ビターチョコレート





(後)



冬至が過ぎて二ヶ月とはいえ日没はそれなりに早い。窓の外はすっかり黄昏色に染まって高層ビルの赤い誘導灯が規則正しく点滅しているのがわかった。カーテンを閉め忘れたままのガラスの外の景色は、濃紺の空とそれに連なる、区切りのない夜景だったが、そのせいで灯りのついた室内はガラスにあざやかに反射してまるで鏡そのものを見ているようだった。
元親は瞬きも忘れた。
元就は人形のようにくたりと動かない。脚を投げ出して壁にもたれて座る元親に、体重を全部預けて寄りかかっている。それを後ろから羽交い絞めにも見える格好で抱く自分がいる。客観的に見れば当たり前だ、勝手に眠って動かなくなった男を無理矢理動かそうとして失敗して倒れた。
それだけのことだ。
それだけの――――
「   」
僅かに元就の声が聞こえたような気がした。
元親はびくりとした。慌てて顔を覗き込む。その距離が非常に近いことにここでようやく気づいて焦った。元就は眠っていて起きた様子はない。なんだかほっとして再びガラスをそっと見た。
けれどガラスに映る自分たちは全然違う世界にいるように思えた。元親はぼんやりとしばらく見つめ、首を傾げた。ガラスにうつる自分も一緒に首を傾げて、あぁ俺だな、と元親は思った。
好きな相手を・・・無防備に体を預けて眠る相手を、抱いている自分。
ごくり、と喉が鳴った。



「もう、り」
動かない相手。寝息だけが規則正しく。
「もうり。毛利」
掠れた声で呼ばわると、元親は我慢できず元就の開いた襟元から覗く首筋へ鼻先をうずめた。どうしてかチョコレートの匂いがした。気のせいかもしれない。
そっと、細身の体を抱く腕に力を籠める。
蛍光灯の白い光の下なのに、意外にも元就の肌は健康的に標準的な日本人の色で、それを知って元親はどきどきした。自分のほうが色が白いかもしれない。首筋にかかる髪の色もまっすぐで細いけれど美しく黒かった。その色が余計に人形のようで元親を誘った。
首筋に唇を寄せてみる。ちらりとガラスを窺い見ると元就の体は先程より少し床にずれ落ちていて、鏡を見る元親へ喉元をさらしている。そこへまるで噛み付いているように見える自分。元親はさらに口元を開き、出した舌先でちろりと元就の首筋を舐めた。チョコレートの匂いと反比例する汗の味に現実味が一気に襲ってきて、元親はわけもわからずもうり、もうりと呼んだ。
元就は応えない。
これは毛利の形をした人形なのだろうかと不埒なことを元親は考えた。
このまま――――この動かない相手に、もっと触れたい。抱きしめたい。髪をからめとりたい。服を脱がせて肌の色を確認したい。あそこもここも全部、全部全部、自分の手で。自分の前にさらけ出してやりたい。そんなことを思う。思うだけでなく手が動いて元就の体をシャツの上から撫ぜていた。
やがて元就の圧し掛かる自分の腹部が気になって仕方なくなる。熱い。目の前に綺麗なきれいな元就の顔があって、そんな相手に欲情―――そうまさしく欲情だ―――する自分がとても滑稽だった。滑稽だと思うからこそ鏡となった窓ガラスを見るけれど、余計にそこに映る自分はかえって自身を挑発しているようだった。掌が元就の胸元をゆっくりとまさぐる様子。ボタンに指先がかかる。ひとつ外す。呼吸に合わせて上下する胸元がほんの少し顕になる。震える手を肌に添わせた。ゆっくり撫ぜると元就の胸の突起に指先がわずかに当たって、元親は息を呑むと慌てて手をシャツから引き出した。
元就が起きたらどうするのだ。起きたら・・・このままだと自分は。
(俺は)
(何を――――)









“ピンポーン”









チャイムの音に元親は飛び上がった。熱が嘘のように一気に冷えた。
家政婦が戻ってきたのだろうか。それとも。
もつれる脚を何度か叩き落ち着かせて部屋を出た。インターホンへ近寄ると、果たしてモニターに映っているのは元就の母親だった。
元親は我知らず呻いたが、ひとつ咳払いをすると黙ってエントランスドアの開錠ボタンを押した。それから元就の部屋に戻ると自分の上着を眠る元就に掛けた。
キッチンに入ると、コップに水を入れてあおった。
「・・・くそっ」
白髪をぐしゃぐしゃとかきまぜる。
母親に邪魔された、とは思わなかった。寧ろ感謝すらした。思い起こして、自分の一連の行動がどうしようもなく情けなかった。
同時に己を正当化したい欲求がある、それもまた浅ましいと卑下したくなる。俺は何をしたかったんだと口の中で呟いた。答えなんかとっくにわかっている。わかっている。認めようとしないのは自分。認めたくない自分。
(抱きたい・・・)
頭をぶるん、と振ると、元親は玄関の外で母親が来るのを待った。中に入っていきなり自分が出たら驚くだろうと思ったからである。エントランスのチャイムをならしたところを見ると、今日来ることは前もって元就に告げてはいなかったのだろう。元就もそんなことは一言も言っていなかった。バレンタインにはチョコレートを持ってきても彼女自身で食べるという笑い話ならば聞いていたが――――
エレベーターの停まる響きがして、廊下の向こうに母親の姿が見えた。彼女は、近づいて元親に気づくと案の定非常に驚いた顔をした。
「あら?あなたは」
「お邪魔してました、こんにちは・・・っと、もう今晩は、か」
「えぇ、こんばんは。遊びに来てくださってたのね、でも元就さんは?どうかなさいましたか」
「いや、その。一緒に、今日もらったチョコレート食べてて・・・どうやら酔っ払っちまったみたいで」
「酔っ払った・・・?」
「もらった中に、酒入りのがあって・・・」
すこし言い澱みながら元親はドアを開けた。
元就の部屋に先に立って案内する。さっき上着をかけたそのままに、元就はすうすうと気持ちよさそうに眠っていた。部屋の真ん中に重厚な碁盤、そのまわりには不似合いな、散乱する開封された食べかけのチョコレートの箱。元親はそのなかのひとつ、先程のリキュールボンボンの箱を指して、あれを気に入ってあいつかなり食っちまったんで、とぼそぼそと言った。
元就の母親は呆れたように元親と元就を見た。大人の立場としてはたとえ少量でも未成年が酒類とは何事かと怒るが当然だろう。元親は覚悟して首を竦めたが、しかし意外にも母親はふわりと笑うと、寝息を立てる元就の傍にしゃがんでその額に、いとおしむようにそっと白い掌を置いた。
おとう様も兄(あに)様も、お酒、飲めませんでしたものね、と。そんな小さな呟きが聞こえた。
「・・・・・・すいません。本当に」
「あら、気にしないで。元就さんの責任ですもの。ええと・・・あなたのお名前は」
「長曾我部・・・です」
「そう、長曾我部君。」
彼女はぱっと表情を明るくした。そうして、元就さんからお世話になっていると聞いていますと言った。
まさか元就が自分のことを母親に話しているとは思わなかったので元親は驚いた。



母親の指示で元親は元就をベッドに寝かせた。それから元就の部屋を後にしようと踵を返す。
「・・・・・・」
出る前に、母親がキッチンにいるのを確認して、元親はベッドの傍らに戻った。しゃがんで元就の顔を覗き込む。ゆっくり屈みこむと、元就の額に自分の額をそっと当てた。
ん、と今度はほんとうに声が聞こえた。起きたのかとしばらく待ったがやはり元就は甘い寝息をたてたまま。
溜息をひとつ。元親は元就の顔をしばし見つめていたが、やがて意を決したようにそっと――――元就の唇に自分の唇を当てた。ほんとうに、ほんの、一瞬だけ。心の中で元就に詫びながら。
「・・・好きだ、毛利」
ぼそりと小声で呟くと、元親は大急ぎで部屋を出た。
ダイニングに行くとコーヒーの匂いがした。長曾我部君嫌いでなければ飲んでいってね、と声をかけられて、元親はありがたくいただくことにした。
飲み終わってご馳走様を言うと、元親はテーブルを立った。元就の母親が、もうお帰りなの?と聞く。元就の目が覚めるまで本当は待っていたかったが、彼女と二人きりで此処で待つのも変だと思ったので、今日は帰りますと元親は告げた。
玄関まで見送ってきて、彼女は元親に声をかけた。
「元就さん、最近学校楽しそうなの」
「・・・そうですか?」
「きっとあなたのおかげね。お友達なんて連れてきたことなかったもの、今まで」
元親はなんと反応すればよいのか少し困って、黙って靴を履いた。履き終わってから、おじゃましました、毛利によろしくと言って頭を下げる。母親はこちらこそお世話おかけしました、と丁寧に礼を返して、それから真っ直ぐに元親を見た。その眸は元就を思わせる強い光をたたえていて、元親は思わず吸い込まれるように彼女を見つめた。
「長曾我部君」
「はい?」
「これからも元就さんと仲良くしてあげてください。どうかお願いします」
「え・・・それは、勿論」
「ただ」
彼女は白い陶製の人形のような顔に笑みを浮かべた。
「元就さんを傷つけないでね。約束。ね?」
「―――――」





マンションを出てバス停へ歩きながら元親はさっきの元就の母親の言葉の意味を考えた。
元就との付き合いに釘をさされた―――とは思えなかった。直前に「これからも仲良く」と言っていたことと考え合わせても。
計り知れない女性だな、と思う。やっぱり彼女のことは苦手かもしれない。
(・・・友人以上に踏み込むな、ということか?考えすぎか・・・)
そう思った途端、元親はさっきあの部屋で自分が元就にしようとしたこと、実際したことを思い出して一人赤面し掌で顔を覆った。
もし彼女が訪問していなかったら、あのまま自分はどうしていたのだろう。あの肌に触れて、唇に触れて。――――それからもっと?
想像するのすら申し訳ない気がして、元親はぶんぶんと頭を横に強く振った。
(いや、でも)
無様な正当化かもしれない。自分ひとりの空回りかもしれない。それでも確認しておきたかったこと。
(俺たちは恋人同士だってあいつも言った。だからチョコをくれた。あの毛利が)
(きっと、同意があればいい・・・はず・・・だよな?)
(なんつっても今日の場合は、あいつの意識が無いってのが問題だったんだよな・・・そうだ、うん)
(だから、俺は・・・俺は、あいつを)
抱きたい。
もう一度その言葉を反芻して、己の性急さに思い至りこめかみを押さえた。さっきのキスは同意を得ていない。元就は知らない。まだそこすら越えていないというのに。
深呼吸をして頭を垂れた。
きっと今日は、あれ以上何もなくてよかったのだ。元就の部屋で元就からチョコレートをもらい、一緒に食べながら碁をうって話をして・・・彼が酒に弱いことも知って、いつもとまた違う無防備な寝顔も見られて。
近くで。とても彼の近いところにいられた。
ほんの少しだけの、触れたか触れないかわからないキスをしたことは絶対に誰にも言うまいと思う。元就にも。それでいい。
今日あったことは、元就との時間としては、元親にとって十分満足できるもののはずだ。今まででおそらく、一番。
(・・・でも)
元親は振り返って、もう見えない元就のマンションの方角を仰ぐ。



(足りねぇんだ)
(毛利、お前が、足りない。)
(こんなに嬉しくても・・・まだ、足りない)





バスの最後尾座席に座って、元親はバッグからさっき元就に貰ったチョコレートの缶を出して眺めた。そこで初めて、後輩や市子にもらった残りのチョコの入った紙袋を全部あの部屋に置いてきてしまったことを思い出した。
まぁいいかと苦笑した。「これ」があればいい、そう考えて蓋を開ける。
ひとつ口へ運んだ。
元就がくれたチョコレートは、やっぱり普通のものより随分苦くて、元親は俯いて小さく笑った。まだまだ未熟な自分たちの関係のようだと思わずにいられない。



(毛利。・・・俺、甘いチョコレートだって、そんな嫌いじゃないんだぜ?)
(あんたが呉れるもんならなんだって。)



だけど俺は欲張りだから。もっと欲しい。もっと、もっと、もっと。



(了)





・何気にカラオケの話の対みたいになってしまった(構成が) あと前描いた漫画とおんなじですね酔って云々、の展開、すいません_| ̄|○
・satieのチョコをイメージ。定番のシャポーは食べたことありますが(<美味しいv)苦いやつは食べたことないので、ほんとはどんだけ苦いか知りません;
・なんかもーどんどんオリジナル色が強くなりすぎてて、ついてこれないって方もいらっしゃる思います 申し訳ないです(土下座)
・ギリギリでおあずけになってしまった元親君にも懺悔しときます(汗笑) 次がある・・・!(はず)