NOVEL

顔を上げて。ご褒美をあげる

 幅、約1,5メートル。奥行き約50センチ。それがこの家のベランダの広さである。だがクリスにしてみれば、これをベランダと呼ぶのは狭すぎる。
 そんなことを考えながら、クリスはその狭いベランダに置かれた小さな植木鉢に、古びた洗面器から直接手で水をすくって振り撒いていた。
「はぁ……」
 少量の水が夕陽の光を反射して、僅かに芽の出始めた土に染み込んでいくのをぼんやりと眺め、知らず溜息をついてしまう。
 全ては数日前、この部屋の主の一言より始まった。


「今日から、野菜を育てます」
「……は?」
 両手に植木鉢と何かの植物の種を持ったトランは、いつもの笑ってるんだかキリッとしてるんだかよく分からない表情で、手に持ったそれらをクリスに押し付ける。
 意味も分からず受け取ったクリスは、そのままリアクションを取れずにいた。紙袋には鮮やかに赤い実をつけるプチトマトの写真が写っている。
「ちょっと待て、育てるって……」
 俺がか。紙袋を握り締め自分を指差し、ようやくそれだけ口にすると、トランはここでやっとにっこりと笑い、頷いた。
「ただ家に居ても退屈でしょうし、それに食費も浮きます」
 いいことずくめじゃないですかと話すトランがあまりにも嬉しそうなので、クリスはそれから反論の言葉を失った。


「…………はぁ」
 それから数日後だ。たったの数日後。クリスは飽きていた。
 茶色い土の中からぴょこりと出てきた緑色の芽。毎日少しずつ大きくなるそれを眺めて、水と少量の肥料をやって。それだけしかないのだから、飽きて当たり前だ。
 こんなことを言うとトランは呆れた顔で小言の一つでも言ってくるだろうか。プチトマトの芽を眺めているよりはそっちの方がずっといいような気がする。
 自分が見たいのは緑色の苗でも鮮やかな赤い実でもなくて、紫がかった黒髪にそれよりも濃い瞳であり、日陰のような肌の色であり、くたびれたスーツの似合う体なのだ。
 水を手ですくうのをやめ、洗面器をひっくり返すとばしゃりと土に小さな水溜りができた。用のなくなってしまったそれを横に乱暴に置くと、クリスはそのまま窓際に座り込む。
「ばーかばーか、トランのバーカ」
 鬱憤を晴らすかのように、まだ幼いプチトマトに幼稚な罵声を浴びせてみる。そういえば、植物は声をかけてやることでよく育ったりするなんて通説を聞いたことがあるような気もする。

 返事はもちろん無い。
 クリスは再び嘆息した。自分が声をかけたいのは、喋らない植物などではなく、あの飄々としたでも穏やかな低い声の持ち主なのだ。些細な言い争いになるとのらりくらりと返答をかわしたり、たまに子守歌のように優しく響いたり、そして夜には甘く掠れたり、そんな風にいろんな面を見せてくれるトランの声だ。
 窓際に体育座りして、クリスは膝の上で顔を伏せた。
「あーもう嘘。本当は好きだ。トラン大好き」
「何が好きですって?」
「!?」
 背後から突然かかる声に、クリスは心臓が飛び上がるかと錯覚した。
「と、トラン……」
「ちゃんと水やってくれてますね」
「あ、ああ……」
 畳を踏みしめる静かな音。この部屋の主が帰ってきた。クリスが待ち望んだ人間が。

(聞かれた!?)

 だというのに、クリスの心を占めるのはそればかりだった。先程までの愚痴の入り混じった独り言、それからトランへの気持ち。本人が居ないからこそ安心して吐き出せていたのに。
 そのトランは、もうクリスのすぐそばにまで来ている。顔なんてまともに見られるわけがない。どうにもいたたまれなくなり、クリスは脇に置いてあったからっぽの洗面器を頭からかぶった。
「何やってるんですか?」
「う、うるさい、こっち見るな」
「……クリス、顔を上げてください」
 いつの間にかトランはクリスの横に並んで座っていた。何度もクリーニングを重ねた一張羅のスーツは少しくたびれていて、慣れた手つきでしゅるりとネクタイを緩める仕草が横目にも見える。
「痛っ」
 次に来たのは、頭への軽い衝撃。洗面器の上からトランが軽く叩いたのだ。それでというわけではないが、両手で洗面器を取ると畳に放り出す。彼の言うとおり顔を上げると、シャツの間からちらちらとのぞく鎖骨と優しく緩められた口元とが見えて、その上では僅かに細められた紫暗の瞳がクリスを見つめていた。
「わたしも……好きですよ」
「やっぱり聞こえてたのか」
「え、いや、まあ、それは」
 軽く睨んでやると、トランは珍しく焦った表情を見せたが、すぐに気を取り直して元に戻る。こういうところはいまだに敵わない。
「ちゃんと実がなったら、ご褒美にわたしが腕を振るいますね」
 トランの手のひらが今度はクリスの髪を撫でる。無意識にクリスはその手首を掴んでいた。
「今欲しい」
「え」
 きょとんとするトランの次の言葉を待たず、クリスはもう片方の手をトランの後頭部に回した。ぐいと引っ張って身を乗り出すと、バランスを崩して二人とも畳の上に倒れ込む。
 気付けば夕陽の位置がかなり低いところまできている。和らいだ日差しは、やがてそのまま一つになる影を映し出していた。

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お題提供:Fortune Fate

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あとがき。

クリトラ係長シリーズの番外編、ということで、貧乏暮らしな家庭菜園ネタです。係長あんまり関係ない……!
久々にクリトラ書きました!なんかクリスがヘタレっぽいのは仕様です(笑)
もっと男前に書いてあげたいんですが、このシリーズって設定上年下攻めなんだよなぁそういえば……

M.Y.様、リクエストありがとうございました!