カレイドスコープ


(1)

 豊臣に下った後、半兵衛に紹介された石田三成という同僚は、およそ人らしい温度の感じられない男だった。
 研ぎ澄まされた刃のような視線も、削ぎ落された肉の薄い体つきも、つきつめたような厳しい表情も、そして、秀吉に敵対し、また役に立たぬ他者へ対する峻厳苛烈な声音と批判も、それを助長していた。
 戦場では淡々と返り血をものともせず敵を斬り、平素は寡黙に与えられた仕事をこなす。他者との雑談に興じることもなければ笑うこともない。三成の行動原理は極めて単純であった。即ち、すべては「秀吉様のために」。
「変わった奴だ」と思った。豊臣子飼いの彼へ敵意も警戒心もあった。秀吉に力でねじふせられ屈服した家康にはそれは当然のことだった。
 

 最初に三成を外出に誘った日を家康はよく覚えている。
 当時、同じ戦で先陣を担当することが多くなっていた。連携のために、三成と言う男を知る必要が、家康にはあった。
 仕事と関わりなく二人で出掛ければ、この一風変わった男をもっとよく観察できるのではないか。その程度の思いつきだった。豊臣の秘蔵の武将でもある彼と、懇意にして損はない、という打算もあった。
 過密な三成の予定の隙間日を、家康は自分と出掛けるために空けてほしいと頼んだ。一度目はきっと断られるだろう、場合によっては罵倒されるかもしれないと予測していたのだが、意外にもそうはならなかった。
 家康の申し出に、三成は細い眉を顰め、首を傾げたように見えた。日頃の苛烈な様子とは少し違ってどこか幼い子供のような無垢な空気がそこに有り、家康は興味深く目を瞠った。じっと三成を見つめていると、なんだ貴様?と僅かに苛立ったように三成が問うてきて、家康は我にかえり、慌てた勢いで三成の手を握っていた。
「いや、なんでも。…で、ワシと一緒に視察に出掛けてくれるのか?」
「…」
 三成はまた、どこか幼い表情をした。
「視察ならば貴様一人で行けばいいだろう。何故私を?」
「え。いや、ええと。…そう、お前と一緒のほうが、はかどる。太閤殿の視線を、お前はよく理解しているだろうから…色々とお互い勉強にもなると…」
 どうにも言い訳じみて苦しかったが、三成はそれを聞くと素直に納得したらしい、こくりと頷いた。手を振り払うことはしなかった。家康はほっとした。
 ――そうして出掛けた日は、家康にとってとても意外なことに、「楽しい」ものになった。
 家康は自分がその日、ずっと笑顔だったことをよく覚えている。
 三成は一度も、戦場でのように激昂しなかった。表情はほとんど動かなかったが、家康の隣を同じ歩調で歩き、家康が話す他愛ないことがらを黙って聞いてくれていた。
 細い裏路地を歩く時思わず三成の手を引いてしまったのだが、その手が振り払われることはなかった。むしろ軽く握り返され、家康は乾いた冷たい三成のてのひらを思わず強く、自分からも握り返したのを覚えている。
 別れて邸に戻ってからも、家康はしばらく茫然とその日のあれこれを思い出し、てのひらをつくづくと見つめていた。三成の印象は、それまで家康が抱いていたものとまるで違っていた。濁りがなく、透明で、無垢な赤子のような気さえした。
「楽しかった」…どうしてだろう?
 しばらく考えて、家康は気づいた。
 徳川を率いる、部下たちを守るよき主君。そうあれと家康は日頃おのれに課している。はらの内を見せることはできない。誰が敵か分からず、どこに潜んでいるとも知れず。家康がひとつ気を抜けば、徳川という家は豊臣という巨大な力の前で泡沫のように消えてしまうかもしれなかった。
 …そのことを、三成といる間、家康は忘れていたのだった。
 豊臣の子飼い相手にワシは気を抜き過ぎだ、と少しばかり反省し――けれどやはり、てのひらから目を離せなかった。
 三成には、家康に警戒心を抱かせる黒いものがいっさい無かった。家康は苦労してきた分、人を見る目は持っているつもりだった。だから気のせいではないのだろう。あの男は、他者を偽るなんてことは到底考えつかなそうだった。
 本当に楽しくて「笑う」ことを久々にしたから「楽しかった」のだと家康は納得した。そして、「また一緒に出掛けよう」と次の約束をしなかったことを、子供のようにこっそりと後悔した。


 以来、すでに何度か二人で出掛けている。
 誘うのはいつも家康だ。


「楽しい」という感覚はいつの間にか三成への「好意」へ変わった。いつからなのか?家康ははっきりと覚えていない。…覚えていないほどごく自然に、家康は三成が自分の隣にいることを快く思うようになっていた。
 三成は、ほとんどのものごとに興味が無い。なにが好きかと問うても応えない。食べることにも寝ることにも執着は無い。私物もほとんど持っていない。ただ彼の心にあり行動の基準になるのはほぼすべてが秀吉、かなり譲っても半兵衛の言葉のみだ。
 家康は今は、それをよく知っている。
 だからこそ、最近三成が、素っ気ないながらも自分の話しかける言葉に反応するのが、家康はとても嬉しい。少しずつ会話らしい時間が成立するのが素直に嬉しい。かえってくる言葉が怒号や罵倒である場合もままあったけれど、それすらも、家康が告げる言葉に対しての彼なりの返答だと思えば嬉しい。
 そんな自分が滑稽だと思いつつも、三成という一個の個性は家康を惹きつけてやまない。
 つい近頃のことだが、三河の家臣たちに「友達だ」と紹介した。
 三成は否定しなかった。もしかしたら聴こえなかった(聞いていなかった)だけかもしれないのに、否定されなかったというそれだけで家康は心が躍った。
 三成は自分のことを語らない。豊臣の元に来る前どうしていたのかも、家康は知らない。ただ、まっさらな白い布がいまや豊臣と言う色にあますことなく染まっているのは認めざるを得ない。
 その布の、ほつれた端でもいいから自分のほうへ糸を引いてよこしてくれまいか。
 いつか笑顔を自分に見せてくれるだろうか。いつか彼から自分を求めてくれるだろうか。そんなふうに夢を見る。
 叶うなら、ずっと自分のそばに置いておきたいと、思った。
 …それが、子供が大事な玩具を抱き締めるのとは違う感情と気付いたのは、ごく最近のことだった。


(ワシは、三成が、好きなのだろうな、…想って、いるのだろう)