誰かの願いが叶うころ





(11)


一番最近毛利と会ったのは二日前だった。
あの沢辺での些末事の後はずっと、政宗はそれがまるで“なかったこと”のように毛利の元へ行き、振る舞った。毛利も同じである。
日によって政宗と毛利の距離は近づいたり、離れたりする(政宗はそう感じる)。あるときはすぐ隣合わせに座って盤上を覗きこむように、息がかかるくらいの近くで碁の手を議論することもある。けれど翌日には畳二枚分以上近づかず、政宗はぼんやりと毛利を眺め、毛利は淡々と普段どおりの彼の日課をこなす。話がまったくかみ合わず政宗が苛立ってすぐ帰るときもあれば、ずっと話していたいと切なくなるくらいに長時間なんとなしに話を続けることもある・・・
落差が激しすぎて、政宗は毛利が自分をどう思っているのか、いまだよくわからない。
(・・・考えるまでもないか)
ぽつりと、零した。
毛利は敗者で、借り物の人質だった。政宗は勝者で、人質の失ったすべての権利をかわりに握る者だった。どう感じるも何も無い。支配者に対して奴婢が感情を持ち要求をすることは許されぬ。
(じゃあ、・・・俺は、あの男に・・・どうしてほしいんだ?)
それはもっと難解で、もしかしたら永遠にはっきりと答の出ない問い掛けかもしれなかった。何故なら政宗自身が望んでいない。
手に入らないはずのものを欲して、家臣の忠言にも逆らい―――けれど実のところ、政宗は「手に入らないこと」の意味をよく知っている。望んでも無駄かもしれないものに、必死に執着することが、怖い。
矛盾している。
求めて接近しながら、拒絶し乱暴な態度を取る。あるいはまた逆に目も合わせずに口づける。そういう辻褄の合わない自分を政宗は知っていた。いざ手に入らなかったときに自分を壊しきらないための言い訳を用意している、在る意味本能的な自己防衛かもしれなかった。
毛利を欲しいと思うのと同等に、毛利の心をすべて暴くことが・・・手に入れることが、怖い己を、知っている。手に入れた瞬間に互いの関係は劣化していく。
近づいたら、あとは離れるしかない。
かつて必死に近づこうとした母親が、最も政宗に近づいたのは毒を喰らわせたときだった。政宗が彼女に最も自ら近づいたのは、彼女を打ちすえて喉元に刃をあてがったときだった。そして二度と二人は近づくことはなかった。



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目の前では元親が、ずっと頭を下げたままだった。
政宗はやがて、口を開いた。
「・・・その“毛利元就”と会って、・・・アンタ、一体なにをするつもりだ?」
「・・・・・・」
「・・・殺すのかよ?」
元親の体がびくりと震えたのを政宗は視た。けれどそのまま続けた。
「だったらきけねぇ相談だな。あれは徳川から預かってる大事な人質―――」
「―――そんなんじゃねぇ!!俺はッ」
一瞬弾かれたように顔を上げ、・・・けれど元親はすぐまた頭を畳に擦りつけた。はっきりとした声が響く。
「俺は、・・・あいつが生きてるなら、言わなきゃならねぇことがある。あいつと最初に会ったときからずっと、思ってたことだ。どうしたって、これだけは・・・やらなきゃ、俺は、俺でなくなる」
「・・・なんでだ?なんで、そんなにしてまで。何を言うってんだ?」
政宗の出した声はどうしてか震えていた。自分を落ち着かせようと政宗は静かに、声の合間に空気をゆっくりと吸った。肺腑が小さく軋む音がしたように思えた。
「敵だったんだろ。いつかも言ってたじゃねぇか。・・・最後の決戦のとき同じ陣営だったってだけで、そんなふうに思うものか?・・・それとも、これまでの恨みごとをつぶさにぶつけてぇだけか、あの男に?だったら時間の無駄だぜ元親」
「そうじゃねぇ。そんなんじゃねぇんだ、―――政宗。俺は・・・」
元親は、意を決したように、言葉を一言一言、告げた。
「俺は。・・・あいつを、逃がしたいんだ。この国から、・・・あいつを、自由にしたい。誰のものでもない、あいつ自身に、あいつを返してやりてぇんだ」
「―――!!」
政宗は、思わず腰を浮かせ立ち上がりかけた。
なんてことを言いやがる、と呻き、声を振り絞った。毛利は伊達家が預かっているのである。それを横からさらわれたとなれば―――伊達家が咎めを受けることは間違いない。
小十郎も険しい表情で、再度腰の刀に手を掛けた。
元親の頭はその言葉に、畳にめりこまんばかりにまた下がった。面目ねぇ、勝手言ってることはわかってるんだ、と震える声は、けれど折れずになおも続けた。
「お前に甘えてることも、十分分かってる。だから無茶はしねぇ、すぐにとは言わない。お前に迷惑かけることはしない。方策はきっと講じてみせる。・・・ただ、俺に今必要なのは、あいつに会うことと・・・あいつから、答を引き摺り出すことなんだ。あいつの生きる意志を見たいんだ、・・・もう中国のための人形じゃなくて・・・あいつ自身がどうしたいのか」
政宗は、何も言えなかった。元親は、泣いているように思えた。
「あいつがどう応えるかは、あいつの自由だ。けど、俺は、あいつを連れて行きたい。・・・お前も、片倉さんも、ほかの者たちも、俺があいつを説得するのを傍で聴いててくれてかまわねぇ。俺らを見張っててくれて構わねぇ。だから」
会わせてくれ、と。



政宗は次第に息苦しくなってくるのを自覚した。
小十郎をちらと見遣れば、一言で拒否されると思われたのに意外にも難しい表情をして、口を噤んで元親を見つめている。どれほどの必死の覚悟で此処まで来て、この場所で政宗に頭を下げているのか―――幾らかは元親という男を知っており、あるじと対等に在る者として認めていた過去があるだけに、心中複雑であろうことは容易に見てとれた。
政宗の視線に気づくと、小十郎は深いため息をついた。それから緩やかに頭を左右に振った。それは拒絶の合図ではなく、心底小十郎が困惑し結論を出しかねているときの仕草だった。
「・・・政宗様。いかがなさいますか」
「・・・・・・」
「本来ならばこのような要望、訊く謂れはありませぬ。・・・そもそもこの者は、今すぐにでも奥州から・・・いや、この日の本から追放すべき男です。それですら十分な恩情と言えましょう。それを、このうえ、豊臣方だった者と会わせよなどと・・・甘いにも程があります」
「・・・・・・」
「西軍の要だった者二人が会えば、不穏な相談を行っていると見られて当然かと。・・・ひいては伊達家へ疑いが飛び火いたしましょう」
「・・・っとに、小十郎はいつも正しいぜ」
政宗は額に手を当てると、言葉と一緒に深い息を吐き出し、笑った。正論すぎて反論する気も起きなかった。
しかし、では目の前でこうやって必死に頭を下げるかつての友人を見捨て、願いを切り捨てることができるのかと言えば、政宗も、そして小十郎もすぐにそうとは出来ないのだった。もはや死んだ者と思われているからには、姿を現すはまずい。それをこうして此処にいるのは、政宗ならばと信頼し一縷の望みを託す気になったからに違いない。
けれど、もっと問題は複雑だった。
(・・・もしも、・・・俺が、“毛利”をまるで知らないのなら・・・)
政宗は考えずにいられない。
当初の予定通り、人質としての毛利を預かり、部下たちに面倒をみさせ、政宗自身は全く関知していないならば。この状況で政宗が秤にかけるべきは「元親の気持ちと伊達家の安全」のみだった。その場合は、きっと政宗は危険も承知したうえですんなりと元親の願いを叶えてやっただろうと思ってしまう。徳川にバレないように・・・その程度の自信はあった。小十郎も部下たちも、きっと最終的に納得して受け入れてくれただろう。
しかし、政宗は“毛利”を、知ってしまっていた。
元親が毛利に“一緒に逃げよう”と言ったとき、毛利がどう応えるのか、政宗にはわからない。拒否するかもしれず、すんなりと受け入れるかもしれず―――もしも毛利が逃げることを承諾したなら。
(・・・俺は、・・・どうするんだ?)
政宗は眼帯を押さえた。空洞になった目の奥がじんじんと痛んだ。
まだ政宗は、彼のすべてを知らない。やっと“知りたい”と自覚したのは最近で、それでもまだ躊躇して、ほんの少しずつ話をし、近寄っているさなかだった。まだ時間はあるはずだった。人質の通例に従えば、少なくともあと2年は、毛利は政宗のもとにいるはずだった。その先はもっと後に考えるべきことだった。
けれど急に突き付けられたこの事件は、政宗を混乱させた。普通に考えて、毛利は元親と行くことを望むだろう。毛利家の人質は他にいくらでも用意できる。伊達は毛利がいなくなれば毒を吐き出すことができる。毛利がいなくなっても誰も困らないはずだった。問題はいついなくなるか、くらいのことである。伊達家の次の受け入れ先が何処であれ、そこで毛利が消えればその家の手落ちになり、むしろ伊達家にとっては近隣から敵国が消えるは好都合だった。そう考えれば元親の申し出は渡りに船なのかもしれなかった。
ただひとつ、政宗の心だけが、納得していない。毛利がどう応えるかも不安であり、なによりも・・・
(・・・どうしてそんなに、必死になるんだ、元親?あの人は、・・・毛利元就は、アンタの、なんだ?)
こんなに必死に元親の思う相手が、ただの敵同士―――の、はずが、なかった。
知るのは怖い。
けれど、知らないままですませるのはもっと居心地が悪かった。元親と毛利の間に、なにがあるのか。・・・



「・・・okey、元親。会わせてやるよ」
やがて政宗は応えた。
元親は弾かれたように顔を上げた。
「ただし。二人では会わせねぇぜ?アンタも言ったとおり、此処にいる全員同席させてもらう。アンタがへんな行動を取ったら、即座に斬る」
「・・・勿論だ。それで俺は構わねぇ」
元親は泣き笑いの表情をした。ごしごしと手の甲で瞼を何度も擦っている。そして、ありがてぇ、と呟いた。政宗は立ち上がると、小十郎たちに移動の準備を言いつけた。毛利の住まう寺へ。
馬上の人になってからも、政宗は一言も口をきかず、元親のほうを見なかった。寺へ近づくにつれ胸が苦しくなる。あの無感情な冷たい表情が瞼の裏に浮かんだ。元親に会ったとき、彼はどういう顔をするのだろう―――



寺に着いて、政宗は小十郎を振り返った。
「・・・俺が、先に行って、あの人に会ってくる。いいな?」
それを聞いて小十郎は少し驚いた顔をしたが、すぐ頷いた。
政宗は道すがら一度も見なかった元親の顔をようやく見た。元親は、怪訝な表情をしている。暗に、お前は毛利を知っているのか?と尋ねているに違いなかった。
政宗はそれには答えず、無言で寺の僧侶に案内され先になかへ入った。奥の、毛利の住まいする場所へ近づく。
毛利は、いつもどおり書見台に書物を置き、正座して無心に文字を追っていた。襖の開く音にちらりと視線を政宗のほうへ寄越したが、すぐまた書物のほうへ目を落とす。
「・・・毛利の。」
いつもどおり、政宗は毛利を呼んだ。何だ、と抑揚のない声がして、毛利は半ばあきらめたように書物を閉じると政宗のほうへ少し体を向けた。
政宗は、黙って毛利に近づくと、しゃがみこんで、視線の高さを合わせた。毛利が訝しげに眉を顰めた。
「・・・どうした」
「・・・ちょっとだけ、いいか」
言うとほぼ同時に、政宗は毛利をゆっくり抱きしめた。驚き身を固くするのを、じっと、落ち着けるようにひたすらに腕に力を籠めて抱き寄せる。
毛利からはそれ以上反応はない。ただ政宗の腕の中でじっとしている。互いの心臓のつくる振動は波紋のようにお互いを揺らして同調していく。
政宗は少し体を離すと、軽くその唇に口づけた。毛利の体にまた緊張が走るのがわかったが、そのまましばらく毛利の、自分より低い体温を確かめるように政宗は彼を自分の腕(かいな)から、唇から、離さなかった。離してしまったら―――
(・・・とられちまう、のか?元親に?)
閃いた言葉に、嫌だ、と思った。まだ政宗は、彼を―――“元就”を、まるで知らないに等しい。



やがて身を離して、政宗は俯き、落ちてきた前髪をかきあげた。毛利は何処か不安げな表情で政宗を見つめている。
「・・・一体どうしたのだ?なにかあったか、貴様?」
ややあって、遠慮がちに問うてきた。毛利にしては珍しいことだった。政宗は小さく笑って、なんでもねぇよと応えた。
それから、意を決して言った。
「アンタに、会いたいって奴がいる。連れてきた」
「―――我に?誰だ?」
毛利は驚いている。政宗は黙って立ち上がった。襖を開けると、廊下の端に、小十郎たちに囲まれて元親が立ち、じっとこちらを見つめていた。
「・・・いいぜ。入れよ」
政宗は掠れた声で告げた。家臣たちに囲まれたまま政宗の横をすり抜けて、元親は襖の中に入った。政宗は俯いて、その部屋に背を向けていた。やがて中からか細い声が響いた。それに応える柔らかい声も。



「・・・貴様・・・長會我部・・・!?」
「・・・毛利!!」



政宗は歯を食いしばった。そのまま背後からは声は聴こえない。意地でも振り向くものかと思っていたのに、政宗は、いつしか音の無い空間へ引き寄せられるように振り返っていた。
政宗の目の前で、長身の元親にすっぽりと包みこまれるように毛利は抱きしめられていた。先程自分がああやっていたのにと政宗は苦いものがこみ上げるのをごくりと飲み下す。拳を握りしめた。
毛利は先程と同じように動かず―――
けれど、その腕が、やがてゆっくりと上がり・・・政宗は目の前で、毛利の細い腕が元親の背を、まるで確かめるように抱き返すのを見た。元親の南蛮の衣服に引き攣れたような皺が寄る。毛利の掌が必死に己のほうへと元親を手繰り寄せているのだと政宗は気づいた。
敗者である二人はひとつの影になり、やがて元親の感極まってすすり泣く声が低く響いた。
静寂の中で、政宗は自分がこの世でたったひとりになったような錯覚に陥っていた。