Atlas





縁側に座って何かを一心に読んでいるらしい元親の背中を、元就はもう半刻ほど眺めていた。
幾日か前に毛利の城へふらりとやってきた元親が逗留したまま、すでに幾日か。日々特に何をするわけでない、元就の傍で日がな一日書物を読んだり何かを作っていたり時にはうとうとと眠っていたり。そうかと思えば家臣の子供たちを集めて鬼ごっこをしたり、武器の扱いを教えてやったり。
要するに好きなように過ごしている。
時折土佐の間者からの伝言らしきものを、人目を避けて庭先で受けている姿も見られたが、むしろそういう姿は元就を安心させた。几帳面な元就にしてみれば、いくら同盟国とはいえ隣国の城に風来坊のようにやってきて堂々と滞在している元親は、とても一国の-------いまや一国、どころではない、名の通り国がよっつある四国の------当主とは思えず、心底元親の治めるくに民たちが心配になるときが多い。それが自国に彼をつなぎとめているからだとすれば尚更だ・・・元就が元親に長期の滞在を求めているわけでは勿論無かったが、積極的に帰国を促すことも最近はあまりしなくなっていた。元就が帰れと言っても、元親は笑って取り合わない。そして突然に帰る、と言って暇乞いをする。
そのくらいがちょうどよいと元就も最近は思っている。
今日も元就が早朝から書状を機械的に処理していく横へ朝餉を終えた着流し姿のままで元親はやってきた。おぉ今日も随分せいが出るなぁ、としきりに感心すると、徐に懐から分厚い書物を取り出し、それから縁側へ腰掛けて読み始めた。
陽気な光が縁側に燦燦と降り注いでいる。
静かだった。時折聞こえるのは鳥の囀りと、使用人たちのひそやかな声、元就の走らせる筆が紙に墨を置く音だけだ。
最初は一心に仕事を黙々と続けていた元就だったが、珍しく何も話しかけてこない元親がだんだんと気になってきた。手を止めて縁側の広い背中をじっと見つめる。元親は気づいているのかいないのか、時折日の光に透ける白髪をかき混ぜながら、縁側に胡坐をかいたままじっと背を丸めている。
そうやって、たぶん、半刻。



「・・・姿勢が悪い」



口をついて出てしまった言葉に気づき、はっと元就は手で口元を覆った。あぁ?と声がして、止まっていた時間が動き出す。元親が振り返る。薄暗い部屋と明るい縁側の光の差に慣れないのか、ひとつ目を細めてじっと部屋の奥を覗ってくる。
元就は思わず首を竦めた。
「なんだと?俺のことか?」
「・・・・・・」
「姿勢、が、悪いってかぁ?・・・はっは!!」
元親は元就の言葉を繰り返して真似ると、肩をゆすって笑った。
「あんた、時々女房みたいなことを言うよなぁ。いや、お袋さんか?」
「・・・別に、我は、おなごのように貴様を心配しておるわけではない。思うたままを述べたまで」
「はっはは、そりゃァそうだ」
余程可笑しかったのか、元親はくつくつと笑い続けている。
元就は少しむっとした。
「姿勢が悪いと根性も捻じ曲がると、童の頃大方さまが我によう仰ったが。まさに正鵠を射ておる言葉よ」
「なんだ、そりゃァ。俺の根性が曲がってるって言いてぇのか?」
「人の忠告を真面目に聞かず笑うことは、こころが曲がっておらぬと言えるのか」
「忠告って、・・・なんだ、ってことは結局俺を心配してくれてんじゃねぇか。あんたのほうがよっぽど素直じゃねぇだろうがよ」
「・・・・・・、もうよい」
珍しく口論でやりこめられてしまい、元就は焦って立ち上がった。それを見て元親はゆるやかに笑うと、自身も立ち上がる。部屋が一瞬翳る、背が高い彼の影が奥まったところに居る元就の位置まで差し込んできたからだ。それを見つめ、顔を上げると、元親はもう元就の傍まで近づいてきていた。見上げるほどに大きい、と元就は思う、
けれど。
「・・・前々から思うておったが。貴様、少し猫背だな。前屈みというべきか」
こんなときでも生真面目な口調に、自分で少々うんざりしたが、発せられた言葉を再び飲み込むわけにもいかず元就はじっと上にある元親の目を見つめる。元親は自分の肩を右手でさすりながらぺろりと舌を出した。
「おぉ。否定はしねぇよ、あんた、よっく見てんなぁ、俺のこと」
「黙れ。歪んでいるものが気に食わぬだけだ」
「おいおい、非道い言い様だな・・・」
構わず元就は続けた。
「武器が重うて、そうなったか」
元親は笑った。
「いいや?・・・ただ、天井が、俺には、近いんだよ」



元就はぽかんと自分より上にあるひとつ目を見た。
あぁ確かにいつも我はこやつを見上げているな、と今更ながら思った。元親はそんな元就のようすを見て苦笑しつつ、唐突に逞しい腕を差し出すと元就の両脇に差込む、
あっと思う間もなく元就の体は軽々と抱き上げられた。
日頃より元親の扱う武器を見て、さぞ重いだろう、一体こやつどのような腕力をしているのかと内心不思議に思っていたのだが、それはもう父親がわが子を抱き上げるかのように軽々と。気づけば元親の腕の上に腰掛ける形になっていて元就は焦った。
「・・・ッ、き、貴様!何をするか、離さぬかっ」
「まぁ、いいじゃねぇか」
元親は機嫌よく笑っている。
上、と言われて、こちらは不機嫌な表情のまま元就は天を仰いだ。あ、と声が出た。
鼻先に天井板が当たったのだ。
元就は黙って下を向いた。すぐ傍に元親の一つ目があって、にこにこと此方を見ている。
「なぁ?近いだろ?」
「・・・・・・」
元就は黙ったまま、今度は下方へ目を凝らした。これが日頃見慣れた自分の部屋か、と思うほどに見える光景は違っている。襖よりもその上に飾られた欄間の煤けた色が妙に目についた。先ほどまで座っていた元就の文机が遠慮がちに部屋の隅に蹲っている。小さい。自分の書いた文字はもっと、小さい。
そういえばいつも元親はこの部屋に入るとき身を屈めていた。
「・・・おろせ」
再び命令すると、素直に元親は応じてくれた。離れるとき、ふいうちの仕返しとばかりに元就は銀色の髪のひと房を引っ張った。元親は、いてぇよ、毛利、と言いながら、大して痛そうもない様子で笑っている。大概の場合、元就のすることは元親は笑って受け入れるのだった、そして、毛利、と呼びかける。
意味を成さないその呼びかけが元就は好きだ。



「俺の一族は、昔っからどいつもわりと背が高いんだがよ。俺ァまたがきの頃から特大だったらしくて、親父は城を改装するとき、成長したとき辛かろうと天井も随分高くしてくれたんだがなぁ」
「・・・・・・」
「親父の予測を裏切って、俺はどんどん大きくなっちまった。・・・天井が、どんどん、日に日に近くなって」
元親は話しながらその場に腰を下ろし、元就へも座れと仕草で促す。元就が少し離れて座ると、元親は黙って胡坐をかいて、少しぼんやりした表情で明るい庭先を眺めた。いつの間にか元親が座っていた場所は日が当たらなくなっている。
「なんてぇんだろうな・・・押しつぶされそうで、下ばっか向いてたかな」
「・・・・・・」
「けど、外に出る気もあんま無かったからよ。息が詰まりそうだったが、部屋にじっと座ってた。ねえちゃんたちにも、よく言われたなァ、弥三郎は姿勢が悪い、天を仰げって」
「・・・・・・」
「次期どのがそんなでどうするか、ってなァ。まぁそんなこんなで、屈みこむ癖がついちまったな」
・・・言葉が。
元就の脳裏で鮮やかに画像を結んだ。



白い鬼の子供は、大きくなっていく自分の体と、大きく自分に圧し掛かる長男という重圧を、逃げることもできずじっと受け止めて部屋の中で座っていたのだろう。その感覚は次男坊だった元就にはおそらく無縁のもので、きっと兄が生きていれば元親の言葉にもっと深く頷いたに違いなかった。日毎に近づく天井。日毎に背負わねばならない父の期待と、国と、民草たちと、時代の流れと。元親は何も言わないが、彼が下を向いていたのはきっとそういう意味なのだろうと元就は理解した。
同じだ、と思う。
背負うものは間違いなく重い。ましてや、元親は全てを捨てずにその腕(かいな)に抱え込もうとする。逃げることは出来ない、己一人で全てを。ひとつしかない目で全てを映し、ついてくる者へ笑顔を向ける。元就には出来なかった。それを彼はやっている。
苛苛した。
「・・・貴様、だから此処に来るのか?」
問い掛けは我ながら突拍子もないものだ。元親は苦笑すると、白髪をゆっくりとかき混ぜながら俯いた。
「いきなり、なんだよ、毛利」
声は少し、昏い。苛苛する。元就は元親を睨みつけた。
「理解して欲しいか。己の背負う重みをわかってほしいか」
「は?」
「無様だな。それほどに重いならば、背が軋むほどに辛いならば、捨ててしまえ」
「おいおい、何を言ってんだかわからねぇよ、どうした毛利」
「我にこそ、わからぬわ」
吐き捨てるように元就は言った。
あぁ、苛苛する。
何故だろう。元親の心も痛いほどにわかるというのに。何故辛辣な言葉を己はかけているのだろう。
「所詮これが我等に用意されたものだ。逃れることなぞできぬ。捨てることが出来ぬならば、いっそ天を破壊してみせるがいい。どうなのだ、鬼よ」
「・・・ほんとに、きついな、あんたは?ねぇちゃんを思い出すなぁ------」
元親の腕が伸びて、元就の肩を擦った。
「誰も、何も、言ってねぇよ。あんた、何を泣いてるんだ」
「泣いてなぞおらぬ。・・・ただ、貴様を哀れと」
「だから、俺ァ何も言ってねぇだろうがよ・・・そんなに、つまんねぇ話だったか?」
それとも、さっき天井に、頭ぶつけちまったか?とおどけたように言われて、元就は肩を掴む腕をぎり、と握った。痛ぇよ、毛利。いつものように呼ばわって、元親は柔らかく笑っている。その笑顔が苦しくて、元就はどうすればいいのか、自分がどうしたいのかわからなくなった。天井を仰ぐ。元親の視線は元就とは違っていたことを思い出す。この男がいつも何を見て何を考えているのか己は知らないのだと唐突に思い当たった。知っているつもりで全く知らないのだ、そもそも彼が何故此処にいるのか。毛利の、元就の傍にいたいと言うのは何故なのか。それすらわからない。
どうしようもなくて、元就は先ほどのように元親の髪をひと房、指先に絡めて引いた。自然に元親の頭が近寄る、顔が近づく。
「毛利?」
問い掛けで口元が開いて、日頃見えない元親の犬歯がひっそりと覗いた。元就は黙って己の、日頃輪刀を扱う指先で犬歯に触れた。刃のようだ。何を噛みくだくためにこの鬼はこの刃を?やさしい鬼は、天を破ることも背負った重荷を捨てることもしようとしない。けれど何かを喰らわねば。鬼は鬼でなくなってしまうだろうに。
「・・・理解、を、」
ほんとうに理解しあうことなぞ不可能とわかっている。それでも。
「・・・せめておなごなぞよりは。きっと、我のほうが」
呟くと、元就は元親の犬歯に唇を寄せて、舌先で触れた。
元親が全身を震わせている。それほどに驚いているのがわかって、少し何故か嬉しくなった。そのまま、柔らかい唇にも触れる。毛利、と掠れた声がこぼれたが無視した。何度も触れていると、元親の、元就の手を握り締めていた手が離れて、頭を掴む。毛利、毛利、と呼びかけながら、ぐうと頭を掴む掌に力が篭るのがわかる。
わかる。
きっと、わかっている。



「毛利、俺は、あんたに」



何度目かにそこまで言って、元親は元就の頭を掴んだまま激しく元就の口内を貪りはじめた。そのまま顔の角度を変えて、何度もなんども舌先が吸い上げられる。ついぞ経験したことのない激しさに眩暈が襲う。天井がくるりと回ったような気がした、そうしたら気づいたときは床板の上に二人転がっていた。背中がじくりと痛んだ。元就は、薄く目を開けて暗い天井を見つめる。
あぁ、我らから、こんなに天は遠いのに。
遠くから、我らを押しつぶそうと。
元親の蹂躙は続いていて、元就は呼吸ができず苦しくなって身を捩った。逃さないというふうにまた噛み付かれる。元就の小さな歯に元親の犬歯が当たる。少し錆びた血の味が口内に拡がる。その間も、毛利、毛利、と元親は呼んでいる。元就の口の中で元親は箍が外れたように暴れ元就を喰らっている。二人分の唾液も熱も全て溶け合って、もうどこからが毛利でどこからが長曾我部なのかわからない。ただ自分たちの起こす水音だけがぴちゃぴちゃと、外の日の光の届かぬ昏い部屋で漠然と響いている。
何処かから先ほどと同じように鳥のさえずりが聞こえた。



きっと最初からこうなるはずだったのだろうと、元就はぼんやり思った。ただ、自分たちが全く気づいていなかったし、考えもしなかっただけで------同じような匂いを、お互いの違う中に見つけたから此処で二人はいつもこうして一緒の場所に佇んでいたのだろう。違和感もなにもなく。ほんとうに、ただ、気づかなかっただけで。背負う辛さを、分かち合うことはできなくても、ほんの少し共鳴することはできると「わかった」その瞬間、こうなるはずだったのだと。
毛利、とまた呼ばれて、元就は、なんだ、長曾我部、とはじめて返した。
元親が動きを止めた。
いつの間にか互いをしっかりと抱きしめていることに気づいて、そっと二人で笑った。此処にいる、と、互いの体温を確かめながら。





Atlas・・・大地を永遠に背負う巨人