手紙



 白露を過ぎてもその夏はまだ暑さが染みるようだった。
 その日政宗は午過ぎてからの元就の居室にやって来た。入るぞ、といつもどおりぞんざいに声が掛かる。元就は顔を上げた。
 声の主は上半身を片肌脱ぎした不調法な恰好である。部屋の真ん中まで来ると、いきなり書見台の前に座する元就の側へしゃがみ、がばりと両腕で抱きすくめた。
 政宗の突拍子もない行動にはもはや慣れているが、元就は形のよい眉を顰めた。政宗は、元就の細い首筋に犬の仔のように鼻先をうずめていたが、やがて顔をあげ、困惑している顔を見て悪戯が成功したと言わんばかりににやりと笑った。
 揶揄われたと知ったのだろう、元就は少し眉間にしわをよせると、どけ、と呟いて細身の腕で政宗の身体を押した。当然政宗は離れない。
「どけと言うに。何をしておるか貴様は」
「――あぁ。暑くてよ」
「…ならばなおのこと、我にそのようにしがみつけば暑さが増すであろう。阿呆か、貴様」
 いつもながら辛辣な言葉に、政宗は澄まし顔で言った。
「アンタの傍なら涼しいんじゃねぇかと思った」
「…意味がわからぬ」
「気づいてないのかよ。アンタ、体温低いんだぜ、抱いてると大概俺のほうが熱い。…ま、終わる頃にはアンタもかなり熱くなってるけどよ」
「―――」
 元就はそれを聞くとぷいと顔を逸らした。目元が少し朱に染まっている。昼日中からあけすけに何を言うか、品のないことよとぼそぼそと口の中で文句を言っているので政宗は思わず声をあげて笑った。
 同じ邸で一緒に暮らし始めてから随分たつ。はっきりと互いの心を打ち明けたことは立場故に一度も無いが、距離は縮まっていて、政宗はこんなふうに元就をからかったり冗談を言ったりができるようになっていた。元就は根が生真面目なせいか反応が時折ずれていて面白い。意外なその一面を知ったことも今の政宗には密かに喜びだった。
「――悪かったな。もう、行くぜ」
 そう言うと政宗は立ち上がった。
 元就はふと顔を上げて政宗を探るような目で追った。
「貴様。なにか、あったか」
「Why? なんでそう思うんだ」
「――いや…」
 政宗は視線を受けて苦笑した。聡い人だ、と内心感心している。
 元就の問い掛けに、政宗は結局応えなかった。ただ、午後から厄介な仕事があってな、とだけ言うと腕を伸ばして元就の髪を撫ぜた。真っ直ぐなそれを指先に絡め弄びながら、面倒なことだが、しょうがねぇ、と呟いた。
 元就は何も言わなかった。


 政宗が言った『面倒なこと』が何かを、元就はその日の夕刻には知った。
 庭師と、おそらくは炊事番の女の話し声が、板塀の向こうから響いたのである。ご当主様はお見合いだったらしい、と嬉々として話す声に元就は書きものをしていた手を止めて庭のむこうにある板塀を、相手の姿も見えないのにじっと見つめた。
 何某という幕府要職の家の姫君だという。
「―――」
 手元の半紙に、ぼたりと墨が落ちた。元就は気づいて小さく吐息をつくと、筆を置いた。そうして、書きかけのものもすべてくるくると丸めて片付けてしまった。
 胸元の袷に入れてある紙の束にそっと触れて、それから二三度首を横に振る。
 つい先程届いた、今は国外へ逃れているかつての四国のあるじ――長會我部元親への返事をしたためていたのだったが、書き直すにも今日はどうもそういう気分になれなかった。


 夜、いつもどおりやってきた政宗は、元就にあらたまった話をするふうはなかった。
 いつもより機嫌よく饒舌に喋っている。くだけた様子で、部下たちの街でのつまらない失敗話や、領地で噂になっていること、最近読んだ面白い書物などについてつらつらと話は続いた。
 元就はひっそりと眉を顰めた。内心些か落胆めいた気分だったが、政宗が話さないものを己から、昼間の縁談はどうだったと訊くのもおかしな気がして黙っていた。
 ひとしきり話した後、政宗はまじまじと元就の顔を見つめて、どうした?と問うた。
「ヘンだぜ、アンタ。ぼうっとして。…暑さにやられたか?」
「いや…」
 日中は暑くとも、さすがに夕刻以降は涼風が立つようになっている。だから大丈夫だ、と口籠りながら告げると、暑いならもう少し着崩せばいいのに、と政宗は笑った。
「元気ねぇな。心配だ」
「…別に。然程のこともない。我に構わず貴様は勤めに励め」
「Ah? 十分励んでるぜ。小十郎も褒めてくれたさ」
「……」
「どうしたんだよ、つれねぇな。どれ」
 ふいに政宗の腕が伸びてきて、元就の着物の袷に手がかかり、ぐいと衿を引いた。言葉どおり(ふざけてだろう、当然)きっちり着こんでいる着物を一枚脱がそうとしたのだろうが、元就は突然のことに驚いて思わずその手をはたき落としてしまった。
「痛ッ、――なんだってんだよ、叩かなくてもいいだろうが!」
これも驚いたらしい政宗に、すまぬ、と早口に元就は詫びたが、ぱさりとなにかが二人の膝先に落ちた。政宗が拾う。元就は思わず、あ、と声を上げていた。
「…なんだ。元親からの書状かよ」
 それが何かに気づいて、急激に政宗の口ぶりは重くなった。
(…間の悪いことよ)
毛利は俯いた。いつも元親からの手紙は読めばすぐ当主である政宗に渡して見分を頼むのだが、今日は偶々、政宗の昼間退室した後に手紙が届いたのである。さらに庭先での『他愛ないおしゃべり』を聞いてからそちらに気を奪われ、すっかり忘れてしまっていた。
 政宗はしかし、そうは取らなかったらしい。じろりとひとつだけの目で元就を見遣ると「読んでいいだろ」とぶっきらぼうに訊いた。元就は黙って頷いた。
 元親からの書状の内容はいつもどおりだった。元気にしているか、からはじまって、元親の近況、前回の手紙の内容への返信、と続く。最後にさりげなく、会える日(長會我部が元就を奪還する日のことだ)を楽しみにしている、と。政宗にくれぐれも宜しくと書かれて、終わる。
「――気楽なこったな。元親の野郎は」
 呟くと、政宗はそれを元通り畳んで元就のほうへぽいと投げた。元就は畳の上に落ちてしまったそれを黙って拾い、再び袷へ隠すように挟み入れた。政宗はじっとその様子を覗っていたが、前髪をかきあげると、いつ燃やすんだ?と訊いた。元就は少し視線を逸らした。
「まだ返答を書いておらぬ。書き終えたら燃やす、いつもどおり」
「…ふうん。そうかよ。なんで今日はアンタから俺にそれを見せなかった?」
「忘れておった。それだけのこと」
「便利な言葉だな。記憶にございません、てか」
 政宗は勢いよく立ち上がった。
「結構なこった。俺は国のことで振り回されてるってのによ。いっそ俺も家と当主の座を失ったほうが自由に生きられていいのか?元親みたいに」
「…罰当たりなことを申すでないわ。童子のような我儘を言う間に、貴様は己の職分の重さを弁えよ」
 思わず厳しい言葉が出た。本音であり真理だったが、今の状況には悪いものに違いなかった。たちまち政宗の表情は厳しくなった。
「俺は、少なくともアンタらよりちゃんとやってるぜ。だからまだ当主でいられるんだ!」
 つきつけられたのは「真実」だった。元就は俯き、唇を噛んだ。
 言いすぎたことに気付いたのだろう、政宗は口を噤むと、じゃあなとだけ告げて部屋を出ていった。


(なんだってんだよ。shit!)
 政宗は面白くない。
 午後からはまさに、刀持たぬ『斬り合い』だった。腹のさぐりあい、というよりは腸の引き摺りだし合いというべきか。
 伊達を取り込もうとする幕府傍臣の娘を輿入れしろと言われたのは少し前だった。当然受ける気はない政宗は、この話が持ち上がったときから小十郎たち側近とどう断るべきかと思案してきた。唯唯諾諾と言うなりになるつもりは勿論無い。風下に立つつもりも、無い。
 何より、現在ひっそりと邸奥で「預かっている」毛利元就の役目が、この話を受ければ事実上終わってしまうことは明白だった。元就は中央が伊達への牽制のために送った人質である。利用価値がないとなれば、他家へ送られる。
 政宗は元就に夢中だったから、たとえどこの美貌の姫君がやってきたとて然程興味もわかず疎遠になってしまい、かわいそうなのは結局その娘だということもよくわかっていた。だがそのとおり説明するわけには勿論、いかない。角の立たないように断るにはひたすらに頭を低くし、すでに伊達は十分そちらに従属しているからにはこれ以上の繋ぎをつくる手立ては必要ない、今しばらくはまつりごとに勤しみたいと訴えるしかない、と小十郎たちは言った。
 頭でわかっていても、矜持が高いためにやはりどこか納得行かない様子の政宗に、いいですか政宗様、と小十郎は諄々と説いた。ここで辛抱するも当主の器です、決して激昂なさいますなと。
 Okey, と短く応えて、政宗は約束どおりその場を腰の低い辺境国の当主として演じ、乗り切った。屈辱だったが、縁談を持ってきた格下の相手に敬語を使い、頭を下げ、献上品を積み上げて丁重に断ったのである。
 だがあと一押し、と思えたところで、相手は意外なことを言った。当の姫君が奥州の独眼竜の男ぶり高いという噂に興味をお持ちだと。無碍に断られては心を傷つけますぞと脅すように言われて政宗は苛立ったが、一瞬答に窮した。これは想定していないことだった。ちらと小十郎を見れば、こちらも困惑している。
(――しゃあねぇな)
 政宗はひとつ溜息をつくと、おもむろに自分の眼帯を外した。
他人の前ではまず外したことはない。その行動にむしろ小十郎が驚き、声をあげかけたが政宗は手で制した。
 眼球がすでに無いそこには縫い合わされ皮膚が引き攣れてはいるものの、暗いうつほが僅かに今も開いている。引き摺りこまれるような龍の闇にも見えて、使者たちはきまり悪げに視線を逸らした。政宗は乾いた笑い声をあげた。
「ご大層な肩書きの御使者方がその様子じゃ、そこらの姫君なんざこの顔を見れば泣いてしまわれるんじゃねェのか。――噂にまどわされてねェで、現実を見ろと伝えとけよ」
 話は、そこで終いになった。


 使者たちが帰ったあと、小十郎は深々と政宗に頭を下げて、涙をこぼさん勢いで政宗の咄嗟の行動を褒めちぎった。すでに眼帯をつけた政宗は苦笑しながら、そこまで褒めなくてもいいぜと言っておいた。
 自分の顔の醜い部分を曝け出すのは、政宗にとっては痛みを伴う。精神的な痛みだ。幼い頃からの引け目であり、誰にも見せたくない弱みでもある。
 それをあえてしたのは、どうしても今回の話を受けたくないというのもあったが、――元就といっときでも長く一緒にいたいという必死さの表れに違いなかった。いつかは別れるにしても、少しでも長く。少しでも密な時間を欲しい。その一心だった。
 だからこそ、政宗は誰よりも、元就に今回のことを褒めてもらいたかった。縁談云々を言わず(いかにも彼のために奮闘したと自分から言うことになるのでそれは恥ずかしい)、どう告げればいいか、かなり思案してみた。結局うまくまとまらなかったが、とにかく一刻もはやく顔を見たかったので部屋に行った。政宗はその時点では頗る機嫌がよかったのは間違いない。
 今日のことをどう話せばいいか、喋りながらも考えていた。だから元就の様子がおかしいことに気付いたのはだいぶ時間も経ってからだった。
 視線を合わせず俯いてばかりいる。連日の暑さで参ってしまっただろうか、と急に心配になり、さりげなく自分のほうへ引き寄せ様子を知ろうと襟元へ手をかけた。
 が、その手を勢いよく叩かれて、政宗は呆気にとられた。そんな嫌なことをしただろうか、具合が本当に悪いのか――思考が彷徨っている間に、二人の間に溝をくっきりと描くように現れたのは元親の書状だった。
刹那、政宗は冷静でいられなくなった。
 いつも、そうだ。いつかこの目の前の想い人がいなくなるのだと、紙切れ一枚の存在で政宗に現実を突き付ける。今回はいつも以上に悪い状況で現れてきたことにいよいよ政宗は苛立った。
 元就がそれを、いつものように自分からすすんで見せずまるで隠していたかのような態度なのにも苛立った。彼を手元に置いておくために、守るために、自分は昼間この醜い傷跡すら衆目に曝し、卑屈に頭を下げてきたのである。努力も想いも踏みにじられたような気がして政宗は思わず酷いことを言って部屋をあとにしてしまっていた。
「…なんだってんだよ…」
 自分の懐の狭さに何より腹が立ったが、どうにも苛立ちはおさまらず、政宗はそのまま自室に戻った。


 丸三日ほど、忙しいのと不機嫌があいまって政宗は元就の部屋に行かなかった。
 四日目に流石に言い放ってきた言葉を反省し、政宗は関係修復のために元就の部屋に赴いた。
 その日もやはり暑かった。近づいてみれば元就の部屋は珍しく襖がすべて開け放たれている。屋内は外にくらべればだいぶひいやりとした空気が流れていて政宗はほっとした。
 いつも部屋の中で端坐している姿は見えなかった。奇妙に部屋は片付いており、政宗は不審に思いながら隣の間を覗いてみた。
「―――」
 元就は部屋の片隅で畳の上に丸まって寝転がり、すうすうと寝息をたてていた。珍しいことだ、と嬉しくなって政宗はそっと傍らにしゃがんでその寝顔を覗きこんだ。夜には何度も見ている寝顔も、薄暗いとはいえ昼間だとどこか幼く見えて、見知らぬ彼をまたひとつ知ったとますます政宗は喜んだ。
「もとな――」
 声をかけようとして、襟元へ目がいく。
 袷の中に、白い紙が見えた。政宗はどきりと心臓がはねあがるのを感じた。
 …抱かれているのは元親からの手紙に違いない。
(…もうあれから三日経ってるってのに?)
 政宗は唇を噛んだ。
(燃やすんじゃなかったのかよ…)
 いつもなら、とっくに燃やしてしまっているだろう頃合いである。
 元親からの書状を元就が燃やすたび、政宗は元親に申し訳ないと思う反面、どこか優越感に浸っていることも事実だった。元親が心を籠めて書いたものを、元就は政宗に迷惑のかからぬように、内容は頭にあるから大丈夫だと静かに悟ったような口ぶりで、火にくべる。もしも自分が元親ならばきっと哀しいに違いないと思うが、一方で自分をそうやって毛利が思ってくれているのは嬉しい。この「手紙を燃やす」行為がなければ、政宗は或いはもっと卑屈になって元親と元就の絆を見ているだけしかできなかったかもしれなかった。
(なんのことはねぇ、――まさに今が、そうじゃねぇか?)
 なんとも言えずやるせなく、政宗は俯いた。三日前に必死に頭を下げていた無様な自分を思い出し悔しさが沸々と募った。想っても、想っても、通じていないのか。通じていると思ったのは自分のひとりよがりかと不安と疑心暗鬼だけが大きくなる。
「……ッ」
 そっと手を伸ばすと、胸元に抱かれた書状を掴もうとしていた。
 気配に気付いたのだろう、身動ぎして元就は目を開けた。政宗は固まった。
 政宗が目の前にいることに気付くと、一瞬身構えた元就はすぐ力を抜いて緩慢に体を起こした。が、政宗の表情に怪訝そうに眉を顰めた。
 政宗はさらに無言で手を伸ばし、――その胸元に挟まれた紙の束を素早く取り上げた。
 なにが起こったか理解して、元就は驚愕の表情を浮かべた。
「――貴様、何を」
 返せ、と元就は小さく叫んだ。彼にしては珍しいことだった。その必死な声が余計政宗を苛立たせた。
「どうせ、燃やすんだろ。俺が今燃やしてやる」
 政宗は冷たく言ってのけた。元就は目を瞠った。
「やめよ。許さぬ」
「もう三日経った。賢いアンタなら内容くらい全部頭に入ってるだろ?いつもだったらとっくに燃やしてるじゃねぇか。なんでこれだけとっとくんだ」
「許さぬと言っている!返せ、我に」
「なんでだ?そんなに大事か、これが?元親がそんなに大事か?俺は…俺のことはどうでもいいのかよ。アンタのために俺だって、アンタのために」
「政宗!返さぬか!」
 名を呼ばれたことでかえって怒りに火がついた。こんなときだけ母親のように名を呼ぶのだ、と卑屈に思った。政宗は紙の束を掴んだまま庭先に躍り出た。元就が後から追い掛けてきたが足がもつれたのか縁先で転んだ。その隙に政宗は小姓を怒鳴りつけると、火種を持ってこさせた。足元に紙束を叩きつける。
 よせ、という声を無視して、政宗は紙に火をつけた。――炎が、ふわりと上がる。
 これが燃えつきるときに自分たちの関係も灰になってしまう、と、そのときようやく我にかえった。ざわりとなにかが背を伝った。茫然と見つめる前で、ゆっくりと小さな炎は広がる――


 政宗は次の瞬間起こったことに声を失った。
 元就が転がるように足元に飛び込んできたかと思うと、炎の舐める紙を素手で掴み、その火を消そうと掌で叩きはじめたのである。毛利の手を嘲笑うように炎はゆっくりと拡がる。
「…Crazy!! なにしてるんだアンタ!」
 政宗はその手を掴んだが、元就は紙束から手を離さない。おい、水持ってこい!と政宗は叫んでいた。小姓の一人が先に用意してあった桶に入った水を元就目がけて慌ててこれでもかとぶちまけ、火はようやく消えた。
「―――」
 巻き添えで濡れて、政宗は呆れた顔で元就を見つめた。
 頭からずぶぬれになって、毛利は半分焼け焦げた紙の束を手に呆けたように座り込んでいた。
「…そんなに、大事かよ。これが」
 政宗は力なく言うと、足元に何枚かばらけて落ちている紙きれを見た。
 そうして、息をのんだ。
「おい。…これ――」
 元就は勢いよく政宗の足元に落ちている幾枚かを急いで拾い、がさがさと胸元に入れた。その手は火傷でところどころ赤く腫れていた。おい、と政宗は呼んだ。呼びかけるだけで泣きそうになった。
「おい、アンタ。それ、もしかして」
 先程政宗の目にうつったのは、見覚えのある癖のある字だった。書き損じては線を引いて書きなおし、あるいは隣に書き足し、字の大きさもまちまちの――
「それ、もしかして、…俺の書いたやつ、か?」
 元就は黙って立ち上がる。
 それから厳しい眼で政宗を睨むと、火傷した手で、ぱしん、ぱしんと二度、政宗の頬を張った。政宗はもしかしたら人生初めての経験かもしれない他者からの平手打ちに、ぽかんとして元就を見た。
「おのれこの愚物めが…話も聞かず、他者のものを勝手に火にくべるとは呆れてものも言えぬ」
「いや…Sorry,…悪かった…」
「詫びて足りると思うな。下種が」
 酷い言葉を吐き捨て、毛利は縁先から部屋に上がろうとして、――下りるときと同じようにまた、転んだ。縁先に倒れたまま、今度は立ち上がらない。政宗は慌てて駆け寄ると、おい大丈夫かと呼びかけて抱き起こし、ぎょっとした。
 元就は手を抱くようにして震えている。痛、と小さな声がした。手首まで赤く腫れて、さっきより酷くところどころ水泡もできている両手に政宗は蒼褪めると狼狽したまま格好構わず叫んだ。
「おいっ…誰か…医者!医者呼んで来いッ」


 診察した医者は話を聞いて呆れていた。薬を塗り包帯でゆるくつつんだ後も、痛みがひくまでは冷たいもので冷やすように言い含められ、政宗は神妙な顔で頷いた。
 元就は憮然とした表情で治療の間もいっさい無言だった。医師が退室した後、世話役の者もいなくなり政宗と二人きりになってもやはり何も言わない。政宗はなんとも身の置き所のない空気の中で、どう切り出したものかと思案しながら座って向こうを向いたままの横たわる後姿を見つめていた。
 やがて、もう去ね、と元就が言った。政宗はため息をついた。
「なぁ。謝ってるだろ、…なんであれを持ってたのか、聞かせてくれねぇか」
「……」
「あれ、俺が前に、アンタと本に挟んでやり取りしてた手紙だろ。まだ持ってたのかよ。元親の手紙は毎回燃やすくせに」
「……」
 そっと腕を伸ばすと、ごめんな、と言いながら元就の髪を撫ぜた。黙ってしばらく政宗のしたいように髪に触れさせていた元就は、やがてひとつ息をついた。
「貴様に縁談があったと聞いた」
「――あぁ、…随分耳が早いな。アンタの世話役におしゃべりがいるのか?」
「庭先で雀が喋っておったまでのこと」
 元就らしい言い方に政宗は笑った。で?と促すと、元就は仰向けになって天井を見つめた。
「その縁談がまとまれば、伊達は幕府方とより強固に繋がる。我は此処には用済みであろう。なれば別所に移されるは急であろうとふんで荷物を整理したまで」
「……そうか」
 片付いていた部屋を思い出し、政宗は少しずつ気恥ずかしくなり、俯いた。元就がまとめた最小限の荷物の中に、自分の書いた手紙が入っていたのだと思うと嬉しさに気が遠くなりそうだった。
 半分焼け焦げて、その紙の束は枕元に置かれている。政宗は何枚か手に取って眺めていたが、やがてくつくつ笑った。
「あらためて見ると、俺の手紙は酷いもんだな。今度からもうちっとマシに書くよう気をつけるぜ」
「別に気にする必要はなかろう。貴様は、今後も、我が去った後も、もはや手紙などよこさぬだろうから」
 何処か夢を見ているような声だった。政宗は黙った。
「…我としたことが迂闊なことよ。他愛のないものに執着してくだらぬ怪我を負うとはな」
「……そう言うがな。俺だって頑張ったんだぜ。縁談断るのに」
 弁解のように言うと、そうか、とだけ素っ気なく元就は言った。政宗はむきになって元就にがばりと覆いかぶさると顔を近づけた。
「アンタをなんとしても手元に置いとくためにな!頭下げて、金品積んで、おべっかつかって――この眼帯も外して傷を曝け出して、脅してやった!小十郎に聞いてみろ。よくやったって手放しで褒めてくれたぜ?なのに、アンタは褒めてくれないのかよ」
 それを聞くと、元就は僅かに哀しそうな顔をして至近距離の政宗の顔をじっと見つめた。
 やがて、くだらぬ、と声がした。くだらなくねぇよ、と意地になって政宗は言い返した。
「人質一人のために、矜持も何もかもかなぐり捨てるなぞ、一国の主のすることではない。くだらぬとはそういうことだ」
「じゃあ、アンタが俺の書いたその殴り書きの手紙を守るために、両手火傷したのだってそうだろうが。そっちこそくだらねぇ」
 いつしか額をぴたりと合わせて、二人で罵りあう。
「阿呆か貴様は…」
「アンタだろ。Crazyだぜ。こんな怪我して、どうやって明日から飯食べたり風呂入ったりするつもりだ。俺に全部やれってか?」
「ふむ。そうだな。確かに貴様がやるが筋、か」
「あぁやってやろうじゃねぇか。覚悟しとけよ、はりついて世話してやるからな」
「…撤回する。貴様の務めを優先せよ」
「知るか。小十郎に任せときゃいい、アンタが治るまで」
「――いいかげんに、」
 窘める元就の口は、政宗の口に塞がれた。
元就は少し驚いたように瞬きをしたが、やがてゆっくり瞼を閉じた。互いの温かい口内をゆるゆると探るような口づけが控えめな水音を響かせて続く。
 やがて唇は、名残惜しげに離れた。
 俺がどれだけ嬉しかったか、アンタはわからないだろうな、と政宗はぽつりと呟いた。元就は、それを聞くとふと笑った。
「そんなことはない。我は、わかっている…と、思う。我も嬉しいのだろうか?」
「嬉しいのか?」 
「そうだな。…矜持の高い貴様が我のために頭を下げたは驚嘆に値するな…ふむ」
 相変わらずのわかりづらさだ。でもそこが政宗には面白く目を離せない。
「つまり嬉しいんだろ。それと――」 
 政宗はにやりと笑った。
「なんだ?」
「縁談、って聞いて、もしかして妬いてくれたかと思ってよ。どうなんだ、元就?」
 毛利は考え込むような表情をしていたが、やがて火傷の両手でその頬を軽く挟んだ。阿呆めが、と呟く。
「…動揺したのは確かであろうな。この我が」
 好きだと直接に言えなくても、いつか別れるとわかっていても――他者が見ればもしかしてくだらないやりとりでも。互いのために必死になれるのは、きっと幸せなのだと、言葉にならないままに理解して、再び二人は唇を重ねる。
 涼風がそよぎ、月明かりの中、芒の銀の穂を揺らしていた。(了)



伊達×毛利&幸村×毛利アンソロジー「花緑青」に書かせていただいたものです(タイトル変更・改訂しています)
主催様、大変有難う御座いました!