誰かの願いが叶うころ





(5)


不興を買うのは承知の上で、と。その夜再度政宗の居室を訪れて、小十郎は諄々と説いた。
曰く、"毛利元就"は、あくまでも預かり物の人質である。伊達家はあの者にかかわらぬほうがよい。
そもそも政宗自身が理解していることだった。政宗は自ら毛利を"毒"だと例えたのである。そのことにも言及して、小十郎はほとんど懇願するごとく政宗に向かい合っているのだった。
「だいたいあんな小屋に押し込めておいて、そっちのがずっと問題だろうが。徳川にバレたら嫌味どころじゃすまねぇぜ?」
暢気に手の爪を切りながら政宗は言った。小十郎は反論した。
「現在郊外の廃寺を改築中です。新しく僧侶共も置き体裁を整えております。・・・近々移送する予定だったのです」
僧侶共、とはすなわち監視の者たちと同義なのだろう。僧兵の間違いだろ、と政宗は低く笑った。
「あの男もついでに出家させるつもりかよ?・・・ま、今も世捨て人の生活と然程違っちゃいねぇが。あのキレーな顔で剃髪させるのは勿体ねぇ、死んだことにしてどっかの男娼宿にでも売り飛ばしたほうがよっぽど有効利用―――」
「政宗様ッ!」
際どい冗談にさすがに小十郎が声を荒げる。政宗は、jokeだろうが、と言いながら首を竦めた。
「兎も角、寺の修繕が成ればそちらへ予定通り移送いたします。それまでは今の場所でいてもらうことになりますが」
「いいんじゃねぇのか。・・・そう俺も言ってるだろ?なんで俺はこんな夜更けまでお前に散々小言をもらわなきゃならねぇんだ」
「・・・貴方様が、あの者と二度と会わないとお約束してくだされば、小十郎ももはや何も申し上げませぬ」
それかよ、と政宗は苦笑した。それからじろりと小十郎を見上げるように睨んだ。
「何度も言わせるんじゃねぇよ。・・・俺は俺のやりたいようにする。あの男が俺にとって"毒"かどうかは俺が見極める」
「・・・劇薬に相違ありますまい。論議も無用」
小十郎は迷いもなく断定した。途端、政宗は舌打ちした。
「みろ。お前がぐだぐだ五月蠅いから深爪しちまった」
「・・・それは小十郎のせいではありませぬ」
「ちげぇねぇな」
政宗は笑っている。
ここまでの話を全く意に介されていないのだとわかって、小十郎は吐息をついた。政宗は鋏を小十郎の膝にぽんと置くと、その場にごろりと横たわり、片ひじで頭を支えて小十郎を見た。
「・・・何事もやってみなきゃわからねぇだろうが?なぁ小十郎」
「・・・政宗様の大義のために小十郎は申し上げているのです」
「・・・大義?」
「左様、・・・天下をまだ諦めていないと貴方は仰った。そのためには危険は排除すべきです」
「・・・小十郎はいつも正しいな」
政宗は仰向けにぱたりと転がった。
今頃あの小さな家に閉じ込められ、人形のようなあの男は一人で眠っているのだろうと思うと何処か胸の奥が絞られるような感覚が押し寄せた。生きているだけで危険と目され、厄介者扱いされる身の上である。恨んで悲しんでも仕方ないと思うが、けれど不思議と、出会って話したときにはそんなふうには政宗には感じられなかった。濁りのない気配と眼差しはすべてを諦めているとも取れ、またすべてを受け入れ達観しているとも受け取れた。
「十分だ」と言ったあの言葉は嘘ではないように思えたのである。
正直にそう小十郎に伝えると、小十郎は眼を剥いた。あの者のふたつ名をお忘れか、と。
「謀神と呼ばれた男です。涼しい顔で何を企んでいるやもしれませぬ。ゆめ御油断召されるな」
「・・・つまり、油断しなけりゃ俺があの男に会うのはいいってことだな?」
「―――そうは言っておりませぬ」
小十郎の渋面を見て、政宗は思わず笑った。
「I see,・・・せいぜい気をつけるさ。」
煩わしくなってきたので政宗は素直に返事だけは返しておいた。



(たとえ謀神でも・・・今更策を練ってなんになる?毛利は疲弊し徳川からの税の取り立てにもがいて息も絶え絶えだと聞いたが、・・・あの男が戻ったって、もうどうしようもない。戦火を巻き起こすとしたって味方してくれる者もいなけりゃ兵隊も軍備も何もかも取り上げられてる)
小十郎がやっと退出したあと、政宗はぼんやりと考えた。
(あんな世捨て人のようなさまでありながら、・・・まだしぶとく再起を図ってやがるのか?近づけば俺も利用されちまうのか?)
そうであれば、まさに「毒物」に違いなかった。素知らぬ顔で自分に毒を喰わせた母親のように?
政宗は、ふん、と鼻で哂った。
どうしてか、いつも母を思い出すときのような息苦しさは襲ってこなかった。
(面白いじゃねぇか、・・・あの男が俺を騙そうとしてるってんなら、俺が見極めてやる。騙されたなら俺もそこまでの男ってこった、・・・)
戦がなくなってこのかた、こういう、ぞくぞくするような駆け引きめいたものは無かった。俺は嬉しいのだろうかと政宗は考え、苦笑した。
(俺も、つくづくとギリギリのlineを歩くのが好きだな、・・・ま、性分だ、しょうがねぇ)
そしてそれ以上に、あの人物に純粋に興味がある自分にも、気付いている。
造り物のような無表情の面の下に、どんな感情を籠めて、彼はあの切り取られた空を見上げているのだろうかと。



翌日、政宗は早速に毛利の小さな“牢獄”を訪れた。
先日のことがあったせいか、表門は普段と変わらないが、毛利の離れへ移る隠し扉の前には監視の兵士がいて政宗を見ると少し困ったような顔をした。政宗はそれをまるっきり無視して、さっさと中へ入った。
毛利は今日は縁側にはおらず、奥の一間で小机に向かってきちんと背筋を伸ばして正座し、なにか書物を読んでいた。
「よう、―――」
呼びかけたはいいが、相手をどう呼べばいいかわからず政宗は一旦言葉を切った。毛利は声にゆっくりと振り返った。貴様か、と唇が動いた。
「何用ぞ」
「―――別に。俺が此処に来たくなっただけだ」
特別に名を呼ぶ必要もない、と政宗は気づいて肩を竦めた。毛利も政宗のことを「貴様」と呼ぶではないか。だったら俺も“アンタ”で十分だろう―――
何を読んでいるのかと背後から覗きこもうとすると、途端穏やかだった毛利の気配が変わった。ざっ、とまるで音がするかのごとく、毛利の背から殺気に似たものが立ち上ったのである。
政宗は咄嗟に腰の得物に手を置き身構えた。
毛利の体勢はまるで変わっていない。正座したまま政宗に背を向けている、―――が、横顔はちらりと政宗を睨み上げてくる。毛利を見下ろし、政宗はひゅうと思わず口笛を吹いた。
(成程、・・・確かに中国全土の支配者だっただけのことはある。簡単に背後を取らせちゃくれねぇわけだ、・・・)
「何用ぞ」
再度、毛利は訊いて、ぱたりと書物を閉じた。明の史書だった。政宗はひとつ息をついて、少し離れた場所に胡坐をかいた。
「気にするな。アンタは書を読みたいんだろ。続けろ」
「・・・変わった男だな。奥州統治の務めはさほどに暇か、それとも主君が必要ないほどに家臣が優れているのか?」
淡々と、明らかに皮肉を言われて政宗は鼻白んだが、黙って毛利の顔を見つめる。毛利はじっと政宗を見返していたが、やがて言われたとおりに書物を再び開き、読み始めた。



政宗がまるでこの場にいないかのように、毛利はほとんど同じ体勢で書物を読みつづけた。政宗はと言えば、何度も体勢を変え、話しかけたいのを辛抱強く耐えた。長い時間が過ぎて行くのを、政宗は小さな庭にある白樫の木の梢の影が畳の上を移動していくのを目で追って確かめていた。日が翳り部屋の内部が暗くなって、ようやく毛利は書物を閉じると立ちあがった。欠伸をかみ殺していた政宗は慌てて彼を目で追った。灯りを取りに行ったのか、と思ったが、毛利はそのまま縁先に出て、先日と同じ位置に座ると沈みかけた橙色に滲む日輪に丁寧に手を合わせ、瞼を閉じた。
暫くの間、そうやって彼は何事かを祈っていた。
祈りが終わって中へ彼が戻ってきたとき、政宗はようやく声をかけた。
「なにを祈った?自由か?中国への復帰か?」
毛利は別段驚いたふうもなく、政宗を見遣ると、なにも、と言った。
「なにも?」
「習慣だ。念仏を唱えておった」
「・・・念仏?アンタが?神やほとけを信じているのか」
「別に」
素っ気ない返答しかかえってはこない。政宗はだんだん腹立たしくなってきた。俺は丸半日をこんな場所で何して過ごしてるんだ、と考えた。彼に興味があるのは間違いない、・・・何故かはわからない。それを分析するために此処に来たようなものだった。今日分かったことはこの男が政宗にとってはどうやらつまらない人物らしいということだけだった。母親に似ているかどうかはかえってはっきりとはわからない、・・・
政宗は、勢いよく立ちあがると足音も荒く“入口”へと戻った。この小さな隔離された空間と、政宗のいるべき場所を隔てる穴をくぐるとき、ちらりと昨日のように肩越しに毛利を見た。ひとりぽつんと部屋の真ん中に座って、灯した明りを見つめる毛利の横顔はやはり空恐ろしいほどに澄んでいて、政宗は焦った。彼はもはやこの世にいない者ではないか、と―――
「・・・どうした、独眼竜」
ふと声がかかった。いつまでも出ていかない政宗を訝ったらしい。
政宗は少し躊躇したが、口を開いた。
「欲しいものはあるか」
毛利は、ほんの少し目を見開いたようだった。控えめな声が、書物を、とだけ告げた。政宗は頷いた。



さらに翌日、政宗は大量の書物を部下に運ばせた。毛利は丁寧に礼を述べた。その日も政宗は黙って毛利を見続け、毛利は本を読みつづけた。夕陽が傾く頃の祈りが終わりの合図だった。
翌日も、さらに翌日も、毎日政宗は毛利を訪れた。
何日か後、雨が降った。政宗は少し悩んだが、やはり毛利を訪れた。重く湿った空気の中で毛利は今日は書物を読んでいなかった。かわりに碁盤を出して一人で碁をうっていた。政宗が来たのを見遣ったが、いつもどおりすぐ目を伏せた。政宗はどかりと毛利に対峙する位置に座った。
「相手してやる」
尊大に言えば、毛利はなんともいえない表情で口元を歪めた。そしていつかのように小さく笑った。政宗は瞬きをして見入った・・・
「我は強い。貴様、負けて泣きごとを言うても知らぬぞ」
初めてかわした、“普通の”会話だった。政宗は酷く驚き身を固くしたが、表情には出さず、俺だって強いぜ、とだけ言って白(通常、上手が持つ)を持った。毛利はまた可笑しそうに口角を引き上げた。



さて戦の結果は政宗にとって最悪だった。政宗は何度も髪をかきむしり、そして口の中で文句を言った。毛利は涼しい顔である。
結局投了して勝負は終わり、政宗は子供のようにがしゃがしゃと乱暴に碁石を碁笥に片付けると、やってられるかよと言いながら立ちあがった。毛利は何も言わない。
政宗がいつものように潜り戸の前で一旦立ち止まって振り返ったとき、毛利の視線が自分に注がれているのを見て政宗は驚いた。もう帰るか、と言葉すら投げられて、政宗はさらに驚愕した。
初めてのことだ。
刻限を告げる鐘が遠くから響く。まだ日の入り前である。しかし暗く翳る室内に気づいて、政宗は眉を顰めた。今日は太陽が厚い雲に覆われているのだった。まるで毛利は日に焦がれ雨の中うなだれている花のように見えた。
「・・・寂しいかよ?」
何処か冷たく、政宗は問うた。
毛利は、否定しなかった。表情にはなんの感慨も浮かんでいなかったが、ただ空を見上げて、呟いた。
「・・・今日は日輪が見えぬゆえ」
政宗は溜息をついた。此処にいるのは誰だった?と心のうちで己に問い返す。ここ数日何度も考えたことだ、・・・何故毛利の元へ通うのか。
監視のためか。いなくなった母親の身代わりとして復讐するためか。中国を支配した技を盗むためか。腹のうちで何を企んでいるかわからない男の本性を暴くためか?・・・
近づきすぎるな、と小十郎には何度も言われている。ゆくゆくは何処か他の藩へと彼は送られるだろう。徳川が外様の藩の忠誠を試すための道具にされていることは間違いなかった。その途中で毛利が死んでも、誰も気付かず、悲しまず、そのとき彼を預かっていた藩が咎めをうけて徳川から苛めぬかれるだけのことだ。
「・・・明日は晴れるぜ」
政宗はそんなふうに言っていた。毛利が首を傾げた。何故そんなことがわかる?と言いたそうだった。政宗はにやりと笑った。
「俺がそう決めたからさ。・・・俺を誰だと思ってやがる?俺は竜だ。天道だって従わせてみせるぜ」
毛利は、じっと政宗を見つめていたが、またあの微笑を浮かべた。
政宗は嬉しく思った。