誰かの願いが叶うころ





(20)


 少しずつ季節は巡る。
 


 毛利は以前より笑うようになった。相変わらず政宗の私邸の奥で過ごしている。
 政宗は政務に励んだ。天下は相変わらず諦めていない。死ぬまで諦めない、と豪語して、小十郎と毛利は顔を見合わせて笑ったことだ。それでこそ政宗らしいと二人とも知っている。
 時折統治について毛利に政宗は意見を求める。控えめに毛利は自分の考えを述べる。政宗にとっては参考になることが多かった。
 さらに意見を引き出すために折に触れ毛利を連れて視察も出た。そういう大義名分の「二人での外出」の意味合いもあったが、実際毛利は領内に連れだすと色々と政宗の身落としていることを見つけて教えてくれるので政宗にとってはよいことだった。小十郎もその点全面的に毛利を信頼しているらしかった。
 政宗は毛利に異常な執着や感情を見せることは減っている。互いが通じ合ったからかもしれなかった。最近は互いに枕を並べて眠るが、毎夜互いを求めるわけではない。つまらない話をずっとしていたり、熱心に政治の話をしたり。そうかと思うと手を握り合って縁側の日なたで眠ったり。まるで猫の子が二匹いるようですな、と小十郎や従兄たちに見つけられて一度はからかわれた。どうせなら虎か獅子と言えよと政宗は苦笑しつつ返しておいた。
 当然、熱を分け合う夜もある。自分たちの肌の隙間に浮かぶ影を意識はするが、元親は理解してくれるのではないかと政宗は思うようになった。
 毛利は元親については、相変わらずあまり語らない。
 元親からの手紙は定期的に来るようになっていた。毛利も返事を出すこともある。今も律儀に政宗に検分を求めるので政宗は半ば嫉妬を感じながらも、これも仕事と割り切って毛利と元親のやりとりを読む。合間にあるふたりの絆を感じると不機嫌になることもやはり、ある。



 昼の日差しの明るい縁側で、政宗はある日また問うた。夜には何度も枕辺で問い掛けてきた質問だった。
「なぁ。・・・元親と、どういういきさつで知り合ったんだよ」
 鷹と遊び終わり、鷹匠へ返したばかりの毛利は振り返って眉を顰めた。
 普段ならそこで終わりだったが、その日は寝転がる政宗の隣に正座して、袷から元親の手紙を取り出し見つめた。丸一日そうやって抱いて、毛利は元親の手紙を焼くのだった。
「奴とは腐れ縁、と前言ったはずだが」
 政宗は肩を竦めた。腐れ縁の意義も広いしな、とまぜかえすと、毛利は珍しく苦笑に似た表情を浮かべた。



「―――幼馴染だ。ほんの数カ月だがともに過ごした」



 政宗はがばりと跳ね起きた。それから、毛利を見つめて唇を噛んだ。毛利はちらりと政宗を見た。
「なにか言いたそうだな」
「そりゃな。そんな身近な関係を、よく腐れ縁なんてつまらねぇ言葉で誤魔化してきたもんだぜ、アンタ」
 不貞腐れたように政宗が呟くと、だから言いたくなかったのだが、と毛利はため息交じりに言った。
「貴様が思うほどに、然程近しい関係ではない。少なくとも我は忘れていた、・・・奴は覚えていたようだが」
「・・・ふん。あいつらしいな」
 再会したのはいつだったんだ、と疑問をふと言葉にすると、毛利は視線を空へ向けた。
「瀬戸海で。海戦だった」
「・・・どっちが勝ったんだ?」
「我があと一手で勝つところで、奴が一騎打ちに持ちこみおった。無謀な輩と切り捨てようとしたら、奴に気づかされた」
「―――で、そっからなりゆきで同盟かよ。そういうことか!」
 毛利は小さく笑った。そんな程度のしがらみで同盟を結んだわけではない、すべては中国の覇権のためだったと言ってのけた。政宗は、アンタらしいぜと言って笑った。
 そして、全ては過去のことだった。毛利も長會我部も、今は主君ではなく、帰る国も持たない。敗者として、この大地で生きることも許されない。
 政宗はぼんやりと毛利の向こうに見える空を見た。雲と混じり融け合う穏やかないろはどこまでも続いていて、この時間が途切れる日が来ると、今もやはり信じられずにいる自分もいる。徳川がこの男のことを忘れ去ってしまってはくれまいか、と祈るしか政宗にはできない。毛利を手元に置き続けるほかの手立てはないかと小十郎たちも密かに考えてくれてはいるようだったが、領土の安泰を願えば余計なことは言わないが吉だった。関ヶ原にたとえ味方していたとしても、有力大名たちが幾人も此処に至るまでに不審な死を遂げていた。その後はなにかと言いがかりをつけて家を取り潰す。そうやって改易され消えた家をいくつも見てきた。奥州を同じ状態にするつもりは政宗にはなかった。
 毛利は庭に出ると、元親の手紙を地面に置いた。使用人に種火を持ってこさせるといつものとおり、手紙に火をつけた。軽々と炎に舐められ焦げてゆく紙片を政宗は黙って見ていた。手紙などなくてもいいと思える強い絆があるならば、どうしてもそこに自分は入っていけないのだろうか、と思う。
「・・・なぁ。俺がアンタに手紙を出したら・・・アンタは燃やすのか?」
 毛利は振り返った。それから微笑した。
「大丈夫だ。貴様は我に手紙はよこさぬ」
「―――」
 政宗は溜息をひとつ、起き上がって胡坐をかいた。縁側から上がって正面に座った毛利を抱きしめると、アンタはほんとによくわかってるな、と呟いた。―――毛利が元親とともに外つ国に行けば、政宗は奥州の主君として、二人と関係をなくすのだから。文のやりとりなど、存在するはずもなかった。毛利が手紙を書いても、政宗は書くことはできないだろう。



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 報せは唐突だった。
 まだあると思っていた時間はあっさりと止められた。あとひと月後に毛利を移送せよと通達が届いたのは毛利が奥州にやってきてからもうすぐ二年になるかという同じ季節だった。政宗は表面上何事もないようにその報せを聞き、―――その後自室にこもってひとしきりなにもできず茫然と時を過ごした。小十郎が心配して声をかけなければ、丸一日以上そうしていたかもしれない。
「・・・元親への報せは?」
 政宗の問い掛けに、そちらはぬかりありませぬ、と小十郎は言った。例の商人とは定期的に連絡を取り合っている。今回のことはすぐさま伝えてある。あとひと月あれば元親へ届き、そして元親が迎えに来ることは可能なはずだった。接岸する港も念入りに選んである。あとは元親次第だった。
 ―――そして毛利の意志と。
 政宗はその夜、毛利を喰らうかという勢いで抱いた。なにかおかしいと感じたのか、毛利は後始末の終わったあとに同じ布団に入って、事情を聞いてきた。政宗はしばらく毛利に背を向けたままだったが、やがてぼそりと、アンタの移送の日が決まった、と告げた。
 政宗の背後で息をのむ気配がした。
「・・・最上だとよ。よりによって。」
「・・・貴様の、母御の実家か・・・」
「あぁ。アンタ、絶対行かないほうがいいぜ?あの性悪女に苛め抜かれるのがオチだ、・・・いや、アンタならあいつとも張り合えるか?なんにせよ修羅場だ、絶対元親と一緒に行ったほうがいい。俺が保障するぜ」
 政宗はわざと声をあげて笑った。政宗、と背後から呼びかけられたが頑なに背を向けていた。
 政宗、とまた呼ばれた。
「―――なんだよ」
 ぶっきらぼうに言って、政宗はくるりと毛利のほうへ振り返った。そして目を瞠った。
 毛利の睫毛の長い、一重の両眸に、涙がたまっていた。政宗は思わず毛利を抱き寄せた。いつだ、とくぐもった声が訊く。ひと月後だ、と政宗は淡々と告げた―――つもりだったが、声は震えてみっともなく裏返った。また笑おうとしたが無理だった。元就、と政宗も呼んだ。何度も呼んだ。それしかできなかった。



 すべては静かに進行した。元親は連絡を寄越してきた。国境付近で毛利の移送の列を襲う手筈を小十郎は入念に整えた。万が一にも毛利を死なせるわけにはいかない。それは政宗の意志に反することだった。毛利を自由に、幸せにすることが主君の意志だと小十郎も、関わる側近たちも知っている。
 政宗は毛利と穏やかに過ごした。月に帰る姫君と暮らした翁嫗はこんな心持だったろうな、とふと言うと毛利は首を傾げて、我は姫でも天人でもないと真面目な顔で言った。喩えだろ、と政宗はからかうように言って笑った。―――密かに、天人に似ていると思ったがそれは口にしなかった。
 日輪の昇り沈むを数え数えて、最後の一日になったとき、毛利はあらためて政宗の前にいずまいを正して座り、頭を下げ、これまでのことを感謝すると丁寧に述べた。
 政宗は黙ってその儀礼的な言葉を聞いていたが、やがて近づいて毛利の貌を上げさせると人払いをした。そしてずっと前から決めていたことを告げた。
「いいか。俺はアンタを明日見送らない。日輪が昇ったら、俺はアンタの傍から離れる」
「―――」
 毛利は視線を伏せた。大神神話のようだな、と呟いた。朝になれば別の世界に生きる者になる。だから互いに口もきけなくなる。
 わかった、と毛利は頷いた。政宗も頷くと、だから、と毛利の顎を指先でつまんで顔を上げさせた。年上だと感じさせない清廉な面差しを見つめると、政宗は静かに息を吸った。
「いいか。・・・これから朝まで、此処にいる俺は奥州筆頭・伊達政宗じゃない。・・・ただの、アンタに執着してきた、ひとりの男だ。」
 毛利は瞬きをした。政宗は、不思議と落ち着いている自分を冷静に見つめられた。
 この言葉を伝えることを、何度願ってきただろう。
 言うときは別れるときだと、ずっと決めていたし、知っていた。できれば言わずにずっと一緒にいたかったと思う。



「―――アンタが好きだ。元就。誰よりも、好きだ。」



 応えを政宗は求めていなかった。だから毛利が咄嗟にその言葉を聞いて俯いてしまったときも、なにも思わなかった。ただ聴いてほしかった。
 なのに、答は還った。それは予測していないことだった。



「・・・我も、好きだ」



 政宗はぽかんと口を開けた。
 それから、毛利をゆっくり抱きしめた。俺たちはどうしようもなく間抜けだぜ、と低く笑った。あと数刻で知らない者同士になるというときに―――やっと言えた愚かしさと、そうしなければいけない自分たちを絡める枷を煩わしく哀しく思い、・・・けれどそれが叶ったことを素直に喜んでも、いる。
「好きだ」
 政宗は何度も言った。もしも次に別の命で、何処か別の場所で出会うことがあるなら、もっと最初から言えるように。この感覚を忘れないようにと、何度も告げた。そんなふうに考えていることを毛利に言うと、毛利は小さく笑って、首を横にふった。
「貴様は、きっと・・・何処で出会っても、最初から我に興味なぞ持つまい。嫌悪感は持つだろうが」
「そんなことねぇ。・・・元親みたいに、最初っからアンタと、俺だって小さい頃から知ってたら。アンタを必ず最初から見つけて、言う」
 毛利はまた笑った。寂しい笑みだった。政宗は意地になって、何度も毛利の耳元に囁いた。やがて朝が来るまで何千回でも、何万回でも。途切れれば、そこからは別の道を往くのだから。