誰かの願いが叶うころ





(19)


 一度目、抱いたときは彼に対して抱く感情は、ほとんど憎悪に近かったと思う。
 穢して、汚して、ずたずたに斬ってやろうと思った。自分を顧みないまま消えてしまった母の冷たい意志が凝り固まったようなその男を、政宗の内側を意識せず、表情ひとつ変えず傷つけるその男を、行き場をずっと失っていた己の不満のはけ口のように・・・それをぶつける代替品として憎もうとした。
 いつの間にか固執する心はすこしずつ拡散して和らぎ、もっと違うものを見るようになった。何度も行き違いを繰り返して近くへ、近くへ、僅かずつ歩み寄ったように政宗は思う。
 その都度毛利の表情は増えて、感情の発露が見えるともっと知りたくなった。
 どうして兵を捨て駒にしてきたのか。敗北してなお、生きながら繋がれる身分になっても国を守ろうとするのか。
 敵である元親を、何故諱呼びするのか。理解できないと言いながら彼のことになると感情の発露が普段より顕著なのは何故なのだろう。
 ほんとうはどうしたいのか。元親とともに行くのは本心なのか。人質として静かにこのままの生を終えたいのか。
 ・・・その身を、すでに誰かに暴かれていたことも。すすんでそうしたのか、誰かに抗えずそうさせられたのか。そんなことまでも、知りたいと思った。
 毛利は自分のことをほとんど喋らない。だから、結構な時間を共に過ごしてきたように思えて、政宗は彼を何も知らないに等しいと思う。



 元親の手紙を毛利が胸元に隠したのを見たとき寂しかった。政宗と毛利の間にはいつも元親がいて、忘れていても時折その面影は毛利をそちらへ引き摺っていく。毛利はどうかはさておいても、元親が並みならぬ感情を毛利に抱いていることは疑いない。毛利への気持ちが元親と比べて負けているとは思わないけれど、政宗はそうやって元親の存在が浮かび上がるたびに、無意識に引いてしまう自分を歯がゆくも思う。国を失って元親は自由を手に入れ、政宗は勝利したことでさらに積み重なる未来への責任を負った。そのせいで欲しい人に、毛利に、欲しいと言えない。
(どちらが幸せなのだろう?)
 邸に帰らず彷徨っている間、自分はこんなに繊細だったろうかと政宗はよく夜、ひとりで哂った。元就と話しているとき、彼が自分だけのものだと錯覚しそうになるとき、いつも元親の残像がふいにあらわれて邪魔をする。現実にふたりを引き戻す。そのたびに自分の何処かが麻痺したように動けなくなる。・・・痛みだった。
 だから、逃げていた。これまでも何度も逃げた。
 小十郎から、毛利が自分を心配していると聞いたとき嬉しかった。単純にもそれだけで政宗は毛利に会いたいという気持ちが募った。またあの痛みがくるとわかっていても。痛みを忘れてしまうくらいに彼の無い時間が少しずつ考えられなくなっている。
 いつかいなくなる。―――痛みが永遠に残るだけの日がくる。
 そのとき自分が堪えるための練習を、今辛抱強く繰り返しているのだろうか、と、政宗は馬鹿馬鹿しいことを考えて寂しく笑うのだ。



 幾日かぶりに来てみれば、毛利は自分で包帯を外していた。半分怒鳴りつけて包帯を巻き直した。素直に礼を言ったところを見れば相当痛かっただろうに、我慢していたのかと思うと可笑しいような、呆れるような、愛おしいようなこころが湧きあがった。政宗が邸に戻らない理由を(小十郎が皮肉を籠めて“勤めが忙しい”と言ったのを)真正直に受け止めて、政宗のことを心底心配しているような様子も愛おしかった。戦の駆け引きとなればきっと神に等しい頭脳を発揮するだろうに、他愛もない日常の、人と人のやりとりには彼は慣れていない。突き離すような口調も態度も、その己の弱さや至らなさを知っているからかもしれなかった。
 そう思ったとき、抱いていいだろうか、と政宗は問い掛けていた。
 声も無く驚いたふうに目を瞠って、けれど毛利ははっきりと頷いた。政宗は少し笑った。この言葉を彼が“命令”と捉えているなら哀しいことだが、―――なんとなく、そうではないように思えた。
 政宗は、寝かせたままの毛利を、できるだけ動かさないように気をつけて(傷のことがあったので)、帯を解き袷をくつろげていく。その胸元からあの元親の書状が出てきたらどうしようかと少し躊躇したが、幸いどこにもそんなものは無かった。胸元に口づけると毛利の身体は面白いようにびくりと跳ねた。
「・・・はじめてじゃねぇだろ、そんな固くなるなよ」
 政宗がにやりと笑って言うと、毛利は少し視線を逸らせた。
 政宗がなおも皮膚の上を唇を滑らせると、自分の手を口元へ運んで押さえる。声をたてない配慮だと気付いて政宗はその手を外させた。非難するような視線を送られて、政宗は真面目な顔で答えた。
「俺は、アンタをもっと知りたいんだ。・・・前の、あの斬り合いみたいなまぐわいは別だ。あのとき俺はアンタが大嫌いだったに違いないぜ」
「―――」
 毛利が表情を歪めた。政宗は小さく吐息をついた。
「だから、アンタがどんな顔して感じるのか、どんな声を出すのか、どうすれば喜ぶのか。俺は知らない。・・・最初っから仕切り直しだ。you see?」
 毛利の貌が困っているように見えて、政宗は楽しそうに笑うとその唇をぺろりと嘗めてやった。



「・・・んっ、く」
 悦楽を密やかに堪える声が否応なく零れる。
 政宗は仰向けになり、その上に跨らせた肢体は覚束ない燭の灯りに白く浮き上がり小刻みに揺れていた。蜜を滴らせる棹の根元には白い包帯の切れ端が固く結ばれている。
 枷だ。
 政宗はまるで毛利を縛る自分のようだと考えて自嘲する。その間も毛利は日頃の感情のうすい面が嘘のように、政宗に抉られ弾かれて啼いていた。冷徹な声は何処にもない、箍が外れたように。あるいは赦しを得たように。
「なぁ。教えてくれよ。―――アンタをこういう身体にしたのは、元親なのか?」
 なにげなく話し掛けながら内部を擦るように突きあげると毛利の喉から悲鳴に似た嬌声が上がった。もしかしたら泣き声かもしれなかったけれど悦んでいるのだと政宗は冷ややかに理解した。どくりと脈打ってそそり立つ毛利自身が解放を望んでしとどに濡れて光っていた。政宗は握っていた毛利の両手の、片方をそっと外して主張する強張った(彼らしくない)肉欲を掴み上げた。
 今度こそ、悲鳴が上がった。
 毛利は髪を振り乱して頭を左右に何度も振った、同時に肉壁内部が政宗を搾り上げるようにうねった。政宗は一瞬爆発しそうになるのを堪えて、何度も浅い呼吸を繰り返す。呑まれないように意識を散らして、緩やかに上下に揺すってやると毛利の眦から頬に光るものが伝った。
「い、あっ・・・や、やめっ」
「やめてほしいんじゃないだろうが、・・・なぁ。教えてくれよ、アンタのことを」
 意地悪く繰り返して、きっと望む応えは返ってこないと半ば諦めているのに、子供のような己を政宗はやはり哂うしかない。それでも知りたい。全部知りたい。政宗の知らない毛利の時間を知りたかった。それがたとえ、聞いてしまえば後々に辛くなる類の話であっても。
 毛利は強情に(と、政宗は思った)なおも何も言わずただ首を横に振って時折きれいな声を上げる。政宗はその声にはらわたへ何かがじわりと滲むような感覚に襲われる。嬉しいのか、かなしいのか、すこしずつわからなくなっていた。きれいなものを見たとき泣いてしまうように。
「なぁ。・・・元親のこと、好きか?」
 ぽつりと尋ねると、毛利は緩んだ口元を舐めてごくりと喉を鳴らし、政宗を荒い息の下に見おろした。どこか憐憫を含んだ視線だった。
 わからぬ、といつも通りの応えが返ってきた。
「・・・わからないなら、なんでアイツの手紙を懐に入れるんだよ」
 政宗は拗ねた声を出した。毛利は僅かに涙にぬれた目を瞠った。それから小さく咳き込んで、唇の端を僅かに持ちあげた。
「・・・あれ、は、焼いた」
 そんな声が届いて、政宗は瞬きをした。なにを?と問えば、長會我部の書状だ、と繋がったままの毛利が言う。
 政宗は思わず上半身を起き上がらせた。
 中を刺激されてまた毛利がせつなく声を上げた。繋がったまま腕で毛利の体を支えて、顔を覗きこんで政宗は尋ねた。
「焼いただと?何故?俺はしまっとけって言っただろうが―――」
「・・・な・・・内容、は、頭に入っている。・・・あんなもの、あれば、不都合が起こるゆえ、・・・」
 そう言って、毛利はぎゅうと目を瞑った。政宗は思わず声を荒げた。
「なに言ってやがんだ?あれをどんな想いで元親が書いてよこしたと思ってるんだよ、アンタ・・・あれを読んで、わからなかったのかよ?」
 それを聞くと、毛利は強請るように腕をそろり、伸ばして、政宗の肩へ手を添えた。もっとわからないものがある、と少し早口に口走ったので政宗は口元へ耳を寄せようと毛利を自分の方へぐいと抱き寄せた。また内部を擦られて毛利は可哀相に、啼いた。互いの腹筋にじれったく擦られてもやはり枷のせいで吐き出せず、びくびくと毛利は全身で痙攣した。
「くっ、は・・・あ、ああ」
「なにが、わからないって?なぁ?」
「貴様の・・・」
 こころが。と口元が動いた。
 政宗は黙った。
 元親に嫉妬しながら、元親の気持ちを忖度している矛盾を言っているのだと気付いた。
 毛利の唇がまた動く。まさむね、と呼んだ。熱と堪え切れない透明な唾液に塗れて紅く光って誘っていた。政宗は思わず吸いつき、甘く噛んで、舌を差し込み誘い出す。毛利はその動きに応えながらとぎれとぎれに言葉を紡ぐ。互いの口元から滴る水音に耳を澄ましながら、その言葉に政宗は感覚を委ねた。
 ―――だから、貴様とこうしている我は、嫌いではない。
 そんなふうに聴こえて、政宗は舌を絡めながら笑った。もっと素直に言えないのか、とも思うが、政宗自身が“その言葉”を毛利に与えることを固く己自身に戒めていた。この忌むべき存在の――敵であった、人質として監視される―――綺麗な男を、誰よりも大切に思うようになった今も。
 どんなに抱いても、政宗と毛利の間には“過去の誰か”がいる。元親かもしれず、ほかの誰かかもしれない。
(けど、・・・こうやってる自分を嫌いじゃないって、思ってくれるのは。アンタも俺を大事に想ってくれてるって、・・・自惚れていいのか?)
 同じように元親にも言ったのかもしれない。そうだとして、きっと毛利は教えてくれないだろう。或いはもっとずっと深い位置に元親はいて、政宗はどうあっても毛利のすべてには届かないのかもしれなかった。
「・・・shit。悔しいなァ、」
 政宗は笑った。一粒涙がこぼれた。



(これは嫉妬だ)



 政宗は毛利を突きあげ、揺らし、そのまま身体を反転させた。甲高い声を上げるのを無理に繋がったまま裏返す。四つ這いにさせて背後から抱きしめる。我慢できないから、このほうが肩の負担が無いだろうと耳元に囁いてやると毛利は喘ぎながら僅かに頷いた。それを了承と受け止めて、政宗は何度も毛利を突いた、熱くて熱くて蕩けそうな襞がひたひたと政宗を追い詰める。ぬめる水音と毛利の呼吸音と意味不明の音声を、全部覚えておかなければと思った。汗ばんだ皮膚のひいやりした感覚も、敷布を握りしめて白くなった爪先も。逃げるどころか誘い込むようにせつなく呼ぶ彼の内部も。政宗を何度も呼ぶ声も―――
 政宗は毛利の身体の中に吐き出す瞬間、彼の戒めを解いた。同時に毛利も全身を戦慄かせ白いものを飛び散らせる。短い間隔で繰り返される呼吸を聞きながら毛利を自分のほうへ向かせた。毛利の顔は涙と白い飛沫にぐしゃぐしゃに濡れていた。政宗は少しずつそれを舐め取りながら、呟いた。
「元親は、・・・きっと、アンタが好きなんだ。アンタも、それはわかるだろ?」
 毛利は表情を変えなかった。そのことが、知っているのだと顕していて、政宗は寂しさに唇を噛む。
「俺は、背負うものがまだある。・・・“その言葉”をアンタに言えないけど」
 毛利が、手を伸ばして指先で政宗の唇に触れた。言わなくていい、という合図のように思えて、政宗は彼らしい快活な笑顔を、こころでは少し泣きそうになりながら毛利に見せた。
「アンタを大事に想ってる。・・・きっと、アンタを幸せに、してやる。俺ができなくても―――誰かが。元親でもいい。その日までは、・・・言えなくても俺は」
 ―――それ以上は言葉にならなかった。
 いつしか毛利は政宗を頭ごと抱きしめてくれていた。政宗はひとつしゃくりあげると、静かに泣いた。なくしてきたものが一時に戻ってきたように思えて、―――けれど近い将来にまた消えるのだと悟って、泣いた。