華飾り




(前)


 半兵衛の病室はいつも静かだ。
 その日、三成は眠る半兵衛の枕元で侍っていた。うとうとと午睡する姿は往時の面影はすでに薄く、力強さも勿論無い。それでも三成はこの華麗な軍師の采配も、教えられたことも、あますことなく覚えている。今すぐに目の前に思い浮かべることができる。
 時折食事の世話などしながら、あのときはこうおっしゃった、また別のときはこうだったと思い出話を半兵衛本人に訥々と告げると、病人はうっすら頬に紅を差して笑う。三成君は記憶力がいいねと褒められると三成は少し困って俯く。三成の記憶力は秀吉と半兵衛と豊臣にしか繋がっておらず、けれどそのとおり言うのは面映ゆく、ただ黙って三成は少し口元に笑みを浮かべる。



 ふと半兵衛が目を覚ました。
 三成が気づいて水は如何ですかと問うと、花が、と半兵衛は呟いたようだった。三成は瞬きをした。気まぐれなのか夢の続きなのか、と訝り白皙の面を覗きこむ。
 やがてもうすこしはっきりとうつつにかえったらしい半兵衛は、三成を見ると機嫌よくくすくす笑った。
「…花を用意させればよろしいですか?」
 控えめに三成が問うと、半兵衛はいやそうじゃなくてね、とやっぱり笑いながら言う。
「夢を見たんだよ。君がまだもうすこし…稚くてさ」
「…はい」
「綺麗な女の子の格好してた。藤色の着物着て、髪に華を差して…なんだったかなぁ。そんなことがあった気がするんだけど」
「―――ッ、それは」
 三成は赤面した。むかし小姓として寺に預けられていたとき、近隣の社の祭で元服前だった三成も嫌々駆り出されたことがあった。男女の衣服と立場を入れ替える奇妙な祭だった。そうやって魔や穢れを騙し祓うのだということだった。
 当時すでに三成は秀吉に認められ引き取られることが決まっていたが、まさにその寸前の出来ごとだった。よもや半兵衛があのときのことを見知っているとは思わず三成は酷く狼狽した。半兵衛と初めて見合わされたのは確か城に上がってからのことだった…
 昔のことです、よくご記憶でいらっしゃると呟くと半兵衛は最近にはなかったことだが目を輝かせた。
「そう、思い出したよ。秀吉に、いい子がいるから貰い受けることにしたと聞いて。どんな子かとこっそり二人で見に行ったんだよ。そうしたら祭をやっていて」
「…左様で御座いましたか…三成は存じませんでした」
「忍んで行ったからね。秀吉に、あれがそうだと教えられたときは吃驚したよ。女の子かい?って思わず訊いちゃってさ…ほんとに綺麗で可愛かったからね」
「―――半兵衛様、三成をおからかいになるのも…できればそのへんで…」
 三成が首筋まで紅くなりどんどん俯いていくのを、半兵衛は楽しそうに見守っている。
「からかってなんかないよ。三成君綺麗だったよ。今もだけどね」
 ―――懐かしいな、また見たいな、と声が続いた。三成は視線を少し上げた。
「なにを、でございますか」
「君のあの格好」
「…え」
「華を差して、化粧(けわい)して。魔祓いの祭だったよね確か」
「あ…あの頃とは三成も変わっておりますので…如何なものかと思います…」
「そんなことないよ。明るくなりそうだと思わないかい、この部屋。病も逃げそうな気がする」
 三成は困った。
 そっと部屋を覗えば確かに部屋は清潔ではあったが殺風景に違いなかった。訪れる者も限られている。自分の酔狂な格好程度で病魔が逃げるとは到底思えなかったが、たとえ子供っぽい我儘に似ていても、命の灯がか細くなっている半兵衛は実は真剣なのかもしれなかった。そして、敬愛する恩師の願いはなんであれ聞いてさしあげねばと律儀に三成は思った。
 しかし酷く気恥ずかしいことには違いない。今の自分があの格好をして、果たして半兵衛の見るに耐えうるさまになるのだろうか、と日頃自分の容姿などまったく興味のないだけに不安が押し寄せる。
 それに女物の用意など無く、ひとりではなんとも立ちゆかない。かといって誰かれ構わず手伝いを頼める類の話でもない。
 話し疲れたのか半兵衛はまたうとうとと眠りはじめていた。三成はその様子を見つめ、ぺこりと頭をひとつ下げるとそっと病室を辞した。
 廊下を歩きながら散々に考えたが、やはり誰かに頼るほかは方法は無い。しかし三成の頼れる者は限られており、最も近い位置にいる刑部も生憎と最近病がちで無理を頼める状況ではなかった。
(…奴、か?)
 三成は眉を顰めた。結局知己の少ない三成が思い起こせるのは、あとは家康しかいなかった。しかし正直この手の話を家康に持っていくことは憚られた。―――色々な意味で。



 その日家康も同じ城内に詰めて仕事をしていた。家康、と呼ばれふりかえると三成がいる。どうした三成、と、ぱっと顔を綻ばせて家康は三成に近づいた。三成は俯いて黙っている。
「どうした?なにかあったか?」
 不審に思い顔を覗きこむと、三成は視線を外したままぼそぼそと喋った。
「…貴様、笑うなよ。いいか」
「え?」
 家康は、大事な話だと三成の様子から見取り、頷いた。ワシは真剣な話を笑ったりはしないぞ、どんなときも。と言えば、三成はちらりと家康を前髪の隙間から見て口を開いた。
「わけあって、…女の着物の用意が要る」
「―――えっ?女?」
 予測していなかった言葉に、家康は内心酷く焦った。好きな女子でも出来たのか、贈り物をしたいんだろうかと一気に想像が膨らみ、同時に動悸が激しくなる。少し前から三成とは密かに体を繋げる関係になったばかりだった。家康は三成を大事に想っていたが、よく考えなくともはっきりと言葉にして伝えてはいない。当然ながら三成が家康からの求めに応じている理由は曖昧のままだった。こういうものだと割り切っているのかもしれない。
 家康は三成にもわかるほどに表情を曇らせたらしい。三成はふと眉を顰めると、貴様勝手にあらぬ想像をするな!と声を荒げた。家康は瞬きをした。
「あらぬ想像って…ワシは、お前が好きなご婦人に贈り物をするとか、そういうことじゃないのかと」
「それが勝手な想像だと言っているんだッ」
「…ええと。じゃあ一体なんで女物なんか、必要なんだ?」
 家康が腕組みをして同じくらいの高さにある三成の顔を覗きこむと、三成はぐっと唇を噛んだ。
「…が、着る」
「えっ、なんだ?」
「…ッ、私が着るのだ!わけがあると言っているだろうがッ」
「は―――」
 呆けている間に、がつんと刀の柄で鳩尾を殴られた。家康は痛っ、と言って腹を押さえ、お前が?となおも訊いた。
「なんでまた…」
「…半兵衛様に頼まれた」
「半兵衛殿に?何故??」
 ようやく三成は家康に、少しばかり小さな声で事情を説明した。家康は黙って聴いていたが、話が終わるとなんだそういうことか!と得心し、また内心少し安堵し、大きく頷いた。
「なるほど。よくわかった。半兵衛殿を元気づけるためなんだろう?何も恥じることはないじゃないか」
 真面目な顔で言うと、三成はまたふいと視線を逸らせた。
「…笑うなよ」
「―――だから、ワシは笑わないって。お前の心根はむしろ褒められるものだろう。なんで笑ったりなんか」
「違うッ!…私の格好を見て、哂うなということだッ!!」
「……あぁ、」
 ようやく三成の苛立ちを理解して、けれど家康は破顔一笑、さっきのお返しとばかりに強く三成の背中をばんばんと二回叩いた。
「なんだ貴様ッ」
「大丈夫だ三成!お前はおそらく別嬪になるぞ!ワシが保障してやる!」
 家康の笑顔に、三成は憮然とした表情で、根拠のないことを言うな!と口の中で文句を言った。
 


 請け負った家康は、手際よく自分の邸に勤める腰元を数人呼び出した。また、どんな着物だったか三成に思い出させて似たものを揃えた。
 それから城中の半兵衛の病室にほど近い部屋を借りると、三成を飾り立てていく儀式が始まった。
 腰元たちはそれなりに楽しそうだったが、三成はやはり憮然とした表情のままだった。けれど辛抱強く着付けや化粧に耐えていた。女の格好は時間がかかるな、まだなのかと途中で一度ぼそりと呟いたが、石田様、紅がはみ出しますのでと、三成の唇に紅を差していた腰元に注意されるとおとなしく黙った。
 家康は黙って部屋の隅で座ってその様子を飽くことなく見ていた。
 三成が戦化粧をしたところすら見たことは無いな、そういえばと考える。
 眦に描かれた朱や元々白い肌に塗られていく白粉や唇に差される紅は、鮮やかに三成を別人に仕立てあげていく。美しいな、と家康は思った。姿は家康の想像以上に美しく、…けれど、半兵衛のために三成のしようとしている心がなにより美しいと思った。
「…なんだ貴様」
 三成が苛立ったように見つめてくる家康に声をかけた。そのころには化粧は終わり、藤色の着物を三成は着せつけられているところだった。腰帯をこれでもかと締めてくる腰元に閉口しつつ、彼女たちには逆らわないものの、三成は家康には苛々した様子でささくれた言葉を吐く。
「何故貴様は此処でいるのだ。仕事に戻れ」
「いや…滅多に見られないだろう?仕事はいつでもできるし」
「貴様…秀吉様の御ために働く気が無いというか…?」
 家康はその言葉を、ハハハと笑って流した。もうあとは黙って、続く三成の変身を見つめる。三成も呆れたように溜息をひとつついた。言っても聞かないと諦めたようだった。
 


 やがて変身の儀式は終わった。
 現れた姿は腰元たちも胸をはる出来栄えだった。黙して座っていれば男とは最初は誰も気づくまい。
 いかがですかと腰元の一人に訊かれ、呆けたように見とれていた家康は我に返った。
「あぁ、…すごいもんだ」
「御髪(おぐし)はこのままでよいとおっしゃったので、華簪を差すだけであまり触れてもおりませぬが…」
「うん。いいんじゃないかな?昔したのと同じ格好にしたいだけだろうから…そうなんだろう、三成?」
 三成は俯いていたが、ちらりと家康を上目づかいに見た。家康は紅くふちどられた切れ長の眼差しにどきりとして、慌てて視線を別の方向へやった。
「じゃあ、ちょっと半兵衛殿の様子を見て来よう。もし起きてらっしゃるなら目通りすればいいし」
「…家康」
 三成が呼んだ。家康は視線を戻した。着飾った三成は普段とは別人で、苛烈な日頃の雰囲気もなりを潜め、人形のようにおとなしく其処に座っていた。打ち掛けの袖口から少し見える白い手首は細く、襟元から覗く首筋も普段以上に白く細い。家康はふいに、三成の手を掴んで抑えつけたいような衝動が湧きおこるのを慌てて飲み下した。
「な、…なんだ、三成?」
「……おかしくないか。半兵衛様にお見せして大丈夫だと思うか」
 家康は少し沈んだその声を聞くと、焦ったように首を横に何度も振った。
「おかしくないぞ!おかしいどころか。…その…綺麗だ、…うん、ほんとうに」
 同僚の男に囁く言葉にしては感情が籠りすぎていたかもしれない。腰元たちが袖口で口元を隠し、家康様そのように照れて、まるで婚礼の日の新妻相手のようですわと楽しそうに笑う。家康は気づいて、頭をかいて困ったように笑った。
 三成がじろりと睨んできた。そっと吐息をつく。
「…こんなもので、喜んでいただけるとも…お元気を取り戻してくださるとも思えないが」
 呟いた声は少し力がなかった。家康はそこで、この格好を三成にさせたのは半兵衛への思慕だったことを唐突に思い出した。なんとなく、自分のためにしてくれているような錯覚に陥っていた―――そのことにも気づいて、ちくりと胸が痛み、少し落胆もした。しかしそれを三成に気づかせるつもりもなく、三成が気づくこともないと分かってもいる。…体を繋げたといっても、三成は家康と違って、同僚同士の気まぐれな関係だとしか思っていないのだろう。…
「…ん、じゃあ、様子を見てくる。」
 少し寂しくなりながら、言い置いて家康は半兵衛の病室に向かった。
 


 果たして半兵衛は少し前に目覚めたところだった。家康は挨拶のあと、少しお待ちくださいと言ってなにも事情を説明せずに一旦下がり、三成を呼びに戻った。
「三成。半兵衛殿、起きていらっしゃるぞ。行こう、ほら」
 家康は手を差し出した。行儀よく座っていた三成は家康を見上げると、ほんの少し躊躇した後その手を取らずに立ち上がった。裾さばきにお気をつけくださいませ、踏んで転ばぬようにと腰元が声をかける―――その瞬間、まさに三成は床を引き摺る打ち掛けの裾の端をふみつけた。
「―――ッ」
 体勢を崩して家康の腕の中に倒れ込む。女物特有のまろやかな香りがふわりと立ち上って家康はどきりとした。
「おい大丈夫か、三成?…気をつけろよ」
 家康は声をかけ、少し笑った。三成はふと家康を見上げると、白粉の上からわかるほどに首筋を紅くした。無言で体勢を直すと、片手を家康に突きだした。
「…貴様が倒れないように補佐しろ」
 ぶっきらぼうに命令する。
 家康はきょとんとしたが、すぐに、あぁわかった、と言って三成の手を取った。白い手を引いて少し前を歩いていく。
 ふと、三成が本当に女性だったならこうやって手を引き歩く日も事実あったのだろうか、と思った。―――思ったけれど、すぐ家康は否定し、ゆるく頭を振った。家康は三成の手を引きたいのではなく、隣で対等に立っていたいと願う自分を知っていた。
 足元に注意をはらいながらそろそろと歩く三成に、明るく家康は言った。
「三成。半兵衛殿の前では顔を上げて、ちゃんといい顔しろよ?十分綺麗なんだから…いつもどおりにな」
 三成は家康を見た。少しだけ口元が綻んだ。