誰かの願いが叶うころ





(13)


畳の上に仰向けに寝転がり、政宗は書物を読んでいた。
とは言っても片方だけの目が文字を追っているだけで、内容はほとんど頭に入ってこない。
やがて溜息をひとつ、書物はそのまま政宗の顔にばさりと被さる。両腕が拡げられ、大の字に体勢を変える。
「―――転寝は感心致しませぬな」
冷静な声とともに、ひょいと書物を持ち上げられた。政宗は眼を細めて、見下ろしてくる人物―――小十郎を少しばかり睨んだ。
「主君を見下ろすとは無礼である。控えよ」
威厳を持たせた口ぶりで言ってやったが、小十郎に通用するはずもない。それは毛利殿の口真似ですか、と何げない口調で問われて政宗は鼻白んだ。
「・・・茶化してんじゃねぇよ。ったく」
口の中で文句を言いながら起き上がるとその場に胡坐をかいた。小十郎は書物を政宗の膝の上に返すと、傍らで正座して少し声を顰めた。
話の内容は、毛利を元親へ引き渡すときの手筈と根回しについて、である。
徳川から毛利を伊達に連れてきた使者は、徳川からの命を伊達へ伝える役割をもうずっと担っていた。おそらく次に毛利が移管されるときもその者から通達が来るであろう。移動にあたって、かの者がその任を受けてもかまわないと思ってくれるよう時間をかけて仕向けていく算段である、と小十郎は言った。
政宗は膝の上の書物の表紙をめくったり閉じたりしていたが、ちらりと小十郎を見た。
「・・・金を積むのか?足元見てふっかけてきやがるぜ。いいのかよ」
「それはぬかりなく。・・・それよりも、伊達はかの者に服従していると思わせる必要があります。政宗様お分かりですな?」
つまり、今後はこれまでのような横柄な態度を使者へ取らぬように、ということらしかった。政宗は肩を竦めた。小物相手に遜(へりくだ)るのは癪には触るが、その程度で政宗の沽券にかかわるわけでもない。毛利を元親に渡すまでの間だけのことだ・・・
「・・・okey」
短く返事すると、小十郎は頷いた。あとは移送中に長會我部の一党が毛利を奪還する。伊達は知らぬ存ぜぬを決め込めばよい。咎めは来ないであろう。
完璧だな、と政宗は呟いた。小十郎は膝を少し進ませた。
「本当に宜しいのですか」
「あぁ?・・・文句のつけようがねぇよ。いつでもお前の仕事は完璧だ」
「違います。毛利殿を長會我部殿にお渡ししてよろしいのか、ということです」
「―――」
政宗は、咄嗟に膝の上の書物へ手をやった。先日毛利に貸して、もういらないと言ったはずが、結局律儀に彼はそれを政宗に返してきたのだった。短い手紙が挟まっていたが、以前と変わらぬ書物の感想と通り一遍の礼の言葉だけだった。元親と会えたこと、いつか自由の身になれること、伊達家のはからいへの感謝は全く触れていなかった。・・・もっとも、記録に残すのは危険だと毛利が考えてそうしたとすれば、当然でもある。
それでも、全く変わらぬ毛利の筆跡に、まるであの元親との邂逅が夢であるかのように一瞬政宗は錯覚してしまいそうになった。
あれから一週間、毛利のいる寺には行っていない。
「・・・渡すもなにも、・・・伊達での人質の役割が終わればどのみち一緒じゃねぇか、どうせいつかあの男はどっかに行っちまう」
政宗はさばさばとそう応えた。
小十郎はしばらく黙っていたが、やがて、確かにそうですな、と言って立ちあがった。
挨拶をして部屋を出て行く小十郎を、政宗は無言で送り出した。
「・・・しょうがねぇだろうが」
小十郎がいなくなって、政宗は呟いた。
「他の奴のモンだと分かってて手を出すのは、coolじゃねぇよ、なぁ・・・」
けれど、もし元親がああやって毛利の身柄を欲しいと言ってこなかったとしても・・・いつかは人質として何処かへ押しつけられ、伊達家からは離れるのが毛利の運命だった。いつの間にか芽吹き、当たり前になった毛利への執着は、そのときどうしただろうか、どうするつもりだったのか。政宗は今更気づいて、己に呆れ果てるしかない。
いつか別れると分かっていてなお執着するのか。手に入れたいと望むのか。徳川に逆らって、伊達家を、危険にさらしてまで?
―――できるはずもない。
だから、ただ、着かず離れず、触れては突き放した。どんなに言葉で「アンタに執着してる」と言ったって、それが浅はかな戯れだと毛利は見抜いていたに違いなかった。
危険を冒して政宗の元へ来た元親を眩しく、心底うらやましく思えた。
瞼の裏に、またあの日の毛利の腕が蘇る。元親の背を必死に抱いて手繰り寄せていた・・・
(・・・だからあの人は、ああやって、元親を引き寄せるんだ)
翻って政宗は、いまだ一度も彼の名を読んだことすら無い。元親のように諱ですらなく、本姓ですら。政宗が彼を呼ぶときは、「毛利の主(あるじ)」という意味を込めて「毛利の」と呼んでいる。「毛利の主」とはすなわち、「立場」のことであって、彼個人を呼んでいるのではないのだから。



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政宗が、なんとなしに毛利を訪れる機会を逸したままさらに幾日か過ぎた。
些細な報告が届いたのはそのさなか、よく晴れた日だった。
愛玩している例の鷹が再び飛び去ってしまった、という。
政宗からこっぴどく怒鳴られると思ったのか、知らせてきた鷹匠の弟子(おそらく彼が粗忽で逃がしてしまったのだろう)は平身低頭、可哀相なほどに身を竦ませていた。
政宗は黙って立ち上がった。どちらへ、と側近に問われたが、そのまま黙って厩舎へ行った。
馬に跨ると、共の者をおつけ下さいと懇願する側近に、笑って応えた。
「不甲斐ない飼い主に呆れたんだろうぜ。探してくる」
「しかし、何処にいるものやら・・・」
「何処かはわかってる。―――勘だけどよ」
そして政宗は、例の寺に行ってくると告げて馬に鞭をあてた。



寺の総門に近づくと、門前を掃き清めていた僧が頭を下げた。ご主君には少しご無沙汰で御座いました、と言うのを適当にあしらって、鷹が飛んで来なかったか訊いてみる。僧は怪訝な顔をした。
「ああ、・・・別にいい。自分で探すからよ」
政宗は馬を所定の場所につなぐと、いつもどおりまっすぐ毛利の居室へ向かった。着くまでに数人の見張り役の僧兵がいるのも同じである。通り過ぎるたびに長刀を片手に持ったままどの僧兵も軽く頭を下げて政宗に挨拶をする。毛利にとっての見えない檻を、政宗は久々に痛感した。
襖の外から声をかけた。
「毛利の。・・・いるか」
すらりと開け放つと、政宗の求めていたものは、果たして“ふたつとも”小さな庭に面した縁側に在った。振り返った毛利の腕に、政宗の鷹は止まっていた。
「―――当たりだぜ!」
思わず嬉しくなってそう呟く。毛利が小首を傾げた。
それを見ると、これまでのわだかまりがふわりと溶けた。政宗はなんのてらいもなく毛利の傍へ寄っていた。
「・・・やっぱり此処にいやがったか。そんなに前のあるじが好きかよ?」
言って、鷹の羽を丁寧に撫でてやる。毛利は合点がいったらしい。
「まさかこやつ、鷹匠の元から逃げ出したのか?今日は鷹狩ではなかったのか」
「新入りが世話してたら、隙見て逃げ出しやがったんだとよ。よっぽどアンタのとこに来たかったんだろ」
毛利は何も言わなかった。けれど政宗がちらりとその表情を覗うと、その眼差しは常になく穏やかだった。
ついと立ち上がると、毛利は慣れた手つきでいったん鷹を空に放った。鷹はすぐに空の青に融けて見えなくなった。
「・・・おいおい。何処か行っちまった、せっかく見つけたってのに」
「じき戻ってこよう。―――前の主と今の主、二人此処にいるからにはな。彼奴はそれほど阿呆ではない。」
そして毛利は空を見上げたまま、ふと微笑んだ。これまでは政宗の見たことのない種類の笑顔だった。政宗は内心ひどく狼狽した。・・・むしろ、焦った。咄嗟に口元に手を当て、俯いた。
(・・・破壊力が、あるな)
隙のない端正な美貌が少し笑むだけで、こうもあろうかと。
(・・・こりゃあ、・・・元親が惚れるわけだぜ)
―――そして自分も。



二人で暫く黙って空を見上げて、鷹が戻るのを待った。
空に飛び立つ鳥を、羨ましいと思っているだろうか。ふと気付いて政宗は毛利を見た。視線に気づいて、毛利も政宗を見た。
「羨ましいか?」
「?なんのことだ」
「鷹が。思うところに飛んでいけるだろ」
毛利は考え込むように首を傾げた。誤魔化しているのではなく、本気で考えているらしかった。
また空を見上げると、毛利はぽつりと呟いた。
「羨ましい、と、すれば・・・彼奴には戻る場所がある。貴様の元へ。・・・我にはもはや無い。その点であろうか」
「―――」
政宗は息をのんだ。自由になっても、行ける場所が無いと毛利は知っているのだった。
(でも、・・・元親が、いる)
「そうでもないだろ。・・・ほら、アンタの、移送だけどよ」
毛利は政宗へ視線を再度移した。
「小十郎が先手うって色々動いてやがる。・・・多分問題ないと思うぜ」
「・・・」
「ま、いつになるかわからねぇが。・・・時が来るまでは此処でのんびり過ごしてりゃいい。元親もそうそう簡単には来られねぇみたいだからな。気長に待つしかねぇが、でも、行くとこはあるじゃねぇか」
元親、という名に毛利の体は少し震えた。政宗は一抹の寂しさを感じて頭を緩く振った。
「・・・貴様は、いいのか」
毛利の声が問うた。政宗は訊き返すように毛利を見つめた。なにが“いい”のか?
「我が逃げれば、貴様も伊達家も・・・罪科に問われようぞ、・・・それに」
「なんだそのことか。だから小十郎がうまくやってる、って。今言ったろ」
「―――それは、そうであろうな。そうではなく、・・・」
いつになく歯切れ悪く、毛利の言葉はわかりづらい。政宗はまじまじと毛利を見つめると、アンタ何が言いたいんだ?とそのまま告げた。毛利は口を噤んでしまった。
羽音がした。二人で視線をそちらへ。
毛利の言葉どおり、鷹は戻ってきた。迷いなく毛利の腕にとまるのを見て政宗は苦笑した。毛利も少し困ったように鷹を見つめているが、表情は嬉しそうでもある。
政宗はすぐに決心した。
「よし。・・・此処の敷地に、鷹小屋、作ってやるよ。こいつもアンタの傍のほうがいいだろうし、アンタも退屈しないだろ」
「―――それは」
毛利は驚いたように政宗を見た。
「しかし。貴様の鷹だ、今は」
「ああ、そうだぜ。だから、鷹狩に行くときは当然連れにくるさ。だがその間はアンタがこいつと遊んでやってくれよ。俺は忙しいからいつも鷹匠たちに任せきりだし」
毛利は政宗と鷹を交互に見ていたが、やがてひとつこくりと頷いた。感謝する、と短い謝辞が転び出て、そして毛利の口元に先程と同じ微笑が浮かぶ。
政宗は驚いた。伊達家を危険に曝しながら彼を自由にしてやることにも感謝の言葉は述べてもらっていないというのに。
なんとなく面映ゆく息苦しく、政宗は顔を毛利から背けると、そそくさと立ち上がった。待て、と呼びとめられた。これも初めてのことだ。
「なんだ?・・・鷹匠をじきに寄越す。当面、小屋が出来るまではまだそいつらに今の小屋で面倒見させるが、俺はちゃんと約束は守るぜ、安心してな」
「いや、・・・貴様には与えてもらうばかりゆえ」
―――まさに、思いがけない言葉だった。
政宗はぽかんと、毛利を見た。毛利は訥々と俯いて、何か我で役に立つことがあれば、と言う。
政宗はやがて、可笑しくなってくつくつ笑った。毛利はむっとした表情で政宗を睨んだ。
「なにが可笑しい。我は真剣に」
「いや、・・・アンタでも、礼をしたいとか言うもんなんだな、と思って・・・」
毛利は少し目元を染めた。一体どうしたってんだ、と政宗は内心驚いている。以前と比べて何倍も表情が豊かになっていた。
(・・・元親に、会ったからか?)
そう考えると少し胸のうちが暗く重く翳る。
それでも、これまでになく語り、微笑を見せ、拙いながら感謝を伝えようとする毛利は新鮮な驚きだった。政宗はやはり笑いながら、そうだな、と腕組みをして考えた。
ふと、思いついた。言っていいものだろうか。
「なんでも、いいのか」
「かまわぬ」
「アンタをまた抱きたいって言っても?」
「―――それは」
毛利はきゅっと唇を噛んで俯いてしまった。政宗は苦笑して、jokeだぜ、と柔らかく付け加えた。抱きたくなったら、また勝手に抱くからよ、と、さらりと怖いことを言ってのけてから、真面目な表情になった。
「名前で、呼んでもいいか」
「―――何?」
意味が分からなかったらしい。毛利はぽかんとしている。少し幼い表情に政宗は心が温かくなった。
「名前で。アンタを呼んでいいか。・・・元親がそうしてるみたいに」
「・・・・・・別に・・・かまわぬが」
ぎこちない応えだったが、拒絶の意志は感じられなかった。政宗は僅かに深呼吸をした。
「じゃあ。・・・も・・・」
いざとなるとうまく言えない。なんだこの気恥ずかしさは、と政宗は情けなくなったが、やがてぶっきらぼうに、覚悟を吐き出すように呼んだ。
「―――元就」
随分高飛車な声になった。政宗はどぎまぎした。ちらと毛利を見ると、呆れたように政宗を見ている視線とぶつかった。
「・・・なんだよ」
「いや、べつに・・・」
それから毛利は口元に指先をあて、ふふ、と小さく笑った。政宗は赤面した。
「―――ッ、ちっ、慣れないことはするなってか?もういい」
「まあ、待て」
「帰る」
「待てと言うに。―――政宗」



政宗は文字どおり固まった。
反則だろ、と思った。呼ぶのは求めたが、呼ばれることは赦していないはずだった。むしろ想像もしていなかった。
おそるおそる毛利を見る。彼の表情はいつもと変わらず落ち付いている。政宗は盛大な溜息を吐くと、毛利の細い顎を掴んで掠めるように唇を合わせた。
驚いている毛利に、
「―――お返しだ。不意打ちの」
にやりと笑って言うと、毛利は静かに笑ったようだった。
(いつか別れるとしても、・・・)
政宗は、つい先日心に願ったことが、いとも簡単に崩れるのを知った。彼にこれ以上執着しないつもりだったのに。
(この人に、惹かれないのは、俺には無理だ。・・・いつか別れるなら、それまでは)
その日までは、見ていたいのだと。自分の心を偽れないことを知った。