カレイドスコープ


(3)

 家康は、やおら立ち上がった。
 大谷に背を向けると大股に部屋を出た。こんなにも腹立たしく、心かき乱されたことは久々だった。
 その理由を、家康は知っている。自分が何に腹をたてているのかも分かっている。
(ワシの、…「ほんとうのこと」を、言いあてられたからだ)
 廊下で三成が大事そうに盆に水差しと椀を載せて歩いてくるのにすれちがい、一瞬躊躇したがそのまま逃げるように脇をすりぬけた。
 三成から声はかからない。それが無性に寂しかった。
 馬に跨ると、今日行く予定だった場所まで駆けた。見下ろす景色は家康のお気にいりだった。此処を三成に見せてやりたいと思っていたのだ。嘘ではない。
 豊臣の時代を、いつか終わらせてやろうと密かに胸に秘めていることも、…嘘ではない。
 三成を害する気は、無い。それも嘘ではない。
 三成へ、友情を――それ以上の想いを抱いてしまっているのも、嘘では、なかった。
 矛盾だらけだ。家康はおのれの不合理をよく知っている。大谷の言うことはすべて的を射ていた。
(誰もが、三成のようには生きられない。…あんなふうに裏表なく…)
(だからこそワシは、三成を気に入ったのだろう、な…)
(…ワシは、どうすればいいんだ?)


「刑部。家康となにかあったか」
 部屋に戻って、三成は訊いた。大谷は既に寝床に身体を横たえていたが、三成を見ると盆を指差した。
「蜂蜜は」
「水屋の者にくまなく訊いたが、今は貯蔵は無いと言う。砂糖水をかわりに用意させた。それでいいか」
「結構、結構」
 起きる気配がないので、三成は匙で掬って刑部の口元へ砂糖水を運んでやる。
 いくらか舐めさせた後、三成は「家康となにかあったか」とまた口にした。刑部は手で三成をおしとどめた。
「三成。あれはなかなかに底の見えぬ男よなァ」
「…なにがあったのだ?」
「いや、なにも。…そうそう、そこの昼食を食べるがよいと言い残していったぞ。食べてやらねば家康殿は悲しむであろ、ぬし、しっかり食せ」
「…」
 三成はもう何も言わず、こくりと頷くと家康の残していった重箱を手元に引いて蓋をあけた。
 綺麗に並ぶとりどりの惣菜を見て、目を瞠ると顔を上げ、すこし伸びあがって縁先の庭の向こうを見つめた。どうした、と大谷が問う。
「いや…」
 短く応えると、三成はそこにあった海老らしきものを細い指でつまんで、黙って口に入れるとゆっくりと咀嚼した。

 *

 予定より早く戻ってきたあるじの様子がおかしいため、邸の者たちは心配しているようだった。
 家康が少年の頃、織田家の人質として暮らしていた頃からつき従ってきた者がほとんどである。家康を心から慕っているのは勿論だが、彼らにとって家康は主君であると同時に、守らねばならない大切な宝だった。旧い家臣や召使たちはある意味家康の保護者のように自分たちを思っているに違いなかった。成長した今も、戦場で怪我をすれば「薬を塗りましょうね」とかいがいしく手を出されることも、ままある。
 それが嫌だということは全く無い。みんなが自分を大事にしてくれるのは幸せなことだ。
 けれど、皆に心配させ、心労をかけている事実は、これまでもずっと家康を苛んできた。
 もっと自分がしっかりしていれば。もっと自分が強ければ。忠勝がいなくとも、みんながいなくとも戦える、自分の脚でたっていられるくらい大きくなれたら。…そうしたら、もうみんなを心配させることも無い。苦労をかけずに済む。
 だから、家康は、大変なときほど、落ち込んだときほど余計なことを皆には言わず、ただ「笑顔をつくって」、「大丈夫、と言って」生きてきた。
 いつの頃から身に着いたのかはよく覚えていない。けれど悪いことだとは思わなかった。皆を騙しているなどとは勿論思わない。
 必要な嘘は世の中に必ず存在している。家臣や領民の力を頼り、我慢させることが多かった分、この先行きは少しでも自分が彼らの頼りになるように。
 ――それが、今日、大谷刑部にざっくりと斬り捨てられた。
 …家康は我にかえった。馬に跨ったままの家康を、召使たちが心配そうに見上げている。きっと酷い表情をしていたに違いなかった。
 家康は、いつもどおりにしゃんと背筋を伸ばして、笑おうとした。
「大丈夫だ、…」
 そこまで言ったとき、ふいに三成の顔が目の前に浮かんだ。同時に、大谷の声が耳に響く。


“三成はぬしのような…己の心を笑顔で隠すような腹黒い男とは所詮相容れぬ。言葉を飾り、おのれを偽るような輩を”
“その醜い腹の底を三成に見せられるか?”


 家康は言葉の続きを飲み込んだ。
 どうしました、と家臣が尋ねてくる。
「…大丈夫だ」
 やっとのことで声を振り絞ると、馬を降りてそのまま邸に逃げるように駆け込んだ。みんなきっと心配している。ワシは最低だと己を責めた。
 でも、笑えなかった。
 部屋の隅に膝を抱えて座る。衣服の背にある頭巾を頭からすぽりと被ると、家康は膝に顔を突っ伏してしばしじっと涙を堪えた。


 翌日は登城することになっていた。
 家康は食欲が無かった。女中たちに心配かけまいと無理に飯を口にかきこんでいると、女中頭が昨日の昼餉は如何でしたかと問うた。
 家康はしまったと思った。弁当の重箱はそのまま大谷の邸に置いてきてしまった。結局一口も食べていない。
「うん、…ありがとう」
 曖昧に応え、これ以上話を振られないうちにと大急ぎで残りのものを頬張り、膳の上にあったものを片付けてしまうと立ち上がった。
 広間を出ようとすると、また女中頭から声がかかった。重箱はどちらに?と。
「え、…」
 家康は固まった。
「え、ええと、…三成が、持って帰ってしまったの、かな?すまん、後で訊いておこう」
 それだけ言うと家康は逃げるように広間を飛びだした。嘘とは言い切れない、けれど本当のことを言えない自分にまた心が重くなった。


 登城してすぐ、城の廊下で三成が向こうから歩いてくるのにはち合わせた。
 家康は心臓が止まるかというほどに慄いて、その場に一瞬立ち止まった。三成は気づいたのだろう、視線がこちらへ向かい、そのまま近づいてくる。どうしよう、と考え、いつもどおりにやはり笑顔でやり過ごそうとして――けれど、「笑えない」。
 家康は、自分が、どうやって笑っていたのか忘れてしまったことに気付いて愕然とした。
 俯いて突っ立っている家康のほうへ、三成の足音は静かに近づいてくる。
 この後は軍議がある。どのみち三成とともに同じ場所でいなければならない。だから、昨日のことを引き摺りたくはなかった。
「…おい。貴様」
 三成のほうから声をかけてきたので、家康は顔を上げた。三成は眉間にしわを寄せて家康をじっと見つめてくる。
「あぁ、…三成、…」
 普通に挨拶しようとして、…家康の脳内に昨日のことがどっと蘇った。三成がなんの良心の呵責も見せないまま反古にされた約束も、初めて会った男に腹の底を覗きこまれ上段から斬られたかのように傷つけられたことも。
「――っ」
 家康は唇を噛みしめると、三成の傍を黙ったまま足早にすり抜けた。
 三成が追い掛けてくる気配は無い。振り返ったかすら疑問だ。昨日と同じだ。自分はその程度だ、三成にとっては。
 自嘲に口元が歪んだ。いつもの明るい(と褒めてもらえる)笑顔は出ないのに、自分を嘲る笑みだけは浮かぶ。
(ワシは悪くない。ワシは何もしていない。ワシは、…ただ、三成と一緒に出掛けたかった。それだけだ)
(三成がワシのようなやり方を嫌うと言うなら、…それはそれで仕方ない。ワシはワシのやり方でしか生きられない。誰に本心を見せなくても、皆に心配ばかりさせるよりずっといい。そうとも)
(――でも)
 家康は立ち止まった。目的の広間はとうに通り過ぎていた。戻らねば、と思いながらのろのろと振りむき、歩きだす。
(…ワシは、傍にいたいのだ。これからも。叶うならずっと)
 三成がどう思っていようとも。はっきりと三成の口から、貴様とは相容れない、口もききたくないと言われないかぎりは、――友達として。
 胸の底の想いだって、叶うわけないと知っていながら、諦めたくない。


 広間に挨拶をして入ると、すでに諸将は揃っていた。家康は一番後ろの席にそのまま座った。此処では座が低すぎます、もっと前へと驚きすすめられるのを、家康は必死に笑顔を取り繕って、此処でいいんだ、と言い張った。前へ行けば三成がいる。彼のすぐ近くに座らねばならない。
 今の自分の顔を見られたくなかった。