誰かの願いが叶うころ





(16)


 政宗が促されてその部屋に入ったとき、毛利は世話役の僧侶から匙で口元に粥を運んでもらっている最中だった。政宗の姿に気づくと僧侶は粥の入った椀と匙を傍らの盆の上に置き、両袖を合わせ掲げ丁寧に拝礼した。ひとつ頷き、御苦労、と言うと政宗は毛利に近づく。僧侶は小十郎の目配せに気づいて静かににじり退がると、そのまま部屋を辞した。
 政宗は、毛利の傍らに座った。政宗が入ってきたときから毛利の視線はきちんと政宗のほうを向いていた。鳶色の双眸に己がしっかりと映り込んでいることを見てとり、政宗は心底安堵した。笑おうとしたが、口元は僅かに歪み、不思議と泣きそうになる。慌てて政宗はわざとしかめ面をつくった。
「・・・毛利の。先日は、・・・救ってくれて、礼を言う」
 伊達の主君として政宗はそう告げた。
 毛利は別段感慨を受けたふうもなく、ただじっと政宗を見つめていたが、やがて小さく頷いた。政宗は少し躊躇していたが、そろそろと腕を伸ばし、掛け布の上に無造作に置かれていた毛利の片手をそっと握った。柔らかい温もりと穏やかな脈拍が其処にあることを確かめて、政宗はようやく僅かに笑った。やはり先程と同じように、笑むよりも嗚咽がこぼれそうになる。必死に堪えて、無理矢理に不敵に、いつものように、にやりと笑ってみせた。
「まだ辛いだろ?無理はすんなよ、・・・動けるようになるまでは十分に養生するといいぜ」
 毛利はやはり無言のまま政宗を見ている。政宗は同じように見つめ返していたが、ついに堪えかねて眦に溢れたものを慌ててごしごしと袖で擦った。感謝の言葉を口の中で何度か呟くと、握った毛利の掌にきゅっと力が入った。・・・握り返されたのだとわかって、政宗はどうしたらいいかわからなくなった。奥歯を泣くもんかと食いしばると、腹に力を入れて少し大きな声を出した。
「アンタは俺の命の恩人だ。・・・外向けには人質の身分に違いねぇが、その傷が治ったら、もっと好きなように・・・自由に動けるようにしてやるから」
 毛利はそれを聞くと、少し眉を顰めた。背後に立つ小十郎も、初めて聞く話に(政宗の独断に違いなかった)僅かに表情を固くしたが、政宗は勿論気付かない。
「そうとも、・・・動けるようになったら、こんな寺は出て、俺の邸に来るといい」
「―――ッ、政宗様、それは」
 小十郎が口を挟みかけたが、予測していたように政宗は振り返ると、もう決めたことだ、と言いきった。
「俺の恩人だ。この人がいなかったら俺は死んでたんだぜ?」
「し・・・しかし、」
「俺が決めたことに反対するのか、小十郎?」
 小十郎は黙り込んだ。それから、小さく吐息をついて、承知致しましたと低い声で短く応えた。政宗は再び毛利に向き直ると、顔を近づけ覗きこむ。
「欲しいものとか、あれば。なんでも言えよ。これからはもっと堂々と振る舞っていいんだからな。遠慮すんな」
「・・・・・・」
「毎日、見舞いに来るぜ。・・・ああ、ちゃんと護衛もつけるし、警護には気をつける。同じ轍は踏まねぇよ。だから安心しな」
 ちらりと毛利の視線が、政宗の背後の小十郎へ移った。小十郎は主君と毛利をかわるがわる見つめていた。毛利の視線とぶつかったが、気付かないふりをして小十郎は視線を逸らした。
 ・・・ふと、みず、と毛利は呟いた。政宗は、勢い込んだ。
「水が欲しいのか?」
 小さく毛利が頷いた。政宗は傍らにあった盆の上の杯を取った。新しい匙で毛利の口元に運ぶ。薄紅色の唇が水を吸い、飲みこむのを嬉しそうに政宗は見つめて、かいがいしく何度も匙を毛利の口元へ運んだ。
 ・・・どれほど経ったのか。政宗様、そろそろ御戻りください、と小十郎が声を掛けた。いつの間にか眠ってしまった毛利の傍で、政宗はまだその手を握り座っていた。振り返ると、いやだ、と子供が駄々をこねるように政宗は言った。
「政宗様。無理を申されますな。毛利殿もお疲れになっておられます」
「今日は此処に泊る」
「政宗様!いいかげんに―――」
 小十郎が声を上げると同時に、毛利が僅かに眉を動かし、小さく呻いて体を動かした。政宗は慌てて毛利の口元に耳を寄せた。
 ・・・どうやら眠りの淵で少し痛みを感じただけらしい。ほっと胸をなでおろすと、政宗は小十郎を睨んだ。
「でかい声出すなよ、小十郎」
「・・・申し訳ありませぬ。しかし、それとこれは別です、政宗様。斯様に我らが此処に侍っては、かえって毛利殿は落ち着きませぬ」
 それを聞くと、政宗は困ったような表情をした。そして毛利を見つめた。
「・・・okey、・・・それも尤もだ」
 ようやく諦めて、政宗はそっと毛利の髪を撫で、額に軽く口づけると立ち上がった。明日また来るぜ、と呟いて、政宗は満足そうに笑った。小十郎は複雑な表情で主君を見ていた。



 言葉通り、政宗は毎日毛利を見舞った。
 先日のことがあるため護衛をつけ、訪れる時間を変え、入口を変えて身の安全には万全の注意を払ったので小十郎も何も言わない。
 毛利の具合は日に日に良くなった。山場はすっかり越えたようだ、と医師も驚嘆して言った。傷口の化膿や炎症もないという。細身のこの青年の何処にそんな力があるのか。誰もが驚いていたが、気の遠くなるような重圧を背負って此処まで生きてきた毛利の強さを少し政宗は分かったような気がした。そして素直に毛利の恢復を喜んだ。
 しかし、少し座って話ができるようになっても、政宗は頑なに自分の前では毛利に横になっているよう強いた。最初はおとなしく従っていた毛利も、やがて呆れたらしい。もう大丈夫だと言うに、何故そのように執拗に床に伏せさせるのだ、と語気を荒げて政宗にあるとき問うた。
 政宗はそれを聞くと瞬きをした。そのとき政宗は、自分で作ったという惣菜を取り出し、箸で毛利の口に運ぼうとしていたところだった。
「―――まぁ、とりあえず、これ食ってみてくれよ」
「・・・それくらい自分で食せる」
「いいから。食べさせてやるって」
 笑ってそう言うと、政宗は毛利の口に箸で割いた黄金色のものを入れた。毛利は文句を言おうとして、―――途中でその小言は無言の咀嚼に変わった。
「美味いだろ?甘くて」
「・・・・・・」
 毛利は黙ったまま、こくりと頷いた。もっと要るか?と政宗が暢気に尋ねると、毛利は少し躊躇した後、こくりと頷いて、差し出される箸を素直に口を開けてぱくりと咥える。しばらくその行為が繰り返された。やがて漆塗りの重箱の中身は綺麗になくなった。
 毛利の視線を感じて、重箱を片付けていた政宗はにやりと笑った。
「アンタ、酒飲まないんだろ。甘いもんのほうが口にあうんじゃねぇかって思ったから作ってきたが正解だったな」
「・・・」
 毛利は、僅かに目元を染めるとぷいと視線を逸らせた。政宗はなにげない調子で鼻唄混じりに言った。
「アンタが当面、俺の前では大人しく寝て過ごせるってんなら、また作ってきてやるよ」
「・・・ッ、それとこれとは」
 反論しようとする毛利へ、政宗は向き直った。両掌でようやく最近肉づきの戻ってきた頬を挟みこんで、こつんと互いの額を合わせた。互いの顔がうんと近い。毛利が驚いたように黙りこむ。
 政宗は、至近距離の元就の双眸を自分の片方だけの眸で覗きこんで、やがて呟いた。
「なぁ。・・・もうしばらくでいいからよ。ちゃんとひとりで歩けるようになるまでは、俺に世話焼かせてくれよ。おとなしく横になって、食べて、寝て。俺はそれで安心できるんだ」
「・・・・・・」
 懇願に近い声音に、元就は何も言い返さなかった。
 政宗は呟いた。
「情けない話かもしれねぇが、・・・またアンタが血塗れになったらと思うと、怖い。今はこうやって此処にいて俺に偉そうに説教なんぞしてくるが、・・・アンタと離れて、ひとりになると怖くなる。明日俺が此処に来て、アンタの呼吸が止まってたらどうしようって」
 だから、と言って、政宗は瞼を閉じた。
「すっかりよくなったら、俺の城に・・・邸に移ろう。そうしたら俺は、安心できる」
「・・・伊達、貴様―――」
 毛利の呼びかけに、政宗はふと目を見開いて苦笑した。
「ちゃんと名前で呼んでくれよ、“元就”」
「―――」
 応えを元就の唇は紡ぐことはできなかった。政宗がそのまま、毛利の口を吸ったから。
 何度も貪るように、角度をかえて毛利の唇を吸いながら、政宗はその合間に言葉を差し挟んだ。いつか何処かへ連れていかれるとか、元親がアンタを攫いに来るとか、“今は”関係ない。考えない。アンタが元気で俺の傍にいてくれるのだけを俺は望む、―――と。
 毛利は、政宗の口づけには控えめに反応を返したが、けれど何も言わなかった。



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 その日は来客があった。徳川に連なる譜代大名の一人である。
 当主が席をはずすわけにはいかず、政宗は退屈な接待の時間を欠伸を噛み殺してどうにかやりすごした。宴の後見送りも終え、そこからさらにその日の政務をこなした。遠くから響く刻を告げる太鼓の音がすっかり暗くなった部屋にも届いて、政宗は舌打ちをした。――今日はまだ毛利を見舞っていない。
 いや、本来今日は行かないつもりだった。毛利にも、小十郎含む側近たちにもそう昨日告げてあった。けれどふとあの眼差しを思い出してしまうと、政宗は無性に毛利に会いたくなった。
 少しばかり苛立った声で小十郎を呼ぶ。政務の打ち切りと毛利の見舞いに行くことを宣言するつもりだったのだが、小十郎は来ず、代わりに現れたのは小姓の一人だった。片倉様は外出されておられます、という。政宗は眉宇を顰めた。
「外出?こんな時刻に何処に」
 小姓は、さらりと寺の名を告げた。毛利のいる寺である。
 政宗はやおら立ち上がった。どちらへ、と問われて、小十郎を追っかけるんだよ、と不機嫌に告げると、その者に伴をしろと半ば怒鳴りつけて厩舎へ向かった。



 寺についてみれば果たして話どおり小十郎の馬は門を入ったすぐの巨木に縄で結えられていた。政宗はひとつ舌打ちすると、普段通りに毛利の居室へまっすぐ向かった。
 部屋に近づいたところで、ふと足が止まった。小十郎は一体自分に黙って、何のために此処に来たのだろうと思い至ったのである。
 あまり気のりはしなかったが、政宗は静かに、足音を消してその部屋に近づいた。やがて小十郎の声が耳に届いた。―――毛利の声も。
 政宗は耳を澄ました。



「・・・貴様、察するに、我に貴様の主君とこれ以上会うなと言いたいのであろう?」



 政宗は息をのんだ。
 じっとさらに聞き耳を欹てていると、小十郎の低い声がした。
「・・・確かに、随分以前よりそのように、この小十郎は政宗様に申し上げております。・・・毛利殿は何故そう御気づきになられたか?」
「我が・・・もしも伊達家の家老ならば、そう奏上するだろうと思ったまでのこと」
 小十郎の質問に、冷めた口調で、毛利の声が続けて、言った。
「―――頃合いであろう。我も、彼奴とこれ以上会うを望まぬ」



 政宗の体は、その場で凍りついたように動けなくなった。