誰かの願いが叶うころ





(18)


 政宗は落ち付きなく出掛けることが多かった。
 思い立ったら即行動、という性格で領国の内外に知られている。他趣味で好奇心旺盛で失敗を恐れない。語れば圧倒的な魅力で他者を惹き込む。一方で、気が乗らなければ仕事も放り出してふらりと出掛ける。思うとおりにならないときは子供じみた我儘も言う。苛烈に我意を押しとおすことも多い。―――そういうところが、家臣や領民たちはじめ政宗を知る者たちには少々呆れられつつも、愛されるところでもあった。
 それが、最近は政務を時間通りにきちんとこなして、空いた時間は邸に戻ることが増えた。勿論視察を兼ねて屋外に出ることも多いが、どことなく主君としての安定感が出て、家臣たちは口には出さないが喜んでいる。
 “御客様”(と、奥女中たちは呼んでいた)が邸に来てから少し落ち着いたようだ、と誰とはなしに言うようになっていた。



 政宗は、広大な邸の、いくつもある自身の居室のいくつかを毛利にあてがっていた。
 徳川からの預かり物を丁重に扱うのは道理に適っている。が、西軍の(毛利の)残党が政宗を狙撃したこともあり、最初は側近たちはその処遇に難色を示した。政宗にまた身の危険がふりかからないとはいえない。
 しかし家老の小十郎が了承しているため、その状況はじきに“当たり前”になった。毛利は暗黙の了解で“客人”として受け入れられていた。
 馴染めないのは、連れてこられた毛利本人かもしれない。
 毛利の体調は日を追うごとによくなった。今はほとんど不自由なく自分で動けるまでに戻っている。
 政宗は以前より当然頻繁に毛利の傍にいて、そのことを喜んだ。元気になってくると、毛利の居室に連なる庭先に、寺にあった鷹小屋を移築させて、毛利を喜ばせようとした。部屋のひとつをつぶして書庫もつくった。当然、毛利のためである。
 毛利は、政宗の気遣いにいつも丁寧に礼を述べた。・・・が、己がこの場―――政宗の住まう邸にいることについてはどことなく居心地悪そうだった。言ってもきかない政宗の性格を解っているのか、何度もは言わないが、折に触れ「我はこの場にいるべき身ではない」と呟いた。
 政宗はその都度、毛利を抱きしめる。背後から、あるいは正面から。以前のように遠慮はしない。
 ほうっておくと勝手に出ていってしまいそうな気がして、護衛と称して毛利には監視を置いてあったから、別段状況は前と変わらないと政宗は思う。だから、素直にそれを告げた。
「ちゃあんと、アンタが逃げないように監視役も置いてあるだろうが」
 毛利はそのとき、なんともいえない、複雑な表情をした。以前よりこの男も、人間らしい貌をするようになっている、と政宗は思う。
「誰もアンタが此処にいて俺と一緒に暮らしてることを文句言ってねぇよ」
 直接的な言葉に、毛利の眉間にしわがよる。
「・・・誰が貴様と“一緒に暮らしている”、と・・・?」
「Ah?だって事実そうだろ。何を今更照れてんだよ?」
 毛利は僅かに目元を染めた。唇をきゅっと引き結ぶと、手を口元にあて、考え込んでいる。・・・政宗には、最近わかるようになった。こういうとき毛利は不機嫌なわけではなく、自分の感情が理解できないだけなのだった。“照れて”いるに違いないとふんで、政宗は笑って、いったん離していた毛利の体を引き寄せると正面からふかく抱きしめた。毛利が少し体を強張らせたが、政宗はその肩に顔を埋めた。眼帯がこつりと毛利の肉の薄い肩の骨にあたった。
「一緒に暮らしてるんだぜ。・・・俺は、嬉しい」
 ―――毛利は、小さな声で「我儘者め。我をふりまわしおって」と呟いた。政宗は笑った。先日、毛利が小十郎に語った言葉を思い出した。“政宗にふりまわされている自分は嫌いではない”と言っていた・・・
 だからきっと、毛利も嬉しいに違いないと、政宗は勝手にそう解釈してまた強く毛利を抱きしめた。



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 海外貿易の相手と取引の場は、月に何度か設けられる。政宗はひとつひとつの輸出入について念入りに目を通す主義だったので、どの商い人も政宗へは必ず目通りせねばならない。
 その日、政宗は自分の目の前に座った明の貿易商を見て少し眉を顰めた。
 元親を、以前手引きしてきた者だったのである。ちらと視線を小十郎に流すと、小十郎も僅かに頷く。
 彼の目的は当然、本来は純粋に商売にある。二、三の商品についての質問のあと、見本(武器だった、銃火器の)に見入る政宗に、商人は恭しく政宗に書状の束を差し出した。怪訝な顔をする政宗に、自分の上役からの挨拶で御座います、と告げる。
 小十郎が受け取って、先に検分をした。少しばかり分厚い紙の束には物理的に危険なものは何も入っていなかったが、小十郎は僅かに眉を顰めた。咳払いをひとつすると、政宗に不自然に目配せしながらそれを手渡す。政宗は不審に思いながら目を通した。
 署名は“秦弥三郎”とあって、政宗は瞬間、背に冷たい汗の伝うのを感じた。
 元親からだった。



 内容は、たいしたものではなかった。
 誰かに読まれても大丈夫なように、巧妙にぼかされていた。以前の礼(先日会って、毛利の奪還を手伝ってほしいと頼まれたこと)を述べるのが遅くなったこと、世話になっている縁戚(毛利のことであろう)の様子をうかがう文面がほとんどだった。最後のほうに、最近は商いもうまくいき足の速い船を調達できたので、じきに迎えにいけると思う、日が善くなれば(つまり人質移送の日)報せてほしいと書かれてあった。
 言うまでもなく、徳川に知れれば大逆である。政宗はなにくわぬ顔でその書状を折り畳んだ。それから、もうひとつの書状に目をやった。今読んだものより幾分薄くて、どことなくくたびれている。これは?と政宗は訊いた。商人は頭を下げた。
「こちらでご厄介になっております我が縁戚へ、届けてほしいとのことで御座いました」
「―――」
 政宗の表情が歪んだ。つまりは、毛利への、元親からの手紙だった。政宗は口角を引き上げて少し意地悪い笑みを零した。
「貿易に関するすべてのことは、俺の目の届く範囲でやるのが奥州の筋だ。・・・だから、この書状も目を通させてもらうぜ」
 商人は、予想していたのだろう。存分にどうぞ、と言った。小十郎が先に開けて、なにも危険がないのを確認してから、政宗に渡した。政宗はほんの少しの罪悪感を感じながら、黙ってその書状を読んだ。
 「・・・・・・okey,」
やがて政宗は呟いた。それから手元の書面を元通りに畳むと、立ち上がった。
「―――今日はこれまでにする。後の奴らは明日もう一度足を運ぶよう伝えておけ」
 そう告げて広間を出た。



 政宗はそのまま邸に戻った。主君の、予定より早い戻りに家中が俄かに騒々しくなるのを無視して、まっすぐに毛利のいる奥の間へ向かう。
 入るぜ、と声をかけて政宗は襖を開け放った。毛利は相変わらず書見台に向かって書物を読んでいた。政宗は少し乱暴な足取りで毛利の元へ歩み寄った。様子がおかしい、と気付いたのか、毛利は書物を閉じて政宗のほうへ向きなおった。
「なんぞ、あったのか?」
「・・・」
 政宗は、ぽいと毛利の膝の上に手に持っていた書状を放り落とした。それから真正面にどかりと胡坐をかいて座った。毛利は書状を手に取り、眉を顰めた。彼に手紙を書いてくる者は、最近では政宗しかいないのである。それとても、いまや同じ邸内にいるからには必要なくなっている。
「なんだ、これは?」
「手紙だ。アンタ宛ての」
「・・・貴様か?わざわざ?」
「違う。・・・いいから、読め」
 政宗はそう言う間、視線を毛利に向けられず庭先を見つめていた。毛利はそっと書状を開いた。
「―――、」
 小さく息をのむ音が漏れた。驚いたらしい。ぱっ、と毛利はその手紙を閉じた。政宗は毛利をやっと見た。
「・・・これは、・・・“奴”からではないか?」
「そうだぜ」
「・・・我が、読んでいいのか?」
「・・・いいさ。アンタ宛てなんだから」
 毛利はじっと政宗を見つめていたが、やがてそろそろと、再度その書状を開いた。持つ手が少しだけ震えたのを政宗は視界の端に捉えて、俯いた。



 恋文だな、と政宗は目を通したとき思った。
 元親の書いたそれはうまい文章ではなかったし、直接的な言葉は何処にもない。政宗宛のものと同じように、誰かに読まれても問題ないように肝心のところはぼかされている。
 それでも、元親が一生懸命に毛利へ気遣い、想いをかけていることは政宗にもよくわかった。
 必ず迎えに行く、と、その言葉だけははっきりと書いてあった。
 やがて読み終わり、毛利は書状を丁寧に元通りに畳み直した。手の中にあるそれをじっと見つめていたが、やがてそろそろと政宗のほうへ差し出した。
「なんだよ」
「・・・貴様は、我の管理者ゆえ。これも目を通し、貴様が処分せよ」
 政宗は落ちて来た前髪をかきあげて、少し面倒そうに呟いた。
「読んだぜ。とっくに」
「―――」
 毛利は一重の目を瞠った。それから、視線を伏せた。政宗は当然のように謝らない。本来ならば、他人への私信は読むべきではない(礼儀として)が、状況的にはなんの責められる要因も無かった。むしろ毛利のほうから差し出したことから見ても、政宗がそれを読むのは当然だった。元親もきっと納得しているだろう。
 それでも、政宗自身の胸から罪悪感が拭えないのも事実だった。他人の秘密ごとへ首を突っ込む無粋を堂々とやっているようにしか思えなかった。いったいこの二人はどういう関係なのだろう、と政宗はまた考えた。小十郎と語っていたとき毛利は、「長會我部がわからない」と言っていた。・・・でも、その言葉と、今の手紙を読むときの態度(きっと毛利は喜んでいるに違いなかった)とは矛盾するように政宗には思えた。
「・・・それはアンタが持っててかまわねぇよ。別に何が書いてあるわけでもなし、・・・へったくそなloveletterなんざ、俺は要らない」
「・・・ら・・・何?」
 毛利はきょとんとして政宗の言った異国の言葉を訊き返した。政宗は苛立ち、立ち上がると吐き捨てるように言った。
「―――恋文、ってこった」
 毛利の面が、さっと朱に染まった。政宗は肩を竦めると、そういうことだから、アンタが厳重に管理しとけよと言い残して部屋を出ようとした。待て、と毛利が呼びとめた。政宗は少し期待して、立ち止まったが、かけられた言葉は少しばかり残酷だった。
「・・・これは、捨てずともよいのか?」
 政宗は、我知らず拳を握りしめた。寛大であろうと努力した。・・・きっと、できたはずだ。
「いいさ。捨てなくても。・・・大事に取っときゃいい。あいつが迎えに来る日まで」
 政宗はそのまま部屋の外に出た。襖を閉めるとき、ちらりと肩越しに部屋の中の毛利を見た。
 毛利は、元親からの手紙を、そっと、抱くように袷に入れるところだった。
 見なければよかった、と後悔して、政宗は襖をぴしゃりとしめた。



 そのまま馬を駆って日暮れまで側近たちと出掛けた。日が暮れても邸に帰る気になれず渋っていると、なればとひとりが遊郭遊びをすすめた。忍んで城主が通うは別段珍しいことでもない。そういえば最近さっぱりその手の場所へは行っていなかったな、と政宗は考えて苦笑した。・・・仕事以外は、明けても暮れても“毛利”だった自分に内心呆れた。
 芸妓が居並び賑やかに楽を奏し、舞うのを、上座で酒を舐めながら眺める。派手好きの政宗の趣味を熟知している茶屋のはからいもあってきらびやかな席に笑い声が途切れることなくさんざめく。政宗は時折微笑を浮かべながらも、ひとりこの場で馴染めない自分を不思議に思った。芸妓の目元に刷いた鮮やかな紅に、どうしてか毛利の一重の双眸を思い出してゆっくりと振り払うように頭を左右に振った。いかがしましたかと酌をする妓に問われて、なんでもねぇよと苦笑いして誤魔化した。秋波を送ってくる妓がなんだか煩わしい。美女ぞろいだと部下たちは褒めて品定めしているようだったが、政宗はまるで興がのらなかった。
 そのまま、政宗は夜をその店で明かした。共寝の相手を、と妓を勧められたが、気分じゃないと断った。
 翌日は、城のほうへ直接戻り、政務をこなした。日没後はまた街へ繰り出した。その翌日も。散々に飲んで遊んで金は使ったが、どの女にも手は出さず独りで眠った。
 結局、一週間ほど、邸へは戻らなかった。



 連日精が出ますな、と書きものをしている政宗へ、小十郎が皮肉を言った。政宗は適当に相槌をうっておいた。何十枚目かの書状に花押を書きいれて伸びをすると、立ち上がる。今日も出掛けられますのか、と訊かれて肩を竦めた。
「正直、なにがなんでも出掛けたいわけじゃねぇよ。なんか仕事があるならやるから出せ」
「要するに、邸に御戻りになりたくない、ということですか」
「・・・そうは言ってねぇだろ」
 うんざりした顔で政宗はぼやいた。小十郎はなんでもお見通しなのだろう。
 政宗の仕上げた書面をひとつずつ確認しながら、小十郎はなにくわぬ顔で言った。
「先日、見舞ったところ、訊かれました。政宗様は仕事が大層忙しいのか、元気にしておられるのかと」
「・・・誰に?」
「さぁて」
 小十郎は応えず、立ち上がるとさっさと部屋を出ようとする。政宗は慌てて駆け寄ると、子供のようにその袖を引っ張った。
「おい。意地の悪いことすんじゃねぇよ。誰が言ったんだ、・・・いや、それでお前、なんて応えたんだ?」
 小十郎は可笑しそうに政宗を見た。
「正直に応えておきました。我が殿は夜毎“視察”にお出掛けです、と。なにか問題でもおありか?」
「―――ッ」
 政宗は舌打ちをひとつ、小十郎をひとつ目でじろりと睨み上げた。涼しい顔でそれを受け流して、小十郎は付け加えた。
「飽きっぽく落ち付きの無い方ですから、あまり気になさらぬようにと伝えておきました」
「おい、・・・余計なこと言うんじゃねぇよ!」
「そうでなければ、諦めの早いと言うべきでしたか。散々強請ったわりにはすぐ臍を曲げて顔を見たくないと近寄らないのは、相手様もお困りになるだけでしょう」
「小十郎。不敬にもほどがあるぜ?調子に乗るな」
 小十郎は溜息をついて、失礼致しましたと頭を下げた。それから、しかし、と前置いて政宗を見つめた。
「・・・覚悟の上であの方を手元に置くと決められたならば、書状一通で気持ちが折れるなぞ、情けないことで御座います。こうと決めたなら最後まで貫いていただきたい」
 政宗は俯いた。
 それから、ぼそりと、心配してたって言ったが、ほんとうか。と呟いた。小十郎は、本当です、と柔らかく言った。
「・・・誰が?」
 懲りずに訊くと、小十郎は少し怖い顔をした。毛利殿以外の誰というのか、ときつく言われて、政宗はぱっと顔を上げた。



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 毛利は起き出した。のろのろと小卓に近寄ると医師からもらった膏薬を抽斗から取り出す。片袖を脱いで、左肩に押さえて眉を顰めた。自分ではうまく痛む箇所に当てられない。
 溜息をつくと、そのまま背中を見ようと鏡を動かし体を捻ろうとしたが、先に映り込んだ自分の顔に気づき、まじまじと見つめた。
 覇気のない貌だと思った。見た目の美しさは毛利にとってなんの値打ちもなかった。
 采配を振るえない自分に生きている価値はないように思える。だから、元親が自分に命懸けで「別の自分を生きてみろ」と言うのは腑に落ちない。手紙をもらったのは純粋に嬉しかった、でもどこか納得ができない。
 一方で、現在自分を人質として囲っている政宗にも、理解できないものを感じる。一方的で、独善的で、我儘な子供のような男だと思う。いつでもまっすぐに毛利を見て、とうとう此処に自分を連れて来てしまった。
 そのまま拒否することもなく、此処にい続ける自分を毛利は不思議に思う。寺にいた頃からそうだったが、毎日政宗が来るか、来ないか、と待っている自分が確かにいた。観察対象として面白いのか、それとももっと別の原因があるのか毛利は自分のこころを掴みかねたまま、今こうしている。



 政宗の訪問は時々、途切れる。これまでも何度かあった。ただ、この邸に来てからは無かった。
 それが、元親の手紙を渡した日から政宗は戻らない。これまでは戻れない日は小姓がそのことをわざわざ伝えに来ていた。今回は誰もそのことに触れないし、毛利から遠ざかっているように思える。忙しいのだろうか、それとも。
(・・・また誰かに狙われたか?)
 毛利は少しそのことに思い至ると落ち着きをなくした。たまたま顔を出した小十郎に(彼は見舞いに来たと言っていた)、政宗は元気でいるかと問うた。小十郎は少し驚いたような表情をしたが、頗る御元気ですよ、御出掛になられることが多いのです、とすぐににこやかに言ったので、特に悪いことは起こっていなさそうだった。毛利は、そうか、と小声で呟いて俯いた。毛利殿も大変ご体調がよさそうでなによりです、と小十郎はさらに言った。毛利は俯いたまま、頷いた。
 小十郎が退出してから、ひとり納得した。自分が元気になったから、政宗は安心して来ないのだろう。
 なんだ、そうか、と得心して、・・・けれどなんとなく落ち着かず、毛利は狙撃された左肩をそっと動かした。まだ包帯は巻かれたままで引っ張られるような感覚は窮屈だった。外しても大丈夫だろうか、と考えて自分で包帯をほどいた。肩は軽くなったが、外した包帯にはまだ薄く血が滲んでいて、毛利は眉を顰めると元通り巻こうとした。・・・うまく巻けない。
 しばらく格闘しているうちに肩が痛んできて、仕方なく毛利は諦めた。そのまま床の上に横たわると、布団に当たった個所が痛む。あの包帯はこういう痛みも緩和するために巻かれていたのだな、とぼんやりと感心しつつ、どうしようもないので痛まないように体勢を無理に変えて、そのときはうとうとと昼寝をした。
 ・・・起きたときには、寝方が悪かったのか、ほかの筋も痛むようになっていて、毛利は溜息をついた。医師の診察は、すでに週に一度程度になっている。次に医師が来るまでこのままか、と思うと少し心が重くなった。



 きっと、そのせいなのだろう。今日は朝からずっと重く鈍く傷は痛んだ。毛利は我慢することには慣れていたので誰にも何も言わず、いつもどおり正座して自分で決めた時間は書物を読んだり書を書いたりしていたが、流石に夕方になると痛みに何もする気になれず、食事が終わると早々に床についた。
 けれど痛みはひかず、眠れない。そして起き出して、この状態である。
 今は何刻くらいか、と考えたとき、遠くからときを告げる太鼓の音が響いた。もう随分遅い。
(・・・今日も、来ないようだな)
 ふと政宗のことを思い出して、毛利は小さくため息をついた。あの若者は、騒々しく勝手気儘で・・・毛利を振りまわすけれど、彼と話していると、これまで毛利が執着してきたものがまるで無価値のように思えることが多かった。既存の枠にとらわれない面白さがある・・・
 ―――それでも、彼は、主君であるという自分の立場は決して忘れていないようだった。そのことも、毛利を安堵させた。どれほどに近づいても、彼は最後はきちんと己の立場を守り、要らぬものを(つまり、毛利を)切り捨てるだろう。それができる男だ。元親とは、そこが違うと思う。
 そんな政宗に感嘆しつつ、納得もしつつ、毛利は、一抹の寂しさも感じている自分を不思議に思う。



 襖の開く音がした。
 咄嗟に身構えて、痛みに顔を顰め―――目の前にいる人物に、毛利はぽかんと口をあけた。
「・・・伊達・・・?」
 政宗は、怖い顔でそこに立っていた。毛利はほんのわずか立ち上がりかけ、そこで自分の格好に気づいた。慌てて肌蹴た片方の袖を腕に通そうとした、―――が、やはり鈍い痛みがずきりと襲い、肩をおさえて呼吸を止め、動きを止めた。政宗の舌うちが聴こえて、毛利はどきりとして顔を上げられない。
「・・・おい。なんで包帯外してんだ?アンタ?」
 低い声がした。毛利は顔を上げた。政宗は怒っていた。・・・どうやら、包帯を外しているその状態に腹を立てているらしかった。
「医者がもう外していいつったのか?そのわりに痛そうにしてるじゃねぇか、どうなんだよ?」
「・・・これは・・・肩が、窮屈だったゆえ、・・・」
 自分ではずした、とぼそぼそと言うと、政宗が、馬鹿かアンタは、と声を荒げた。毛利は反論できず俯いたままだった。政宗は小卓へ近寄ると、医師が予備に置いていった包帯と薬を取り出して毛利の背面に座った。
「じっとしてろよ。巻いてやるから。・・・どうせ、痛みで寝られないんだろ。そうでなきゃアンタがこんな時間まで起きてるわけもねぇ」
「・・・・・・」
 すまぬ、と小声で言って毛利は政宗がするままに任せた。器用に政宗は包帯を巻いていく。医師とほとんど変わらない腕前に毛利は内心感心したが黙っていた。
 できた、と言われて毛利は顔を上げた。袖をゆっくり通してみると、痛まなかったので少し口元が無意識に綻んだ。政宗を見ると、さっきよりは穏やかな顔をしている。
「どうだ。痛いか?」
「・・・いや。大丈夫だ。助かった。」
「ったく。痛いなら我慢してねぇで医者でも誰でも呼べよ。我慢したって誰も褒めちゃくれねぇぜ、ひどくなったらかえって面倒だろうが」
「・・・すまぬ、手を煩わせた。・・・忙しいのだろう?」
 素直に詫びて礼を述べると、政宗は困ったような顔をした。そりゃ皮肉か?と言われたので首を傾げた。政宗は片膝を立てて座り、毛利を覗きこんでいる。小十郎の野郎に訊いたのか、と言うので、毛利はこくりと頷いた。
「視察が忙しいのだと・・・それで出掛けていると」
「―――shit。あの野郎め!」
 政宗は小十郎に毒づいているので毛利は怪訝な顔をした。けれど、あの野郎、と罵りながらもどこか可笑しそうにしているので、きっと主従二人の間の話なのだろう、と思うことにした。毛利は丁寧に頭を下げた。
「貴様が来てくれて助かった。・・・もう我は平気だ。早々に仕事に戻るがよい」
「・・・Ah、それより、・・・ちょっと・・・頼みがあるんだが」
 政宗が呟いた。毛利は、なんだ?と政宗を見つめた。政宗は、この状況のアンタに言うのは気が引けるんだが、と口ごもっている。毛利は、少し勢い込んで言った。なにか頼られることは嫌いではない。
「なんだ。申せ。今の礼だ、なんなりと―――」
「―――じゃあ、」
 政宗は、毛利の背を抱きかかえるように腕を回すと、そのまま毛利を敷いてあった布団の上にゆっくり寝かせた。呆気にとられて毛利は政宗を見上げる。次に聴こえるだろう言葉が、その瞬間、理解できた。
「・・・抱いて、いいか?」



 ―――毛利は、耳の奥がどくりと疼くように感じた。
 気付いたときには、頷いていた。