カレイドスコープ


(2)

 その日も、家康は三成と一緒に出掛ける約束をしていた。
 伏見の郊外へ遠駆けしようと誘っていた。三成は諾と返事をくれていた。
 季節もよく、当日はこれ以上ないくらいによい天気になった。家康は早朝起きて空模様を確認すると、炊屋に飛び込み女中頭に言いつけて、二人分の弁当を拵えさせた。
「そうだ、海老はあるか。天麩羅にしてくれ。あれは美味い、三成も気に入るだろう」
 出来上がったばかりの弁当を携えて三成の邸に来て、家康はまさに馬を引き出掛けようとしている三成に会った。
「三成!早いな」
 馬上の家康を、三成ははっとしたように見上げた。
 それから、ふいと視線を逸らした。家康が笑顔で、じゃあ少し早いけど出掛けようか、と言うと三成は視線を逸らしたまま口を開いた。
「今日の貴様との外出は取りやめだ」
「…えっ?」
 家康は咄嗟に三成の言葉の意味が飲み込めず、ぽかんと口をあけたまま三成を見つめた。三成は自分の馬に跨ると、家康のほうをようやく見た。
「刑部の具合が悪いと連絡が入った」
「…刑部?」
「大谷吉継」
 その名は家康も知っていた。かつては秀吉の側近として仕えていたが数年前より難病に侵され最近はほとんど登城もしていないと聞いていた。だから家康は会ったことは一度も無い。
 三成はいつもより少し沈んだ声で、淡々と話した。
「思えば此処数日様子がおかしかった。今日一日は話相手になってやろうと思う」
「ここ数日、って、…お前、いつ、その大谷刑部殿の邸に行ってるんだ?」
 家康の質問に、三成は瞬きをした。
「登城前や、城からの帰りに」
「…え。…毎日?」
「ほぼ毎日」
「――」
 家康の心臓がどん、と音をたてた。
 三成に、秀吉と半兵衛以外に能動的に言葉を交わす相手がいたなど、まるで知らなかった。同じ豊臣軍、武将としての関わりがあって不思議ではないが、誰かの見舞いに足繁く通う三成は想像したこともない。そしてその相手のために、家康は今まさに約束を反古にされようとしている…
 冷たい汗がどっと出た。
 三成にとっての自分という存在の軽さを、突き付けられ身の内が震えた。
 三成は無言の家康に、さすがに思うところがあったのか言葉を継いだ。
「悪いときは痛むのか全く動けない。動く気力が出ないというべきか」
「…」
「病人が相手だ。私はそちらを優先する。そういうことだ」
「…約束は…」
「貴様とはまた出掛けられるだろう」
 三成の冷たい声が飛んだ。家康は黙った。鞍に結び付けた弁当箱がことりと音をたてる。唇を噛んだ。
 三成は、家康の傍を通りすぎようとする。家康ははっと顔を上げた。
「ま、…待ってくれ三成!」
 三成は馬を止め、肩越しに振り返った。家康は、どろりと胸の奥に溜まる暗いものを、拳で胸を軽く叩いて誤魔化した。そして、「笑った」。
「ワシも、行っていいか。その大谷殿の、見舞いに」
「なんだと?…貴様が?」
「今日の予定が空いてしまった。一緒に行けば賑やかになっていいだろう?それに、音に聞こえた名将大谷殿に、お会いしてみたくもある」
「…」
 三成は何も言わなかった。しかし否定もしない。ついていっていいのだと解釈して、家康は馬首を並べて進み始めた。
 進む道すがら、家康はずっととりとめのないことを、つとめて明るい調子で話し続けた。本当は心の奥の暗い穴が辛かったが、自分は落ち込んでなんかいるものかと――笑顔をつくり自分を誤魔化しつづけた。
 三成は、表情を変えず無言のままだった。


 大谷吉継の邸は城下街から少し離れた静かな場所にあった。
 門をくぐり馬を下男に預けると、三成と家康は邸内に案内された。家康は弁当を手に持っている。それはなんだ、と三成に訊かれて、弁当だ、と家康はこれまた笑顔で言った。三成は黙ってじろりと家康を見ただけだった。
 目的の部屋は奥まった場所にあった。
 入るぞ刑部、と三成は声をかけて、勝手知ったるとばかりに襖を無遠慮に開く。薬湯の独特の香りがふわりと鼻孔をくすぐり、家康は小さくくしゃみをした。
 そのくしゃみに、部屋の主は普段の来客と別の者がいると気付いたらしい。寝床に横たわっていた身体を緩慢に動かし起き上がろうとする。三成が素早く近づくと傍らにしゃがみ、その身体を支える。
「無理をするな。気を使うような相手はおらん。寝ていろ。今日は悪いと聞いた」
 三成の支える男は、顔を半分以上面布に隠しておりどんな表情かは分からない。着物の袖から見える手の先まで包帯に包まれている。しゃがれた声が響いた。
「やれ、ぬしに慮られるとは。最近とみに然様なことが多い、これは我の命もそろそろ年貢の納め時やもしれぬ」
 小さく、ヒヒッと呼吸の引いたような声で男は笑った。三成はきゅっと眉を顰めると、刑部くだらん冗談はよせ、と言って男を無理に寝かせた。
「三成、たれぞ連れてきたのか。珍しいことよ」
 言われ、三成は少し後ろを振り返り、家康を見た。固まってそこに突っ立っていた家康は我にかえった。視線に促されるようにそろそろと三成の少し後ろに胡坐をかいて座ると、軽く頭を下げた。
「某、徳川家康と申す。お初にお目にかかる」
「――徳川?家康?」
 病人は面布に隠した顔を家康のほうへ向けて目を細めた。その少し白濁した眼球を見て、家康は彼がすでに目もあまり見えないのだと気付いた。さぐるように自分を見つめてくるのを、家康は笑顔で応えた。
「お噂はかねがね。大谷殿は稀代の名将と伺っております。今日は突然の訪問失礼致したが、これを機会に以後宜しくご教授いただきたい」
「…ほう、なるほど。ぬしが徳川、か。」
 どこか冷たい口調で言うと、大谷はまた特徴的な笑い声をたてた。何を笑われているのか分からず、家康は少しばかりむっとして口を噤んだが、三成がじっとこちらを見ているのに気付くとひとつ咳払いをして言葉を継いだ。
「勝手についてきたのは某ゆえ、気遣いは無用だ。三成と普段どおり過ごしてくだされ」
「…三成、ぬしは何故彼を連れて参った?」
 今度は楽しそうに大谷は尋ねる。三成は少し困ったように刑部を見つめていたが、やがて小さな声で、彼奴が来たいと言ったのだ、と呟いた。今日は本来は家康と約束していた、などとは言わない。
 分かってはいたが、家康は傷ついた。膝においた拳を僅かに握り締める。
 病人は、そうかそうか、と先程より機嫌よく言うと、我に構わず二人で話しやれ、と促す。三成は首を横にふった。今日は貴様の見舞いに来た、と言うのを家康は黙って聞いていた。


 三成は別段何も話さない。大谷の読みかけの本を手にとり、隣でそれをめくっている。その大谷もまた特に何も話さない。一度、庭先から聴こえる鳥の声を、あれはなんだったか、と問うた、その程度だ。三成は黙って縁先に出ると寝床の病人にも見えるように(視力は落ちているとわかっているのだろうが)大きく障子を開け放ってやっていた。
「…季節外れの鶯だな。啼き声が違うが」
「ほう、鶯か。斯様な声色でも啼くか」
 家康は何もすることもなく、ただぼんやりと二人の様子を見つめるしかなかった。三成はまるで家康がいないかのようにふりかえることももはや無い。仕方なく、太陽が昇っていくにつれ庭先の梢の影が少しずつ畳の上を移動していくさまを、家康は意地になって注視していた。こうなった原因の、三成に大事にされている病持ちの男が無性に腹立たしくなり、――しかし慌てて、そんなふうに思ってはいけないと諌める。
「ぬし、それはなにか」
 ふいに大谷に尋ねられ、家康はとびあがらんばかりに驚いた。
 家康の傍らの昼食の入った重箱を訊いているらしい。家康は、これは昼食で、とそのまま告げた。大谷は寝たままこちらへ身を僅かに向けた。
「昼食?はて見舞いの品にしては珍しい」
「え、いや、ええと。…まぁ、そうかな。一緒に食べようと思って」
「一緒に?」
「その…ワシの好きな海老の天麩羅もあって。気に入ればいいのだが」
 だんだんどうでもよくなって、家康は包みをほどくと重箱を二人のほうへ押しだした。 大谷は家康をじっと見ている。その視線がどうにも辛い。嘘をついているのはともかく(今日の予定が別にあったことを言うのは流石にはばかられた)、それ以前に三成への執着やら、刑部への鬱積した感情やら――を見透かされているようで、家康は堪らず少し俯いた。
「三成。水を持ってきてくれぬか」
 唐突に、大谷がそう言った。
 書物を手にしたまま家康を見ていた三成は、我にかえったように、ああ、と言って立ち上がった。そのまま廊下へ出て歩いていく。
「あと、蜂蜜が舐めたい。水屋の者にそう伝えやれ」
「蜂蜜?…わかった」
 三成は不思議そうな顔をしたが、頷いて出ていった。


 家康は黙って俯いたままそこに座っていた。大谷と二人きりである。
「――さて、徳川殿」
 あらたまって話しかけられ、家康は顔を上げた。大谷の表情は相変わらず面布の下に隠されていて分からない。感情を隠すために、家康はまた笑顔をつくった。
「なんだろうか、大谷殿」
「ぬしは我をよく思っておらぬだろう。隠さずともわかる、ヒヒッ」
「――」
 家康の心臓は跳ねあがった。
 ごくりと唾を飲み込むと、家康は鋭く、視線だけは油断なく刑部を睨みながら、つとめて冷静な声で言った。
「どういうことかな。某、貴殿にお会いするのは初めてだ。感情を持つにもあまりに貴殿を知らない」
「ほう、成程、成程。噂に聞いたとおりの、のらりくらりの御仁よな」
「…噂?のらりくらりだと?」
 家康は眉を顰めた。刑部はそろりと身を起こすと、傍らにあった脇息を引いて、自分の身体を支える。
「ぬしの噂は聞いておる。病得てより登城もままならぬが、これでも豊臣の将のはしくれ、情報は集めている、…特に三成に関してはな、…あれは手をかけずほうっておけばすぐ死ぬる。誰かが見張っておらねばならぬゆえ」
「…」
 その評には、家康も頷くしかなかった。実際、三成は寝食を忘れることも多かった。どうやって命を維持しているのか不安になるほどに。
 けれど続く言葉は辛辣だった。
「あまりあの純粋な男を、汚してくれるな、徳川よ。あれは危うい。ぬしのような男にコワサレテは困る」
 それを聞くと、さすがの家康も不機嫌を顔に出さずにいられなかった。何故初めて会った相手にこんなことを言われなければならないのか。そもそも自分は何も悪いことをしていないのだ。今朝からの憤りが一気に噴き出して家康は身を乗り出した。
「確かに三成は危ういところがある。だからこそ、ワシは三成を大事な仲間と思って…大切に思っているつもりだ。貴殿の言い方ではまるでワシが三成を害そうとしているようではないか」
 大谷は、それを聞くと乾いた笑い声を上げた。その昼食、と包帯の指先で指し示す。家康ははっとした。
「おおかた、三成となにか約束をしていたのであろ?我の見舞いに三成が行くと言ったか。反古にされたか。三成も罪なことをしやる」
「…別にワシは…三成がしたいようにしていれば、それでいいと思っている。だから此処にワシも来た」
「嘘をつけ。ぬしは腹立たしいのを隠して共に此処に来やったと、そういう事情であろ」
「――」
 家康は膝を掴む手に力を我知らず、籠めた。爪が食い込む。その間も刑部の哄笑に似た声は家康を容赦無く打つ。
「先程から癇に障るはぬしの笑顔よ。楽しくもなかろうによくもそれだけ笑えるものだ」
「…」
 家康は反論しようとして、黙った。
 腹立たしいことだが、この男の言っていることは当たっていた。
 「笑顔」のことは傷ついた。それはいつしか家康が身に付けた鎧のようなものだった。他人に、本心を覚られないようにするための。
(それは、…醜いことなのか?)
 追いうちをかけるように今度は大谷は静かな声で言った。先程までの、どこか茶化すようなおどけた調子は無い。
「三成は豊臣の秘蔵っ子よ。あれは脆くも危うい。しかし誰にも負けぬものがある、太閤への忠誠だ。ぬしはそうではないと我は見ている。――あぁ、反論は今は受け付けぬ」
「…」
「しかし三成はそれなりにぬしを気にかけていやる。此処でもよくぬしの名を出す。最近とみに」
「――三成が?ワシのことを?」
 少し驚いて、家康は思わず声を上ずらせた。大谷は、嬉しいか、然様嬉しかろ、とまた独特の笑い声を立てた。
「しかし、我はそれが大層不安よ。あれはぬしのような…己の心を笑顔で隠すような腹黒い男とは所詮相容れぬ。そうでなければ三成は三成として成り立たぬでナ」
「は…腹黒い、だと!?」
 家康は再度いきり立った。膝を、さらに怒りを抑えるために掴んだ。爪が食い込む。
 真実であろ、と大谷は見透かしたように、或いは馬鹿にしたように哂った。
「三成は言葉を飾り、おのれを偽るようなことはせぬ。あの男をうまく騙しているつもりだろうが」
「だ、――騙してなどいねぇ!」
 思わず、稚い頃の三河の言葉が出て、家康は口を慌てて噤んだ。構わず大谷は続ける。罪人を裁く閻魔の声のように家康の耳に響く。
「忠告しておくが、三成とともにあっていつか苦しむはぬしのほうよ」
「…何?…ワシが、苦しむ?」
 家康は戸惑った。大谷は肩をゆすって乾いた声で笑った。


「あれはよく磨かれた鏡のようなものよ。あれ自身というものを、自我を持たぬ。そしてその鏡面が映すは太閤のみ。ゆえに、映す対象を、太閤殿の望みを、そのまま美しく映し出すことができる」
「だが、あれが万一ぬしと向かい合いぬしを映すことになっても。あの濁り無い男にぬしのはらの内をいつか嫌というほど見せつけられることになるぞ?…考えてもみやれ。ヒトは鏡に映るおのれの姿が醜いとき、それに耐えうるか?…耐えられず大抵は割ってしまうであろ。かの曹魏の大将軍夏侯惇が片目となった後鏡を嫌い、割って歩いた逸話、それと同じよ」
「さて、ぬしはおのれのはらわたを、三成にすべて曝け出せるか?ぬしのはりついた笑顔の下になにがあるか、三成にすべて見せられるか?…できまいて、ヒヒッ」


「…お…お前は、どうなんだ!そうやって、ワシのことをまるで全て見知ったような口をきいているが、お前こそ、腹の中は三成に見せていないんじゃないのか。…お前の醜い姿を――」
 思わず口走った家康は、はっと口を噤んだ。
 大谷の外見を言ったつもりはなかったが、はからずも言葉は同じ意味を指していた。失礼した、と僅かに家康は頭を下げた。
 それを聞くと、大谷はいっそ楽しそうに目を細めた。
「ご心配いたみいる。だが問題ない、我はもはや死人(しびと)のようなもの。これこのとおり被った皮も醜い、はらわたも醜い。しかし死人は鏡に映らぬ、魂のみでは他者を害することもないゆえ」
「…」
「三成もよくわかっていやる。だから安堵して此処へ来るのだろうて、過去からの友誼があるとは言え、この忌まわしい病得た我のところへナ、…やれ、ぬしにそそのかされ“本心”を数多口にしてしもうたわ。愉快愉快」
 ――なんという不愉快な挑発だ、と家康は唇を噛んだ。
 眩暈がする。
「ワシに、どうしろと…」
「なに簡単なことよ。…三成に近づくな。あれを穢すな。我は三成と、ぬしのために言うておる、これは忠告よ、ヒヒッ」
「…」
「あぁ、それと…忘れておった、もうひとつ」


 ――我は、ぬしが嫌いだ。そういうことよ。


 矢継ぎ早に言って、大谷はまた耳障りな音をたてて笑っている。