差し、もう片方の手には買い込んできた食料がぎっしりと詰まったスーパーのビニール袋。小脇に会社から支給されたカバンを挟み、靴は泥を蹴ってボロボロになっている。まあそういう時のために毎朝磨いているのだが。
「どーせ、わたしは万年係長ですよ〜」
そうぐちぐちと言いながら千鳥足の男。彼の名はトラン=セプター。有限会社ダイナストに勤めるしがない中間管理職。今日もサービス残業のかたわら、同僚と呑んでからの遅い帰宅だ。
「早く課長になりた〜い」
嘆くような歌うような、調子っぱずれの節を取りながら、トランはようやく社宅前へとたどり着いた。郵便受けをチェックし、ダイレクトメールしか入っていないのを確認すると何も取らずにすぐさまフタを閉じ、社宅専用のゴミ捨て場の脇を通り抜け、入ってすぐの所にある彼の部屋のドアまで一直線──のはずだった。
社宅の周りはみな民家ばかりであり、こんな夜遅くに出歩くものなどそうはいない。せいぜい妙な歌を歌いながらふらつく酔っ払いが一人いるくらいだ。
だがその日は違った。
ゴミ捨て場とトランの部屋とのちょうど中間くらいに位置する壁にそいつはもたれて座り込んでいた。社宅は築17年のビル型で、軒先と呼べるものもない。さすがにドアの下などは雨を避けられる構造となっているが、そいつが座っていたのはドアの向かい側、溜まった雨水が流れ込む場所である。
よく見るとそれは少年だった。
少年、といっても小さい子供ではない。高校生か大学生くらいだろうか。少なくともトランよりは年下に見える。
雨に濡れてくすんだように見える髪は、日の光の下で見たならば目のさめるような金髪なのだろうなとうかがえる。
服装もよく見れば普通の格好だ。浮浪者という可能性は低いだろうか。
そんな男が、社宅のすぐ目の前にまるでゴミと一緒に捨てられたようにうずくまっていた。
「……な」
言葉に詰まる。
一瞬で酔いが醒めていた。
「ちょっとあなた! 入りなさい!」
「……? え?」
気付けばトランは男の腕をつかまえ、玄関に引きずり込もうと引っ張っていた。酔いは醒めでも体力はかなりアルコールとサービス残業に奪われていたためか、思ったより重く感じられた。
その彼はというと、触れられてたった今気付いたかのような驚いた表情で、自らの腕を引っ張って──というか引きずっているトランを目をパチパチさせて見上げていた。
「な、なんだ?」
状況が分かっていないらしい。予想していたのより少し低い声だな、などとどうでもいいことを考えながら、なんとかずるずると玄関口まで運ぶ。
やけに体がびしょびしょなのに気付き、ふと傘とスーパーの袋とカバンをその場で投げ捨てていたことに思い当たったのは、扉を開けた後だった。
それでも構わず男を中に放り投げる。入ってすぐの所にあった狭いキッチンフロアが泥でめちゃめちゃに汚されたが気にしないことにした。急ぎセパレートタイプの浴室にかけてあった少し湿ったバスタオルを投げて寄越す。
「とりあえずそれで体拭いてください。すぐお風呂沸かしますから」
「いや、あの」
「いーから拭け!」
風邪引いたらどうすんですかとひとしきり怒鳴ったあと、トランはヨレヨレになったスーツを脱いだ。大事に着ていた一張羅だった。だがさすがにクリーニングに出さなければいけないだろう。
別に善行をしようと思ってしたわけではない。かわいそうだとは思うには思ったが、同情でやったわけでもなかった。
ただ、目の前でボロ雑巾のようになっている人間を見たら、勝手に体が動いていた。
湯を張りながら、トランは男を見遣る。まだ状況を完全には把握していない様子で、少し戸惑いつつも手に持ったタオルで髪を拭いていた。
蛍光灯に照らされたその髪は、やはり目のさめるような綺麗な金色をしていた。
「どうぞ」
「?」
「紅茶です。生姜入りだからあったまりますよ」
「…………」
トランの差し出したカップを無言で受け取り、一口運ぶ。その様子をじっと見ていると、微妙に顔をむこうに向けられた。
「それ、飲んだらお風呂入ってくださいね」
「……何も」
「え」
「何も、聞かないんだな」
初めて自発的に喋った彼の言葉は、少し自嘲気味に思えた。トランは手のひらをこぶしでぽん、と叩くとああ、と声をあげ、
「そう言えば、聞いてませんでしたね」
途端に男の表情が頑なになるのが分かった。構って欲しそうなことを言うかと思えば、その実事情を話すようなそぶりは見せない。
要するに、寂しがりで照れ屋さんなのだろうな、と思った。だから事情を聞くかわりににこりと笑んで見せる。
「名前」
「……え?」
「名前、聞いてなかったですよね? わたしはトラン。あなたは?」
「…………」
ぽかんと口を開けて男はトランを見た。構わず彼の口から出る答えを待つ。
「……クリス」
しばし間をあけ、ぽつりとそれだけ言うと、男──クリスは再び黙り込み、手の中に残っていたカップの中身を口に流し込む。生姜の風味が強すぎたようで、舌を出して顔を歪めた。
「さて、ではクリス」
彼の手からカップを取り上げ、流しに向かいながらトランは続けた。
「もうそろそろ沸いた頃ですから、お風呂入っちゃってください」
そのまま洗いながら言う。背後で物音。これはおそらく立ち上がった音。続いて、衣擦れ──これは服を脱いでいる音。浴室はドア一枚隔てただけの所にあり、脱衣所が無いので仕方が無い。音が収まるまで、トランは振り返ることはしなかった。
やがて布の音がしなくなり、裸足で畳を踏みしめる音が聞こえてきた時に、何かおかしい、と気付いた。
足音は流しに立っているトランの元へと近づいてきたからだ。
やがてその音は、トランのすぐ後ろで止まった。なぜか振り返ることができなかった。振り返ったら終わりだ、と思った。
「……ええと、トラン?」
声は驚くほど近くで聞こえてきた。適当に水分を拭っただけのトランの首筋に吹きかかる息までが分かる。
「な、何ですか? 着替えなら後で用意し──……」
前を向いたまま、ぎこちなくトランは答える。が、言葉の終わりを待たず肩に手がかけられた。
「風呂……入るんだろう?」
「は?」
「だから風呂だ。入ろう」
「何言ってんですか! 一人で入ってください」
全くの予想外の言葉だった。これにはついに振り返ってしまう。クリスは真顔だった。
「嫌だ。一緒に入る」
「一人で入れないんですか!?」
「そういうわけじゃないが……お前も、濡れてるし」
「そりゃあなたを引きずってきたからで」
「それに酒臭い」
「さ……サラリーマンにはね色々あるんですよ、て、ちょっ……!」
問答無用で引きずられる。普段温厚で、社内では『いい人』と呼ばれ慣れ、さらに恋愛でも『いい人』で終わってしまう人生をこれまで送ってきたトランだったが、さすがにこれには辟易した。
クリスの言葉遣いにも少し腹が立っていた。明らかに自分の方が年上だろう。なのに敬語の一つも使えないとは、どういう教育を受けてきたのだ。
初対面であるのに、何なんだろう、この馴れ馴れしさは。
気付けばトランは声を荒げていた。
「……クリスっ! いい加減に……」
睨み付けてやろうと思ったクリスの目は、青く光っていた。髪も綺麗だったが目も吸い込まれるようだ、と思った。
そして次に彼の口から出てきた言葉は、それまでの不遜さが微塵も感じられなくて。
「一緒に……入りたいんだ。駄目か?」
「…………」
なんて、捨てられた子犬のような顔をするのだろう。昔からトランはこの手のいい話に弱い。
長い逡巡だと、自分でも驚いていた。
「……分かりましたよ」
そして溜息と共に出てきた答えには、もっと驚いた。
男二人で入った風呂はとても狭くて、正直温まった気がしなかった。
もうこれは布団の中で暖まるしかない。もう少し先に出す予定だった毛布を押入れから出しながら、トランはそんなことを考えていた。
一方のクリスはというと、あの後慌てて用意した着替えに袖を通して部屋の中をきょろきょろと見渡している。
「今日はもう遅いですから泊まっていってください。明日あらためて話を聞きますから」
「……泊まる、って……どこで寝ればいいんだ?」
「すいません、客用の布団が無いので狭いですけど我慢してください」
肩をすくめて、ちゃぶ台を脇に片付け畳の上に布団を敷く。いやさすがに同衾するのはどうよ、とも思ったが、一緒に風呂にまで入ってしまったのだ。この際そんなことに構ってはいられない。
しかしクリスの方は話が分かったのか怪しいような気がしていた。『布団が一組しか無いので寒いのが嫌なら一緒に入りやがれ』と一応の説明をしたつもりなのだが、やはり部屋内を見回しているばかり。
「……どうしました?」
聞いてみる。ワンルーム社宅だ。荷物も最低限しかない。書斎が欲しいと思ったことはあるが経済的にとても無理。
つまりこの家にこれ以上見るべき所は何も無いはずだ。なのにクリスは不思議そうにトランを見遣り、
「いや、だから……寝室はどこだ?」
「……そんなものがあるかーっ!?」
ワンルームなのは見れば分かるというのに一体どこの世間知らずだ!
知らぬ間にトランは叫んでいた。おかしい。この男の前だとなぜこうも心がささくれ立ってしまうのだろうか。わたしは彼が嫌いなのだろうか?
とそこまで考えて首を振る。彼に嫌悪は感じない。ただ、自分にも沸点の低い一面があるのだということに気付かされて、ただ驚くばかりである。
ともかく、トランは掛け敷き両方を丁寧に畳に敷くと、クリスに詰め寄った。
目を丸くする彼を有無を言わせず布団に放り投げる。自分もなるべく邪魔にならないようにと隅っこに陣取ると、掛け布団と毛布を引っ被った。
人の体温のせいなのだろうが、布団の中はひどく暖かかった。
家の外に傘とカバンと食料入りのスーパーの袋を投げっぱなしにしていることを思い出したのは、夜が明けてからのことだった。
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あとがき。
ついにやってしまった現代パラレル。まさか書くことになるとは思わなかった現代パラレル。
通称『係長』シリーズです(笑)
とりあえず、この話が全ての始まりです。