誰かの願いが叶うころ





(2)


「・・・It's a joke?」
政宗は思わずそう呟いていた。
異国の言葉に、相手は当然ながら秀麗な眉を顰めた。ほんのわずか首を傾げると、わざわざもう一度言葉にした。
「・・・聞き取れなんだか。我が名は、毛利元就―――」
「おい、いいかげんにしろよ。・・・アンタ、誰かにそう言うように言い含められて来てるのか?」
政宗は怒りと苛立ちを隠しもせず吐きだすように告げると相手を睨みつけた。
たいていの者ならば竦んでしまう政宗の苛烈な態度に、けれど小柄な青年は瞬きをしただけである。相変わらず無表情の、どこか達観したような冷たい面のまま、政宗の視線を真正面から受け止めて平然と其処に端坐している。
刀の鯉口を切る僅かな音が響いた。政宗は少し離れた位置にいる小十郎を見た。険しい表情で小十郎は少し腰を浮かしている。あと僅か"おかしなこと"が起これば、小十郎は抜刀し、容赦なくこの目の前の青年を斬るだろうと政宗は考えた。
どうやら主従で同じことを考えたらしい。・・・すなわち、意外すぎる名を告げて政宗や伊達の家中を驚かせ、その隙をついて政宗の命を狙うのではないか―――
それほどに、その"名前"は、在り得なかった。
普段冷静で、突出しがちな政宗をいさめる役割を篤実に実行してきた小十郎ですら、条件反射で身構えてしまうほどの。
―――"毛利元就"とは、西軍の総大将を担った一族の、誰あろう、宗主であった。
重すぎる名前を告げても、まるで他人事のようにそこに在る小柄な青年が、本当にその人本人だとは、場にいる伊達家の誰にも、俄かには信じられないのも仕方なかった。兵士を人とも思わず軍略の駒として使い捨て、毛利を一大勢力へと伸し上げた張本人である。
名前の大きさに比して、その姿を見た者はほとんどいなかった。用意周到な、巧妙すぎる詭計は高名な過去の軍師たちのそれを思わせ、従って誰もが、"毛利元就"とは歴戦の智将に違いないと考えていたが、その予想から現実に此処に座る青年の姿はあまりにかけ離れていたのである。
これが「毛利の末流の子息」だったなら、誰も疑いもせず、そのまま短い政宗との目通りを終えて、今頃は用意された邸(という名の軟禁場所)にすでに移動させられていたことだろう。
どうしてこんなことになったのか、と、誰もが徳川方の打ってきた手に憮然とせずにいられなかった。
刑死させられても致し方ないほどの重要人物を伊達に預けるということは。もしもこの青年が本物だったとしたら。
伊達は最も危険な"火中の栗"を拾わされたに違いなかった。



・・・ようやく政宗は、片手で小十郎を制する仕草をした。
小十郎は視線だけ主君のほうへ向ける。政宗は少し、苦笑してみせた。
「まぁ、戯れ言もいいとこだが、聞いてやろうぜ。・・・アンタ、"元就"さんよ?その名前が誰を意味するのかわかって言ってるのか?」
「―――無論」
淡々と青年は応えた。
それから小十郎へ視線を流す。
「そこなる者は・・・風貌から察するに"竜の右目"か?何を斯様に慄いておるのだ。敗軍の将一人、今更恐れることもあるまいに」
立場をわきまえない尊大な物言いに、小十郎の纏う空気がいよいよ厳しくなった。しかし政宗は青年の、どこか現状をまったく気にしないような、虚しいほどに堂々とした態度に思わず声をあげて笑っていた。
「あぁ、わかったぜ。・・・どうやらアンタ、"本物"らしいな。伝え聞いてる人となりに合致してやがる」
それから、青年のほうへ上座から立ち上がると近づいた。政宗様、と小十郎が切羽詰まったような声を上げたが、政宗は構わず接近し、正座する"毛利元就"の目の前にしゃがみこんだ。
それから、右手をのばすとぐいとその細い顎をつかんで、無理やり顔を上げさせた。相手はひるむことなくじっと、冷たい眼差しで政宗を見つめる。
「・・・この、えらそうな態度や視線がな。聞いたことのある毛利元就そのまんまだぜ」
青年は、表情を変えない。
政宗は、ふと、何処かでこの顔を見たような気がして、眉を顰めた。
戦場で出会っている可能性はある、・・・なにせ東軍西軍にわかれて戦った間柄だ。直接伊達軍と毛利軍がぶつかる機会はなかったはずだが、あの決戦のとき"毛利元就"が何処で采配をふるっていたのかは誰も知らないのだから―――
そこまで考えて、しかし政宗はなにかが腑に落ちず、少し苛立った。喉元まで出てきているのに思い出せない・・・
(・・・何処で見た?会ったことがある、・・・)
思考に沈む政宗に、目の前の人形のような貌の人物はふいに、独眼竜よ、と呼びかけた。政宗は我にかえった。顎を掴まれたまま、"毛利元就"はものを言う。
「貴様、我の名を聞いたのであろう。ならばせいぜい我の扱いには気をつけることだ」
「―――Ah?」
政宗はせせら哂った。ひとつ目で白い面を覗きこむ。内面まで見透かしてやる、と言わんばかりの視線で。
「西軍総大将を担った百二十万石の大大名を、もっと敬い、丁重に扱えってことか?」
「・・・・・・」
「アンタは敗者だ。以前どうだったかは関係ねぇよ、現に毛利は十分の一以下に石高を減らされてるじゃねぇか。アンタこそ物言いに気を付けたほうがいい、・・・アンタの目の前にいるのは"奥州筆頭"伊達政宗なんだからな」
政宗の応えに、けれど青年は、やはり微動だにしない。
むしろ、どこか馬鹿にしたような眼をした。掴まれた口元が僅かに綻んだような気がして、政宗はやっと、彼が誰に似ているのか思い出した。
・・・そして思い出してしまったことを、刹那に後悔していた。
政宗の逡巡には当然のように気付かず、怯まず、"毛利元就"は端正な面で平然と言葉を紡いだ。その口調と政宗への侮蔑の声色までもが、思い出した相手にそっくりだった―――
「竜と呼ばれているにしては小さきことを気にする・・・つまらぬ男よ。惜しや戦場で出会っていたならば我が刃で屠ってやったものを」



気付いたときには、殴りつけていた。
華奢な青年は可哀相なくらい勢いよく板間の上に倒れた。黙ったまま再び面を政宗に向けたとき、唇の端から一筋血がつうと流れた。
政宗は見上げてくる青年に近づくと、片足で彼の右手を踏みつけた。秀麗な面が流石に歪む。
「・・・アンタのこの手は、もう何も持っちゃいないんだ。振るうべき采配も、統べるべき国も、捨て駒として使う兵士も」
「・・・・・・」
「立場をわきまえろよ、毛利元就。・・・徳川からの預かり物だとしたって、どう扱うかは俺が決めることだ。向こうさんだってアンタを持て余してこっちに寄越してることには違いねぇだろうが。そして毛利家も別の奴が治めてる。アンタは―――」
一度、言葉を切った。
「・・・いらない、男なんだぜ。もう何処にも」
青年の一重の瞼が一瞬、見開かれ、それから彼は初めて俯いた。政宗は己の中の昏い心を自覚して哂った。
歪んだ嗜虐心を満たすにはそれだけで十分だった。



"アンタは、いらない女だ"
"もう何処にも、誰にも―――"



「―――政宗様!」
強い調子で呼びかけられて、政宗は我にかえった。小十郎が政宗の両肩に手を添えている。
政宗はひとつ頷くと青年の手を踏みつけていた足をどけた。"毛利元就"は顔は俯いたまま、再び元のとおり正座した。
「・・・御客人。邸に案内致します。これよりは伊達の法に従っていただきますゆえ、御承知おきを」
それだけ告げて、小十郎は案内役の者たちを呼びつけた。屈強な男が三人、前へ進み出る。
丁重に扱え、徳川家からの大事な預かり物だという小十郎の言葉に皆黙って頷き、前後を囲むように(逃げ出さないように)して青年を立たせた。おとなしく従って、やがて広間から小柄な体は消えた。
小十郎はその様子を見送ってから、広間にいる僅かの家臣たちを下がらせた。主君と二人きりになって、小十郎はもう一度、政宗様、と、先程より幾分穏やかに呼びかけ、彼の目の前に正座した。
政宗は立ったまま小十郎を見おろした。何もしていないのに奇妙に疲れているのを自覚して、やがてのろのろと政宗は小十郎の前に腰をおろし、胡坐をかいた。
「・・・とんだ荷物を送りつけてきやがったぜ、徳川の忠臣ども」
政宗はひとつ溜息をつくと、小さく笑った。小十郎は笑わない。
「毛利元就、か。・・・まさかあんな若い奴だったとはな。それにしちゃ、えげつない策を使うって散々に聞かされてきたもんだが・・・なるほど、元親が昔、一言じゃ語り尽くせないつったのも分かる気はするぜ」
小十郎は、ゆっくりと首を横にふった。
「この小十郎は、まだ疑うべきだと思っております。秘密裏に処刑されたと聞き及んでいたもので・・・俄かには、本物とは信じ難いのです。そもそも斯様な重要人物をこちらへ寄越すとすれば、むしろ徳川方の思惑があからさますぎる。それほどにして伊達に波風をたたせたいのかと・・・」
「そりゃ、俺だって。・・・けどあの態度を見ただろ?本物だぜ、あいつ」
「・・・何故そう思われるのです?」
「―――嫌な奴の雰囲気を持ってやがるからさ」
政宗の物言いに、小十郎は意味がわからなかったのだろう、少し困ったような顔をした。政宗は笑った。
「粗末なもの着てたって、育ちは簡単には抜けねぇだろ。奴には大国の宗主である矜持がある。それを隠すこともしないし、俺を逆に見下してやがる、・・・負けたってのによ!」
小さいつまらない男、と言われた先程の声が耳元に蘇って、政宗は舌打ちした。打ちすえても、見下ろしても、その高貴な身分を剥奪しても――― きっと彼は変わらないのだろうと、政宗にはすでに予測できた。
なおも訝しむ小十郎に、政宗は大仰に胸をそらすと、言った。
「Don't you remember?・・・あいつ、お袋にそっくりだぜ。なぁ?」



一瞬で、小十郎の顔が強張った。
政宗様、と呼びかける。小十郎のほうが泣きそうだ、と政宗は思った。
「―――そんな顔すんなよ」
「政宗様。・・・二度とあの者には、お会いなさらぬことです。忘れてしまいなされ」
「そりゃ、そうだな。最初っからそういう予定だったろ?」
政宗は乾いた笑みを浮かべた。
「あんな・・・偉そうな負け犬に会う時間は、俺には勿体ない」