誰かの願いが叶うころ





(6)


翌朝は絵に描いたような快晴だった。
政宗は上機嫌で馬を引き出した。小姓が慌てて、どちらへお出かけですかと問う。政宗は素知らぬ顔で、例の小十郎の邸へ、と言った。
その言葉で毛利の人質の場所だとすぐ理解した小姓は、けれど普段は黙って従うのが今日は驚いている。このような早朝からですか、と。確かにこれまでは毛利のいる場所へ、日輪が中天を越えてからしか訪れたことはなかったのだと政宗は言われて気付いた。
「ともあれ片倉殿に・・・」
政宗は眉を顰めた。
「んなこと、いちいち小十郎に言わなくてもいいだろ。どうせわかってるだろうぜ。俺があの男をあの場所から出すってんなら知らせる必要もあるだろうが―――」
そこまで言って、政宗はふと自分の思いつきに顔を綻ばせた。it's nice idea,と呟くとぱっと顔をあげた。
幸いにも今日は一日大した所用は無い。午後からの予定は然程重要ではない、後日に回しても大丈夫だろう・・・
「おい、小十郎に言っとけ。今日はあの男と遠駆けに行ってくる、ってな!」
小姓の狼狽えた表情を視界の端から追い出して、政宗は愛馬に跨った。
「心配すんな。・・・逃げ出されるようなヘマはやらかさねぇよ」



毛利は朝から訪れた政宗に多少驚いたらしかった。これまでになく一重の双眸を見開いている。政宗は二重の意味で得意げに笑った。
「どうだ?晴れたろ?」
「―――あぁ、」
腑に落ちた表情をしてから、毛利は少し呆れたように小さく俯いた。政宗は、なんだよ不満かよ、とじろりと睨んだ。
「別に。斯様なことを言いに、わざわざ早朝から此処へ参ったのかと」
「あぁ、そうさ。十分な理由だろ」
別段怒りもせず政宗は毛利に近づいた。今日もいつもと同じように小卓の前できちんと正座して書物を読んでいる"人質"の青年を政宗は立ったまま見下ろした。読んでいるものは先日政宗が大量に運ばせた書物のうちのひとつだったので、政宗はそのことも少し嬉しくなった。することがほかにないからそうしているにしても、与えたものが有効活用されているのを知るのは悪くない気分だった。
政宗は腕を伸ばすと、毛利の左手首をなにげないしぐさで掴んだ。ぱっ、と案の定、振り払われる。それから凄みのこもった眼差しが睨み上げてきた。
「何をする」
「・・・細いな。陽にろくにあたらずこんなとこで本ばっか読んで、体も動かしてねぇからだ」
掴んだ手首の感覚が残る掌を握ったり閉じたりしながら見つめ、政宗は少し大仰にそう言った。毛利は書物に目を落としたまま口を開いた。
「願ったりであろう。我が痩せ衰えていけば逃げ出すことも叶わぬ」
「・・・それで毎回食事をちょっとずつ残すのか?アンタは?」
それは最近賄いの者から聞き出した事実だった。想像していたとおりのことを今目の前で毛利が言ったので、政宗はふうんと言った。が、納得しきれない空気を感じたのだろう、毛利はちらりと視線を政宗のほうへ投げた。
「なんだ」
「・・・いや?謀神と呼ばれた男が、あっさり逃げ出すことも諦めるとは俺には思えないってだけさ。・・・抵抗いたしませんって振りして、腹の中で何か企んでやがるかもしれねぇだろ?」
それを聞いて、毛利は顔を政宗のほうへ向けると、可笑しそうに口元を歪めた。
「貴様はなかなか面白い」
「そうか?」
「我に気を許しているかのようなそぶりを見せ、かと思うと今のようなことを平然と言う。貴様のほうこそ腹が読めぬわ、・・・この我が」
「へぇ、そうかい。そりゃ盛大な褒め言葉だな、受けとっとくぜ」
「別に褒めておらぬ。・・・強いて言えば、評判通りの男だと」
「・・・どんな評判だ」
「奇天烈で気まぐれで大うつけだと聞いておった」
さばさばと酷いことを毛利は言った。
政宗はそれを聞くとひとしきり笑った。変わり者で好き嫌いが激しく、情緒不安定なのはとっくに自分でわかっていることだ。今更腹をたてることでもない。
政宗は再度毛利の手首を握った。今度は振り払われなかった。ただ探るような視線で見つめられる。すました顔で、政宗は毛利を立ちあがらせた。並んで立つとやはり政宗よりだいぶ小柄だった。
「外、行くぜ」
「―――貴様は、阿呆か?」
真顔でそう返された。至極当然の反応だろう。毛利は人質なのである。だから此処に監視つきで閉じ込められているというのに。
政宗はまるっきり無視すると、持ってきた革と金属でできた手枷を毛利の左腕にはめた。毛利の表情が少し歪んだが、黙って毛利は抵抗せず、右手も差し出そうとした。
政宗はそのまま、毛利の手枷から伸びた鎖の先にあるもう片方を、自分の右手に嵌めた。
「・・・なんのつもりだ?」
右手を宙に上げたまま、毛利は呆けたような声を出した。政宗は応えず、先にたって歩き出す。そこそこの長さのある鎖をぐいと引くと、毛利は足をもつれさせながら踏み出した。よし、と満足そうに政宗は頷いた。毛利はかっと目元を染めた。
「なんの真似だ、これは」
「逃げ出さないようにしてるんだろうが。伊達の当主が直々につないで引いてやってるんだ、感謝しろよ」
「・・・誰が、貴様と外に出るのを承諾したか!これを外せ!!」
毛利は初めて声を荒げた。政宗は、ひゅうと口笛を吹いた。いい顔だな、と覗きこんで顎を掴むと、毛利は唇を噛みしめた。
「昨日言ったろ、俺は俺の思ったとおりにするし、させる。なんでも、誰に対しても、だ。・・・アンタもさっき言ったじゃねぇか、俺は奇天烈気まぐれの大うつけだって」
「・・・ッ」
「人質をつきあわせて遠駆けに行ったって、今更誰も驚きゃしねぇよ、俺は"伊達政宗"だからな。当然、人質のアンタに断る自由は無い」
豪快に笑って、政宗は鎖を引いた。毛利はもう何も言わなかった。



召使たちが狼狽し、ともあれ片倉様が来られるまでお待ちくださいと懇願するのを、政宗は強引に押し切って愛馬に毛利と二人で跨った。
そのまま少し郊外へ駆けた。見渡す限り農地が広がる。奥州の冬は長いため、開墾できる限りはさせてきた政宗の統治のためだった。戦乱の影響も農地の確保のできたためさほど出ず、飢える領民が減ったのは政宗には自慢だった。
つらつらとそんなことを政宗は一人馬上で話し続けた。毛利は真っ直ぐ前を向いたまま何も言わない。さらさらと風に流れるまっすぐな髪の後頭部を目の前に見つめながら、政宗は気の向いたまま話し、黙り、口笛を吹き、ときに鼻歌を歌った。毛利からは一切の反応は無かった。
やがて辺りを一望できる僅かに小高い丘へ登り、政宗はそこで馬をおりた。手近の百日紅の巨木に手綱をつなぐ。その間も、政宗に繋がれたままの毛利は黙って政宗の隣に立っていた。竹筒の水を飲み、毛利にも渡すと抵抗なくそれを受け取り小柄な男は飲んだ。
「久しぶりに外に出て風に当たって疲れたかよ」
政宗は訊いた。応えは無かったが、政宗も期待していないのである。だから返答がなくとも気にならない・・・
「貴様は、やはり変わり者だな」
唐突にそんな言葉が降ってきた。
政宗は驚いて少し離れた隣に立つ毛利を見た。鎖の距離ぎりぎりの位置に立って、毛利は空を見上げていた。
「我になんの応えも期待しておらぬくせに、問い掛けだけは投げてきやる。・・・ならば人形か、飼い犬か猿相手に喋っておればよいものを。わざわざこんな手間の掛る生きた人形相手にせずとも」
政宗は苦笑した。この男もだいぶ変わり者だろうと思ったのである。
「アンタもだろ。自分が俺に人形がわりにされてるとわかってるあたりがな。俺の思考がわかるのは、頭がいいってだけじゃねぇぜ、同族だ」
「・・・同族嫌悪、か」
毛利は呟いた。
政宗は肩を竦め、続けた。
「ま、いいじゃねぇか。・・・俺は、アンタに興味がある。それは間違いない。なんで興味があるのかは俺にもよくわからないが・・・いや、違うな」
何故興味があるかと言えば、切欠は母親に似ていたからだろう。
あとは、今の伊達を凌ぐ大大名だった相手が、どういう心理状態にいるのか。今後どうなるのか。何を考えているのか。興味は尽きない。
ただ、もっとも毛利という男について「知りたい」と自分が思っていることが何なのかは、政宗には判然としない。
もしかしたらこの興味は、新しい玩具が与えられたときの子供と同じかもしれない、と政宗は考えてみたりもする。そうとすれば、明日には唐突に放り出し、それきり顧みることもないのかもしれなかった。けれど、興味がなくなるまでは、飽きるまでは、きっとこのままこうやって手元に置いてぼろぼろになるまで関わるに違いなかった。そうとも、―――飽きてしまえば、壊れてしまえば、目の届かないところに捨てればいいだけの話だった。
(・・・あの女のように?)
自分に引き映された母親の相貌を思い出して、政宗は小さく舌打ちした。外見という意味ではよほど政宗自身のほうが、毛利よりもずっと、"あの女"に似ているのだった。身勝手で刹那的な性格もきっとそうだ。まさに同族嫌悪だな、と思う。
ふいに、先程毛利が呟いた言葉が同じだったことに気付いた。
(・・・どうやら、すでに嫌われてるってか?俺は、この男に?)
成程、と政宗は奇妙に納得した。
興味が湧くのも、気まぐれに突き放したり冷たいことを言ったり優しくしたりしたくなるのも、欲しいものを与えてみる一方で人形だと言い放ってみたりするのも。きっと政宗自身が、この男に、母親だけでなく自分と似ている部分をいくつも見ているからなのだろう。かみ合えば哀れに思う。反発すれば邪険にしたくなる。
(・・・いっそ、俺が興味をまったく持たないほうが、この男にとっちゃ幸せだったのかもな・・・)
政宗はふいに胸のうちにせりあがってきた暗雲のようなものを抑えようと、ゆっくり何度も呼吸した。
執着するものは天下だけのはずだった。父親を撃ち殺し、弟を殺し、母親を追いだしたときにそう誓った。天下は掴めないまま、強大な国の主君として傍目には安定していながら、その実いつも波乱を求めているのかもしれなかった。波乱があれば、政宗は自分が輝けることを知っている。
一番手に入れたかったものは、きっと天下でもなく、国の安定でもなく、自分を見てくれている何かだったかもしれない。小十郎をはじめとする政宗の大事な家臣たちは、その期待に立派に応えてくれるし、何も不満はない。
でも、そうではなく。・・・
(俺は、やっぱり、浅ましい。・・・あの女が俺の記憶に残らないくらいガキの頃にいなくなってれば、俺はもっと―――手に入らないものに、いつまでも捉われたりせずにいられたんだ)
「・・・どうしたのだ」
ふいに声がかかった。政宗ははっと声のほうへ顔を向けた、・・・毛利がこちらを覗っている。顔色が悪い、と言われた。心底心配しているのか、事実を述べただけなのか。
「・・・俺の顔色が悪いと、嬉しいか?」
すでに政宗は、自分が誰に話しかけているのかわからなくなっていた。



毛利は訝しげに眉を顰めた。政宗は乾いた笑いを零した。
「アンタ、俺が嫌いなんだろ。・・・嫌いなのに、なんでそういうふうに?」
「・・・なんの話だ?」
「同族嫌悪っつっただろうが、今」
徐々に声色が低くなる。
毛利は、何も言い返さない。そのことが肯定のように思えて、政宗はまずいと思いながら、自分の感情を制御できなくなる過程に焦った。そうやって冷静に自分を見ている自分もいるのに、一方で止められない自分もいる。
「身勝手で、気まぐれで、変わり者で、大うつけの・・・なのに東軍についたってだけで勝ってアンタをこうして繋いでるんだ。そりゃ嫌いだろうな―――」
小さな溜息が聴こえた。政宗は毛利を見た。
毛利は真っ直ぐに政宗を見ていた。冷たい、どこか突き放すような眼だった。
「・・・貴様はやはりわからぬ男よな。竜と呼ばれながら、時折つまらぬことに汲々と沈んでいやる。・・・あまり油断すると、貴様のその六爪のうちひとつが欠けても気づかぬぞ」
それから、造り物のような貌が薄く笑った。誰かの顔に似ていた・・・
「・・・五月蠅ぇよ」



足元が短い雑草の原でよかったことだ、と政宗は奇妙なところで冷静に考えた。
殴り倒したのか、ただ圧し掛かり押し倒しただけなのかよく覚えていない。気付いたときには毛利の華奢な体を大地に組み敷いていた。
「何もかも失くしたから、今更何言っても怖いものはないってか。アンタを粗末に扱えば伊達の立場が悪くなると?・・・フン、馬鹿馬鹿しいこった!そんなわきゃねぇだろうがよ」
中央から疎んじられ監視されているのは、毛利も伊達も然程変わらないのだった。勝者の側にいたか、敗者の側にいたかというだけの違いで―――この青年は何もかも失くした。でも毛利の国はかろうじて存在を許されている。だとすれば、政宗と違うのは、・・・この青年本人の存在を、誰も認めず、けれど矛盾して生かされていることだった。存在を否定されるのがどれほどに辛いか政宗は実のところ知っていた。
母親に似ているのではなく、政宗はこの細身の、名前だけが大きく圧し掛かる青年に、自分を引き比べて見ているのかもしれなかった。彼が自分を嫌うなら、自分も当然彼を嫌いに違いなかった。何もかも失くしたくせに涼しい貌で、堂々と正論を吐く、政宗を真っ直ぐに見据えて。その態度も何もかも気に入らない。
自分の中で、これまでで最悪の"気まぐれ"だったな、と政宗は後悔した。どうしてふたりきりで、誰の目も届かない場所に来てしまったのだろう。小十郎が一番最初に心配していたではないか。あのとき、二度とこの男に会わないと言った、ほんとうにそう思っていた。
(きっと、こうなると俺は知っていたんだろう)
腰の六爪へ手をかけた。毛利は少し身動ぎした。我を斬るか、と呟いた。
政宗は片頬だけで笑っていた。そんなはずないだろ、大事な人質なんだぜアンタは。言いながら六爪をひょいと自分の背後に投げた。がしゃんと耳障りな音がして毛利は眉宇を顰めた。
「斬るのは、アンタの矜持だ」



政宗は右手で、繋がっている毛利の左手を抑えつけ、左手をその衿元を強引に開くように差し込んだ。―――何が起こるのか理解したのだろう、毛利は目を見開くや、右手で政宗の顔面を殴った。政宗は一瞬怯んだが、小さく笑った。
「力ねぇのな、アンタ。・・・食ってねぇからか?」
痩せた腕は非力で、毛利がどれだけ殴っても政宗は意にも介さなかった。その合間に袷を肌蹴け、袴の紐を解き、脱がせていく。ぱらりと一片、百日紅の花弁が降ってきて毛利の唇に紅を刷くように落ちた。政宗は左手も毛利の、なおも殴りかかる右手を抑えつけ、力いっぱい彼の肌蹴て顕わになった胸と自分の胸元を合わせた。確かに心臓の音が響いて、人形ではないつくりものではないことに安堵した。
そのまま花弁ごと喰らうごとく、政宗は毛利の唇に噛みついた。抵抗して口は開かない、鎖に繋がれた左手で無理やりに顎を掴んで開けさせる。差し込んだ舌の感じる生温かい口内にぐらぐらと意識が揺れた。毛利の右手を背中側に回させて体ごと押さえつけると、両脚の付け根へ自由になった左手を伸ばした。すでに空気に曝されている肌に触れると毛利が、やめろ、と唇の隙間から声をあげた。
政宗は無視した。
なおも毛利の声がつながった口元から響く。こんなことをしてなんになる、と告げていた。別になんもねぇよ、と政宗は返した。気まぐれなんだ、俺は。
「アンタを外に連れ出したのも、こうやって抱こうと思ったのも、全部気分だ。気にすんな」
「―――伊達、」
初めて本姓を呼ばれて、少し政宗は怯んだ。それからにやりと笑った。
「なんだ、毛利の?」
所詮は家の名前である。これは戦だと思えばいいのだ。国同士の・・・すでに滅びかけた国を大国が気まぐれに蹂躙している・・・
「やめてくれ」
「・・・嫌だね。降伏は受け付けねぇよ、・・・俺が、こうしたいんだから」
唇を離してそう言えば、政宗の目の前で毛利は初めて口元を歪め、視線を逸らした。可哀相に、と政宗は心底思った。
でも、止められない。
左手はするりと毛利の分身を掴み、きつく握りしめた。毛利はきつく目を閉じた。可哀相に、とこころのうちに呟きながら、政宗は再び毛利の唇に噛みついた。今度はどうしてか、抵抗はひとつもなく、・・・むしろ政宗に応えてくる少し小さめの舌を政宗はふと愛おしいと思った。