ラクリモサ





其処にあるべきものが無いのは、元就にはさほど問題ではない。
己が良い例だ、人でありながら父母も兄弟もすでにいない。
そう告げると、元親は一瞬目を瞠り、それから楽しそうに笑った。あんたらしい、と、言って笑うのである。
「なのに俺の左目を見たいってのか」
正確には見たいわけでは無かった。そこに在るべきものはあるのかとふと気になっただけだ。
元就が黙っていると元親はおもむろに眼帯を外して見せた。額からこめかみにかけて太く創が残り周りの皮膚に瘢痕が在る。眼球の在るべき瞼は創に塞がれて、存在は元就には俄かに判別出来なかったので、在るのか、と端的に聞いたら、ねえよと至極簡素な答が返ってきたことだ。
「もとは自分の体の一部でも、動かなくなっちまったら異物にゃ違いねぇから、腐ったまま置いとくとかえって周りも壊死するって言われてよ、だから出した」
淡々と語る。
元就は頷いて聞いていた。
欠損した体は時世を思えば特に珍しくも無い。不自由であろうとは思うが醜いとも思わない。原因があって結果そうであるのだから致し方のないことだ。例え己の体であろうと全ては所詮借り物であって、いつなくなるかは誰も知らないのである。
それが元就の考えることだ。
ありていに礼を述べているうちに、元親はもう眼帯を再びつけていた。そうして、またひとつあんたに見られちまった、と笑う。他に何を見た覚えも無いがと冷静に応えると元親は肩を竦めてみせた。
「俺は、創痕なんかより、あんたを抱いてるときの顔見られてるほうが恥ずかしいなァ」
元就は、呆れた。
何を今更と考え、けれど小首を傾げてその瞬間の元親を思い出してみる。元親はすかさず、あんた今何考えてる、俺の顔思い出してるだろうと言って慌てたように元就に覆い被さった。二人でどたりと板間に転がる、振動で燭の炎がゆらめいた。
元就を抱きすくめるようにして、元親は内緒話のように小声で告げる。瘢痕を見られたときはまるでどうということもなかったくせに、今は顔が僅かに紅くなっていた。
「思い出すなよ、こら」
「何故」
「何故って。恥ずかしいだろうがよ」
「だから、何故?」
「チッ。・・・じゃあ、俺があんたの、あんときの顔思い出してもいいか?ん?」
「――――」
自分がどういう表情で元親に抱かれているのかは元就の与り知らぬことだ。
最初から己の記憶に“無い”ものだから、別段恥ずかしいとも思わない。
そう応えると元親は呆れたように元就を見つめた。今度から、あんた抱くときは鏡見せてやろうか、と呟いている。阿呆めが、と声に出して嗜めて、あらためて閨での元親の表情を思い描いてみたが、間近に本人がいる状態のせいか、はっきりと思い出すことは叶わなかったので元就はあっさりと諦めた。
元親は思いがけず抱き合うことになった今の状況を楽しんでいるらしい。鼻先を元就の襟元に擦り付けてくる。
元就は再び眼帯に視線をうつした。手を伸ばすとそれに触れる。
「貴様は、後悔せぬか。恨まぬか」
唐突に問えば、元親はきょとんと元就を、瞬きして見つめた。
「―――何を?あんたに創痕、見られたことか?それとも」
「貴様が目を失った原因そのものを、だ」
「・・・あぁ、なるほど。」
低く、戦で対峙したときと同じ音色の笑い声が響いた。鬼の声だな、と元就はぼんやり思った。
質問に対する答えはなかった。ただ、告げられる。
「此処にいる俺がすべてだからな。きっとこの創がなければ今の俺はいないだろうよ。そう思えば大事にしたくならぁな」
創も、それを得た経験全ても。
在るべきものが無い事実も、ただ掌に掬い受け止めるように納得するだけである。そういうことらしい。
元親は機嫌よく笑うと元就に口付ける。
「・・・けど、あんたが同じようになったら俺は、泣くだろうよ。本当は俺みたいのは、当たり前と思っちゃいけねぇわな。あんたが親兄弟全部いなくなっちまってることもなァ」
「・・・・・・」
「慣れちまってるつもりはねぇし、当たり前とも思わねぇ。後悔もしねぇよ。でも、大事な奴らに俺みたいになってほしくはねぇな。仕方ねぇ、とは言いたくない」
「・・・そのために戦をし、結果数多の兵を損なうは矛盾ではないのか」
元就の反論に、元親はやはり応えない。ただ笑って、だから俺はあんたが好きだと言う。狡いことよと元就は考えた。
在るべきものが無いことも、仕方ないと言いたくなくても現実に仕方なく他の者の命を散らせていることも、ただ自分たちは飲み込むことしか出来ない。元親の応えは眼帯の奥にある創そのもののように思えた。
元就の応えは、元親の口付けに口付けで同じように返すことぐらいしか、無い。
仔犬がじゃれるように触れるだけの口付けをしばらく繰り返した。俺はどんな顔であんたを抱いてるんだろうな、とふいに訊かれた。先ほど恥ずかしいと自分で言っていたではないかと呆れて言うと、元親は困ったように、だってそりゃァ見たことねぇし知らねぇよと言う。
「あんただけしか、知らないことだ」
「―――」
「創痕は、他にも見せた奴ぁごまんといるが。あんたを抱いてる俺の顔を知ってるのはあんただけだ、毛利」
「・・・ふん」
随分な殺し文句だな、と思った。我のそのときの表情を知るも貴様だけだ、とは言わなかった。言う前に深い口付けが与えられたから。











元就は、早朝の浜辺でその報せを聞いた。
西海の鬼は二度と中国へ来ないのだと理解するのは易いことだった。
波打ち際に沿ってしばらく歩いた。元親ともこうして歩いたような気がしたが在ったはずの光景は朧で、元就は無言で水平線を見遣る。
彼の顔を思い出そうとして、ふといつか見た創痕を思い出した。一度しか見たことのないはずのそれは、一旦思い出すと脳裏にこびりついて取れなくなった。蓄積されたはずの元親の様々な表情が、全て創痕に覆われて浮かんでこない。
元就は俄かに焦った。
「・・・邪魔だ、」
声に出して、あの創痕の記憶を払拭しようと昇りかけた日輪を仰いだ。けれどそれは、元就を嘲笑うように、ごうと音をたてて押し寄せる。耳を掌で覆って俯いた。いつしか元就は砂の上に膝をつく。
「邪魔だ。邪魔だ」
声が震えた。長曾我部、と呼んだ。
応えのあろうはずもない。二度とあろうはずがない。
あんただけしか知らないんだぜと照れたように言った彼の声がふいに聴こえた。元就は顔を上げた。けれど声は、波の音にかき消されてすぐとまた記憶の向こうに遠のいた。
自分しか知らないという彼の表情を、どうして思い出せない?何度も見たはずの彼の顔を―――よく変わる表情を、何故思い出せない?彼が存在しないと、思い出せないのか?在るべきものが無い、そんなことで揺らいだことはなかった。親兄弟でさえ、なくしても仕方ないと諦めた。さほど問題ないことだ。すべては借り物だ。己の命ですら。知っている。
ただ、在るべきものが。
在るべき彼が、いない。膝をついた元就に差し伸べてくる掌が無い。呼びかける声が無い。
誰も知らない元就を映した、あの一つの眸も、無い。



かわりに、これまでは無かった暖かい雫が元就の頬を塗らすばかりである。





“ラクリモサ”・・・涙の日