誰かの願いが叶うころ





(12)


正面に座り真っ直ぐに毛利の顔を覗きこんで、元親は熱っぽく語っている。
政宗は少し離れた壁際に蹲るように片膝を抱えて座り、二人を眺めていた。
元親の話す内容は、先程政宗や小十郎たちが聞いていたものと変わらない。どうして元親が生きて此処にいるのか、何をしに来たのか。
あんたを一緒に連れていきたい、と元親が訴えたとき、毛利は形のいい眉を顰めて何処か怖れるような色をその瞳に載せた。元親はたゆまず、毛利の両手を自分の手で包み取ってなおも言う。今すぐは無理だが必ず戻る。そのときにあんたをさらっていく、と。
黙って聞いていた毛利の口元が僅かに動いた。
「・・・無茶を言うでないわ。貴様もはや死人の分際で・・・如何様にそんな大それたことをするつもりぞ」
返答はそれだった。声は周りを囲む政宗の腹心の者たちを気にしてか掠れて聞き取りづらい。本音なのかは、だから分からないと政宗は思った。
「我なぞ捨て置けばよい。・・・我よりも、所領にいまだ数多残してある貴様の配下たちを率いて・・・徳川と再戦すべきではないのか。一人逃げて、あげく敵国主であった者に同行をすすめるとは情けなし」
元親は首を横に振った。今から挙兵したって、誰が俺の背後を守ってくれる?泰平がすでに人心に馴染みつつある。今更火を起こし煽ったって、無駄に血を流すだけだ。
そうして元親は、先程と同じことを繰り返した。外つ国で力を溜めて天下奪取の機会を覗う、たとえ何年かかっても、と。
―――途端、毛利は元親の手を鋭く振りほどいた。それから切れ長の眸で場に居並ぶ者たちを、俯いて額にかかる前髪の隙間から見回す。低い、怒気の籠った声が響いた。
「これは誰の・・・なんの策ぞ。徳川か、長會我部、貴様か。それとも―――伊達、か?」
政宗はそれを聞くと、思わず唇を歪めて小さく笑った。頭のいい男だ。そして容易に信じず受け入れない。それでこそ“毛利元就”だと思う。・・・けれど少し哀しい。
「さては貴様、我が此処で諾と頷けば毛利を潰す算段か。それを土産に貴様は何かを得るのか」
「・・・おい、毛利ッ!なに言ってやがる、策なんかじゃねぇ」
毛利の穿った見方に、元親は膝を寄せ、毛利の薄い肩を掴んで噛みつかんばかりに顔を近づけると揺さぶった。
「よく聞け。・・・これは俺の本心だ、俺が決めて此処に来た。政宗にも無茶言って迷惑かけて、それでもあいつはあんたに会わせてくれた。だから俺はあんたから答を貰わなきゃ引き下がれねぇ。毛利、あんたの本音を教えてくれ、・・・いや、俺と一緒に行くって言ってくれ」
「愚劣なり」
毛利は吐き捨てる。
政宗にはよく分かる。この状況で元親の言葉を・・・自由にしてやるなどと夢のような言葉を、謀神とまで謳われた毛利がすぐに信じるはずもない。まだ政宗さえ、疑っているところがある。元親は徳川の間者となっていて、毛利を使い伊達の裏切りを讒言するのではないかとも考えられるのだ。
(・・・手痛い目に、あってるからな。捻くれてもしょうがねぇ)
“あの女”からの甘言を疑いもせず喜んで受け入れたとき、与えられた餌は死に繋がる毒だったことを政宗は思い出し苦笑した。上出来の話なんかそうそう転がっているわけがないのだと学んだ。疑ってかかれ。誰が刺客かわからない。それを知るためだったとすれば、“あの女”の存在も意義があったろうかと政宗は思う。
毛利の過去はほとんどなにも知らないが、もしや自分と同じような経験をしてきただろうか、とふと思った。
元親は、けれど二人とは違うのだろう。信じることで国をひとつ失くしたとしても、まだ彼の根底には真っ直ぐなものが在る。
毛利に懇願する元親の声を聞きながら、政宗はぼんやりと視線を床の間の掛け軸に移した。軸の中に描かれた菩薩の中性的な表情が何処か毛利に似ていた。
「俺は、あんたをほっとけねぇから、此処まで来たんだ。頼むから信じてくれ」
「・・・信じろ、だと・・・?では問うが、長會我部」
毛利の表情は厳しい。
「何故貴様は、我ごときのために危険を冒すのだ。これが貴様の親族相手ならば、たとえ策であれ誰も疑うまい、もっと多くを騙せるであろうに。・・・何故、我なのだ?」
「毛利、それは」
「どうせならばもっと上手い策を講ずればよいものを・・・我なぞなんの値打ちもない。采配を振るうことももはやできぬ。ただ我が命が中国の安寧のために在るのみよ。誰も、・・・いや、我自身、貴様が何故我を連れだそうとするか納得がゆかぬ。信じられるわけがなかろう」
「―――あんたが、そうやっていつでも、自分を犠牲にするからだろうがッ!!!なんの値打ちも無いとか言うんじゃねぇよ、あんたはいっつもそうだ、昔からずっと」
政宗は視線を二人に戻した。
“昔から”という言葉がふと引っ掛かった。
毛利が反論している。
「戯れ言を申すな!貴様こそ昔から変わらぬ。口から先に生まれたか。我が身は毛利を守るためにある、貴様なぞにどうこう言われる筋合いは無い。往ぬがよい」
「・・・毛利ッ」
元親の低い声が場を穿つ。毛利の体が、びくりと震えた。
「このままじゃ、あんたずっとそうやって笑うこともせずモノみたいに誰かに使い捨てられて死んでくだけだ。ほっとけるわけねぇだろうが!!」



政宗の目の前で、元親の腕が伸び、再度毛利をかき抱いた。僅かに抵抗する毛利を離すまいと必死に、もどかしい手つきで激しく手繰り寄せる。捕まえてしまうと、元親は毛利の耳元に何度も顔を擦り付けた。掠れて割れた声が毛利の耳に注ぎ込まれ、同時に政宗の耳元にも届いていた。
―――“元就”と、名を呼んでいた。
政宗は愕然と目を瞠った。
「元就、中国は・・・毛利の所領は、減封されたって落ち着いてる。毛利の家中の奴らは、ちゃんと支えられる、―――あんたが要らないとかいうんじゃねぇ。あんたはこれまでもう十分毛利家のために体張ってきた、このうえまだ人質として生きる必要なんかねぇんだ、・・・あんた自身のために生きてくれよ。なぁ」
毛利の返答はなく、身動ぎひとつしない。元親は毛利のまっすぐな髪に指を差し込み、いとおしむように何度も梳いてやりながら繰り返す。
「元就。俺と行こう。もっとずっと先を、俺と一緒に考えてくれ。俺らがなにをなすべきか。徳川が膿み腐り、再度天下が怯えたときにどうすればいいのか」
その言葉に毛利は僅かに動き、顔を上げた。
視線が元親をまず捉え、それから―――どうしてか、政宗のほうへ流れた。予測していなかった政宗は酷く焦り、思わず顔を背けた。視界の端で、毛利はまだ政宗を見ている。
・・・やがて毛利の唇が、僅かに動いた。
“わかった”と。
元親の声が再度、毛利の名を読んだ。喜びの声だった。
―――政宗は心の臓が凍りつくような感覚に、目を伏せた。



僅かな咳ばらいが響いた。政宗は我に返った。
小十郎がすくと立ち上がる。もしや二人を斬るつもりか(その理由となるほどに、今の会話は危険だった)、と政宗は緊張に神経を尖らせた。
けれど小十郎は事務的に、約束の時間が過ぎましたと元親に告げただけだった。最初に刻限を決めてあったのである。
そうか、と元親は頷いた。抱きしめていた毛利を名残惜しげに解放すると、困ったように笑った。
「ちょっと、熱がこもりすぎちまった。痛かったか」
「・・・」
「元就。答をくれて、ありがてぇと思ってる」
毛利は視線を伏せ、もはや返答しない。
元親は政宗の腹心たちに周りを固められて退室した。その背を毛利は見なかった。
元親はこの後は港の船に戻り、すぐ出航するという。寺を出る前に、密談用の隠しの間に政宗と小十郎と元親だけが入り、膝つきあわせた。先程の毛利の部屋もかなり厳重なつくりではあったが(人質を軟禁するための部屋であるからには)これから話すことは誰にも聞かれるわけにいかなかった。
元親がまず頭を下げた。今日は毛利と会わせてくれて感謝する、と。
政宗はじっと元親を見つめていたが、やがて深いため息を吐いた。先程からの様子を見るにつけ、もっと聞きたいこと言ってやりたいことが胸の内に折り重なっていたはずが、しかし元親を目の前にするとうまく言葉に出来なかった。
小十郎が、今後のことを手短に話し、決めていく。元親は正体が割れれば命が無いことは疑いなく、幾度もこうして日の本へ戻るわけにはいかない。伊達家としてもこれ以上迷惑を被りたくはない。あくまでも中立の立場であることを念押ししている。元親も、勿論これ以上迷惑かける気はねぇと頷いた。
しかし元親が本当に毛利を連れていきたいと思っていることは、小十郎も重々承知しているようだった。小十郎自身が毛利の境遇に多少は憐憫の情もあり、また一方で徳川への反発もあるのだろう。元親も毛利も納得し、伊達は損害を被らず毛利という“毒”を外に出せるのならば、これ以上の話は無い。
小十郎の提案はこうだった。
毛利が伊達家を離れるときがやがて来る。そのとき、移送中に密かに毛利を連れだすように、と。政宗はそれを聞いて肩を竦めた。
「移送中なら、どうせ俺らの手落ちにされるだろうぜ。結局は伊達が損するじゃねぇか」
「―――そこはなんとか致します」
こともなげに小十郎は言った。政宗は苦笑した。徳川との取次を担っている普代の大名に賄賂でも贈るつもりか、それとも替え玉を用意するか・・・伊達家のために、小十郎に任せておけばそこは問題ないだろうと政宗も思えた。
「問題は、その時期に貴殿がこの国に滞在できるかですな」
「おうよ。やるとも。・・・報せくれりゃ、俺は来るぜ」
「万が一貴殿がおられない場合は、毛利殿はそのまま予定通り、別処へ人質として送られます。よろしいか」
そうなってしまえば、奪還の機会はもう二度と無い、と、暗に小十郎は言っているのだと政宗も分かった。
「・・・いいぜ。そんなことはさせねぇよ」
元親はすこし微笑んだ。それから再度、二人に頭を下げた。恩に着る、と言った。
元親が今度こそ暇乞いをしようと立ち上がったとき、
「・・・ひとつだけ、訊いていいか」
政宗は我知らず言葉を発していた。元親が顔を上げる。気づいて、しまったと思ったが、今更引っ込めるわけにもいかず政宗は言葉を慎重に選んだ。
「アンタ、・・・敵だったんだろ。あの男と。違うのか」
元親は政宗を、ひとつの目で見つめた。それからゆっくり首を横に振った。
「敵だったのは、毛利の家を守るあいつであって、あいつ本人じゃないからよ。・・・今のあいつは、国主じゃねぇんだ。だから一個の者として生きたっていいはずだ」
(―――そうじゃなくて)
政宗は言葉を飲み込んだ。そんなことを聞きたいのではない、・・・敵ではないのなら、では、何なのか。どういう関係と言えるのか。家名でなく名で呼び合えるのは何故か―――そう聞きたいのに声が出ない。
元親は当然、政宗の心には気付かない。柔らかく微笑んだ。
「政宗、あいつのこと、大事に扱ってくれてるんだな」
「・・・なんでそんなことが分かる?」
「あいつの顔見りゃ、わかるさ。もっと殺伐と、全部諦めてるかと思ってたんだが。落ち着いてやがって、前より穏やかになってた。お前のおかげだ」
「・・・・・・」
「俺は嬉しかった。此処に戻ってきて、お前に話してよかった」
元親の笑顔に、政宗は、何も言えなかった。
その背が輿に消え、遠ざかるのを見送りながらじっとりと掌に汗がにじむのを感じた。毛利への薄暗い執着を気づかれているのではないかと―――、奇妙な敗北感と怖れが過ったが、言葉にするつもりも、元親に伝えるつもりもなかった。



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毛利の居室に戻る。部屋の中は燭ひとつ灯っているだけで闇が息苦しい。
「毛利の、・・・」
「なんだ」
暗がりの片隅から返事があった。政宗は目を凝らした。毛利は床の間に向かって正座していた。政宗は黙って近寄ると、隣に胡坐をかいて座った。
互いに何も言わない。沈黙が皮膚に刺さるようで痛かった。
「・・・何故あやつを、」
静寂を破って毛利の掠れた声がした。政宗は毛利を見た。切れ長の双眸は軸の中の世界を見つめている。
「何故、此処に来させた。伊達に叛心ありと徳川にいらぬ警戒をさせようぞ」
「・・・かもな」
「何故だ。やはり、誰かの、策か。誰の。何が目的ぞ」
「・・・元親、あんな喜んでやがったのに、それはあんまりじゃねぇのかよ。信じてやることにしたんだろうが」
政宗は小さくため息をついた。毛利の手が、膝の上できゅっと握りしめられるのに気づいて政宗は髪をくしゃりとかきまぜた。
「・・・元親が、好きか?」
いつの間にか、問うていた。様々な意味の籠った言葉だ。
毛利は、眉を顰め表情を歪めた。名前で呼び合ってたろ、とやんわりと政宗が促すと、毛利は目を伏せた。
「知らなかったぜ。昔馴染みかよ、元親と?それとももっと違う関係か?」
「・・・奴とは瀬戸海を挟んでの腐れ縁だ、・・・それ以外の何もない。貴様が何を思うているかは知らぬが」
「―――」
嘘だ、と思った。ただの知り合いの間柄に、どうしてあんな必死になる者がいるのか。
以前この痩せた体を政宗が抱いたとき、すでに毛利は身の内を誰かに暴かれていた。誰にそうされたのかは考えずにいたが、おそらく元親なのだろうと政宗は淡々と考えた。
毛利の声が問うてくる。
「・・・貴様は、本当によいのか」
「ん?何がだ」
「伊達家への疑念が増えるやもしれぬ。片倉はうまく立ち回れるだろうが、危険に違いはあるまい。貴様はそれでもよいのか。元親の・・・長會我部の言うがままにして」
「・・・いいんじゃねぇのか。元親はいい奴だし、それがあんな必死になってちゃ断れねぇよ」
「・・・貴様も救いようのないお人よしだな」
「別に。厄介事は少ないに越したことはないが、まぁ、丸く収まるように小十郎が考えるんじゃねぇのか。」
「・・・」
「それに、アンタだってこんなとこ閉じ込められてるより、あいつと広いとこ行くほうがいいだろ?」
「・・・・・・」
毛利は応えない。政宗はやれやれと天井を仰いだ。
「・・・ま、なんでもいいさ。俺には関係ねぇからな!」
さばけた口調でそう、わざと大きめの声で言うと、毛利はゆっくりと政宗を見た。政宗は袴の裾を直しながら立ち上がる。
「当面、奴がいつ来るかはわからねぇし。アンタが人質なのも変わらねぇだろ。徳川の奴らから沙汰が来るまでは動くこともできねぇし、・・・のんびり構えてりゃいいんじゃねぇのか。今までどおりに」
つとめて、どうということもない・・・という口調で政宗は告げた。毛利からはやはり、応えはない。肩を竦めると、政宗は踵を返した。
「―――伊達」
襖を開けようとしたとき、背中に声がかけられた。政宗は振り返らず、肩越しにちらりと毛利を見た。
毛利は先程と同じように掛け軸を睨んだまま、小さく口元を動かした。
「・・・我を、・・・」
それだけであった。続きを政宗は待ったが、途切れたままもう続きを言うつもりはないのだと途中であきらめた。
ぐるりと暗い部屋を見回して、片隅に積まれている書籍を見つけると、殊更に政宗は気軽な声を出した。
「本、もう読み終えちまったか。流石だな、今度新しいの持ってきてやるぜ」
ひとつ肩を震わせて、毛利が顔を上げる。視線が何かを訴えて政宗を刺したが、政宗は気づかないふりをした。どうせ何を聞いても自分が傷つくだけだと思ったのである。あれほどに親密な、周りに誰もいないかのような二人の会話を思い出すと、毛利の口から「元親」の名が出るのすら、想像するだけで政宗は辛かった。
「今度は多めにしといてやるよ。俺もアンタのことすぐ忘れちまうし・・・頻繁に此処に届けさせるわけにもいかねぇしな」
「・・・・・・」
「それでいいだろ?」
毛利は政宗を見つめたまま、やがて小さく頷いた。それを確認して、政宗は、See you,と挨拶して部屋を出ると背の後ろで襖を閉めた。
掌で、ひとつ目の瞼を押さえた。
(・・・畜生)
小十郎の待つ部屋まで荒々しく足音を響かせて歩きながら、政宗は必死に耐えた。不用意に呼吸をするだけで泣きそうだった。嘘つきで見栄っぱりの自分を呪った。本当は毎日でも彼の姿を見て彼の声を聞いて、話をしたいと思っているのだと気付いた。なにが「すぐ忘れてしまう」ものか。忘れるどころか、執着は堆積するばかりだというのに。
(でも、いつか、いなくなる。元親の野郎のものだ、あれは)
(あんなに真っ直ぐに、大切に想ってくれる奴がちゃあんといて、・・・なにも無いなんて、嘘だろ)
(俺も、あの人も、嘘つきだ。・・・本音なんか、言う必要もない)
毛利は、元親が生きていて、彼に会えて、そしてあんなふうに言ってくれたことを、喜んでいるに違いなかった。政宗は、あの部屋で最初に見た光景を・・・毛利の腕が慎ましく元親の背を抱いていたのを思い出し、そう思った。
(あの人の眼に、俺はこれまで、映っていなかったも同然だったってか。人質を監視する主君、としか―――)
政宗は、奥歯を噛みしめた。
それでも、きっと、また此処に来てしまうのだろう。
この先の幾月かを、元親が迎えに来るまでの間を。これ以上自分が彼への執着を増やさないように。どうか彼への想いが増えないように。それだけを政宗は願った。