誰かの願いが叶うころ





(8)


小十郎が同じことを政宗に告げたのは、もう何度目になるのか。
政宗は黙って俯き、己の掌をじっと見つめていた。
「手に入らないものに執着する」のは、・・・政宗の持つ持病のようなものかもしれない。手に入らないというよりは、手に入れない、近寄らないほうがよいもの、というべきものかもしれなかった。
(・・・結局、あの男も、俺にとっちゃ"毒"か?)
少なくとも小十郎はそう判断したに違いなかった。
「・・・OK、わかったぜ」
政宗はゆっくりと息を吐き出してぽつりと呟いた。小十郎は、ずっと下げたままだった顔を上げた。その顔が心底安堵していて、政宗はこの兄のような家臣の、自分への優しさを思わずにいられない。



小十郎が退室してから、政宗はぼんやりと散らかった小卓の上の書面を眺めていた。
外からは相変わらず雨音が響いてくる。このぶんだと明日はまた雨だろう。あの小柄な青年はまた朝から晴れない空を眺めて一日を寂しく過ごすのだろうか、と考えた。
「・・・執着、か」
自分でも気づいていなかったが、確かにそうらしい、と政宗は小さく笑った。
雨音に混じる、蔀戸の隙間から吹き込む隙間風の音が、昼間抱いた毛利の雑音めいた呼吸に少し似ていて、政宗は自分が彼にしたことをひとつひとつ思いだして項垂れた。権力に取り憑かれた母と似ている。自分とも似ている。だから憎らしい。一方で何もかもなくしたままそれでも生きる・・・敵に利用されながら・・・その状況すら飲み込んで何も求めない彼は、自分などよりよほど美しいと思う。
「・・・もうちっと、ゆっくり話がしたかっただけなんだがなァ」
独り言ちて、政宗は苦笑した。
嘲り、蹂躙し踏みつけて、少しだけ優しくして、気まぐれに話をして、あげくに汚した。毛利はきっと政宗に呆れ、憎らしく思っているだろう。二度と会わないほうが平穏な日を過ごせるに違いなかった。
ふと、犯した線の細い肢体を思い出した。つくりもののような綺麗な面、兵を死地に送り込みつづけてきた白い手。絶対の主君として君臨して巨大な国の大地を踏みしめていたはずの脚はもっと細く、あんな体で本当に全部を背負っていたのだろうか、彼は本物なのだろうかと疑わしく思った。ただ無理矢理に繋がった彼の内部の熱さと、一言漏らした「殺せ」という言葉だけが、彼が生きている証のようだった。
そしてあんな状況で互いに互いの体温を感じ、喰らい、交わった事実は思い起こすほどに政宗をさらに不思議な感覚に引き摺りこんだ。怒りと憎しみと捉えようのないぐしゃぐしゃに混ざった心で抱いたはずが、あの時間、政宗は確かに彼を心の何処かで愛おしいと思っていた、毛利も―――政宗を矛盾した心の隙間で受け入れようとしていたように思う(思いたい)。
「・・・あぁ、あいつが、・・・影武者かなんかだったらいいのに!」
政宗は呟いて、大きな溜息をついた。たとえ偽の毛利元就だとしても、政宗があの人物に捉われかけていることは違いなく、小十郎はやはり決して彼に近づくことを許さないだろう。



しばらく、毛利が来る前の"普通の"日常が続いた。政宗はまるで何事もなかったかのように日々を伊達の主君として粛々と過ごした。
小十郎は安心しているようだった。きっと家臣たちも。
幾日かたったとき、あの者は無事に寺へ移送しました、と小十郎が告げた。政宗は黙って頷いた。けれど、以前のようにそのままにはしなかった。
「何処の寺だ」
小十郎は眉を顰めた。じっと政宗を見つめていたが、家臣の何某という者の実家の寺であるということを教えてくれた。そうか、と政宗は言って、ちゃんと世話してやれよ、と念押しするように言った。小十郎は、当然で御座います、とそこは真摯に言って軽く頭を下げた。
「あいつ、本が好きだから、足りなくなったらあてがってやれ」
思わずそんなふうに言って、政宗は自分で驚いた。小十郎も驚いたのだろう、少し目を見開き政宗を見つめていたが、やがて軽く咳払いをした。
「左様で御座いますか。・・・わかり申した、世話役の者に伝えておきます」
政宗は頷いた。その話は其処で終いになった。



数日後、毛利の世話役をしている家臣と別件で話す機会があった。政宗はそれとなく毛利の様子を聞いた。家臣は、毛利が早朝起き出して日輪に礼拝し、日中は読書と囲碁などで過ごし、夕刻はまた日輪に拝礼している―――という話をした。全然変わってねぇな、と政宗は苦笑した。
すると家臣は思い出したように、書物については、殿に感謝しているとおっしゃっておられました、と話した。
政宗はさして興味もなさそうな表情で頷いた。その後は他の話題に変わって、やがて家臣は退席し、政宗は一人になった。
「・・・感謝、ねぇ?」
政宗はしばらくぼんやりと毛利からの"伝言"を考えていた。もしかしたら毛利が言ったわけではなく、家臣が気を利かせて考えただけのことかもしれない。・・・
政宗はふと、小卓の上を探った。先日高徳の僧侶から読むようにと授けられた小難しい書籍があったのを思い出したのである。嫌々ながら読み終えたが、哲学書に近いそれは現実的な政宗には甚だ胡散臭いものとしか思えず、当然面白みはなかった。
政宗は筆を取ると墨を穂先に含ませた。手元の紙を取る。「謹啓、―――」そこで手が止まる。毛利に手紙をしたためようとしているのだった。
政宗は誰かに手紙を書くのはそれなりに好きで手慣れていたが、普段に比べるとかなりの時間を費やした。よもや誰かに見つからないとも限らず、差し障りのないことしか書けないことは理解していた。だから主にこの小難しい書籍について書いた。どうにも言っていることがわからない、という半ば愚痴めいたものになったがよしとした。まとまらないまま書いたせいか、追伸が二本になったが、それもよしとした。
乾くのを待って適当に折りたたむと、先程の書籍の間に挟んだ。自分のやろうとしていることになんとなく面映ゆい気分が起こったが、まぁいいさ、と軽く頭を振った。
先程の家臣を呼びつけると、本を手渡した。
「毛利に渡してくれ。俺はもう読み終えたから。・・・あぁ、借り物だから、読み終えたら返すように言っといてくれよ」



数日後、毛利から書籍が戻ってきた。件の家臣から渡されて、政宗は真面目な顔でそれを受け取った。
一人になってからそっと中身を確認すると、果たして先日のように紙が一枚、挟まっている。政宗の杜撰な折りたたみ方ではなく、角まできちんと合わさった丁寧な折り方から、毛利からのものだとわかって政宗は思わず一度、ぱたんと書籍を閉じた。
それから髪をかきまぜると、おもむろに再度開いて、紙を引き出した。開いてみると几帳面な小さめの文字が佇んでいた。内容は先日の政宗の手紙に対する返事で、それ以上でもそれ以下でもなかった。書籍の内容を控えめに引用して噛み砕いて説明を添えてあって、政宗はその博識に妙に感心した。
二枚目の最後に花押があり、さらにもう一枚ある。追伸であった。先日のことでも非難されるかと一瞬政宗は身構えた。しかし。
"そもそも借りたものを他者へさらに貸すはよろしくない。先方へ詫びておくこと"
"追伸はひとつにまとめたほうが読み易くよろしい。以後気をつけること"
「・・・・・・」
律儀で四角四面な言葉がわざわざ書いてあって、政宗は読んで呆気にとられた。
ふいに笑いがこみ上げた。必死に堪えたが、やがて我慢しきれなくなって声をあげて笑った。
毛利は、政宗の理解を越えて―――実に面白い、と思えたのである。根っから真面目なのか、ただの虚勢なのかわからないが、一貫して毛利は毛利なのだ、と政宗は思った。礼儀としての返答ならばこんなことは書いてこないだろう。人質の身分でありながら・・・しかも、先日手酷い真似をされたはずの相手に、である。
(・・・こりゃあ、・・・興味を持つなと言うほうが無理だぜ!)
誰もいなくてよかった、と思いながら、しばらく政宗は笑いつづけた。



それから時々、政宗は書籍を読んでは、それを毛利に届けた。毎回短い手紙をつけた。毛利からは、政宗の送った量に見合った分量だけ返信が来た。内容も政宗の書いたものにたいする返答だけで素っ気ないものばかりだったが、行間から毛利の性格が垣間見えるようで、政宗は眺めていると、本人に相対しているときより不思議と穏やかな気分になれた。話すとどうしても諸々の現実を揺さぶられ腹立たしくなるが、こうやって文字だけでやりとりを交わすのは一枚薄い膜を隔てているようで掴みどころがなく、・・・同時にその掴めない希薄な感覚が苛烈な者同士にはちょうどよかった。
むかし公家たちの王朝のころ、文のやり取りを男女で行うのが恋愛の手順だったと聞いたのをふと思い出して、政宗は苦笑した。これはそろそろ妻訪い(つまどい)に行くべきか(毛利の顔を見に行ってみたい)、と莫迦なことを考えてみるが、言わずもがなそれは禁止されている。なにより、すでに無理矢理手籠めにした相手である。小十郎はこの事実を知ってか知らずか何も言わなかったが、もしも本当にこれが誰かとの色恋沙汰だったならば順番がまるで逆だと呆れかえったことだろう。
政宗は返事を待っている自分に気づいて肩を竦める。
「・・・あぁ、馬鹿らしいままごとだぜ・・・」
口に出してはそう言うが、相手に興味の尽きるか尽きないかは政宗自身にも操作のできない感情で、どうしようもなかった。



何度目かの書物を(書簡を)政宗が送った後、毛利からしばらく沙汰はなかった。
これまでならば長くとも五日から七日で返ってきていたものが、である。二週間経ったとき、政宗はさすがに何かあったのではないかと柄にもなく心配になった。なんと言っても彼は徳川からの預かり物である。問題が起こるのはまずい、・・・
世話役の家臣にさりげなく問えば、果たして家臣は言った。
「毛利殿はお風邪を召されて此処数日伏せっておられます」
「―――風邪?毒を盛られたとかじゃなくってか」
さらりと物騒なことを言う主君に、家臣は困った顔をした。毒見役もおりますゆえその点大丈夫で御座います、と畏まって言った。この若い主君は、何処が怒りの沸点か長い付き合いの家臣たちにもまだまだわからない部分があり、政宗が荒れた口調になったときは家臣からの言葉選びは細心の注意が必要なのだった。
幸いにも政宗は激昂しなかった。ただ、そうか、とぼそりと呟くと、仕草でもう行っていいと告げた。家臣は平伏して退室した。
「・・・風邪ねぇ?あの男が?」
政宗は珍しいものを見たかのようなことを呟いた。体調くらい壊すこともあるだろうとは思う、けれど、以前政宗が無理強いして犯したすぐ後こそぐったりしていたが、その後は世話役や小十郎によれば平然と起き出して普段通りに過ごしていたと聞いていたのである。線は細いが丈夫なのだ(こころはいざ知らず)、だからこそ上に立って大軍を指揮できたのだろうとひとり納得していた。
それが、なにもないのに風邪をあの男がひくというのは政宗は納得いかなかった。
見舞いに行こうか、と考えた。
それから、小十郎に会うのは止められているのだ、と思いだした。政宗は脇息に凭れかかって前髪をかきあげかきあげ、今更なことを考えた。
(・・・なんで、俺は、あの男に会っちゃいけねぇんだったっけ?)
所詮は手に入らないものだから?関わってなにかことが起これば伊達家が危険だから?政宗の精神があの男と一緒にいると不安定になるから?・・・
どれもこれも、くだらないことのように思える・・・
「―――shit!ああ、やってられっか!!俺は―――」
やりたいようにやってやる、と呟いて、政宗は表に出た。



外は嵐の前触れのように黒雲が立ち込めていた。政宗は厩舎へ行くと愛馬を引き出した。厩番が驚いて、これから空模様は大荒れになります、危険ですと止めたが政宗は平然と「それっくらい知ってるぜ」と言ってのけて馬に跨った。
「どちらへ―――」
「さてな」
政宗はにやりと笑うと、馬の腹を蹴った。あっという間に屋敷は背後に小さくなる。城下町を抜けて郊外へ駆ける。途中で大粒の雨が降り出したが構わず手綱を握り馬に鞭をあてた。
目当ての寺の総門に近づくと、僧兵たちが政宗と気付いて身構えた。
「おい、主君に対してその態度はなんだ」
傲慢に言ってのけたが、僧兵たちは得物構えたままである。片倉殿から殿を中へ入れないよう言い遣っておりますと一人が告げた。政宗はふんと鼻で哂った。
「ああ、そうかよ。―――じゃあ勝手にさせてもらうぜ」
政宗は総門の前からくるりと馬首を翻した。僧兵たちは政宗が諦めて帰ったのと思ったのか追ってこない。そのまま寺の塀沿いに門の裏手へまわり、少し離れた場所に位置すると、政宗はいきなり猛烈な速さで馬を白壁に向かって突進させた。蹄の音に気付いたのかひとり、僧侶が顔を裏門から出していたのだが、ぶつかると思ったのか悲鳴を上げた。
―――瞬間、ふわりと政宗の乗った馬は宙に巨体を浮かせ、軽々と塀を飛び越えた。降りたさきは清楚に設えられた庭苑だったが、馬の落下の勢いにいくつかの樹木が折れた。政宗は荒っぽい所業を無理強いされて湯気をたてている馬の首筋を軽く叩いた。
「よし、よし―――よくやったぜ」
視線を上げると、目の前は僧侶たちの居住用の建物らしかった。騒ぎを聞きつけて足音が近づくが、政宗は悠々と馬にのったまま、すでに雨足が強くなり激しく水滴の叩きつける中を闊歩していく。政宗公、おやめくださいと僧侶たちが口々に言う。・・・かまうものか。
「五月蠅ぇよ。俺は客人の見舞いに来ただけだ。・・・何処だ、あの男は?」
凄みのある視線と声音に、僧侶たちは顔を見合わせた。政宗はぐるりと辺りを見回し、そしてこちらを見つめる小柄な体に気づいた。
「よう!How are you?」
政宗は馬から下りると、ずぶぬれの土足のまま広間へどんどん入って行く。呆気にとられる僧侶たちには見向きもしない。いっそ潔いその態度に誰も文句も言えない。
「風邪ひいてんだって?見舞いに来てやったぜ、感謝しな」
目の前に立って笑顔で言うと、小柄な男は―――毛利は、呆れたように、何か言いかけて口を開いた。視線を足元にうつす。政宗もつられて自分の足を見た。草履のままの足のまわりに、雨の滴がぽたぽたと落ちて水たまりを作っていた。
毛利は、政宗を見上げると少し瞬きをした。それから手を口元に当てると、小さく肩を震わせて笑った。莫迦にされているのかもしれなかったが、久々にその姿を見て政宗は嬉しくなった。



毛利の居室は廊下の端だった。政宗は流石にそのままは憚られて、僧たちに衣服を借りて着替えた。こざっぱりしたところで毛利の部屋へ押し通ると(まだ僧侶たちは渋っていたので無理矢理だった)、果たして毛利は床に伏せっていた。
政宗は黙ったまま部屋を横切り毛利の傍らにどかりと胡坐をかいた。背中を向けて横たわっていた毛利は、ちらりと政宗を見た。
「―――病気のくせに、寝床でも本読んでるのかよ」
呆れて言うと、毛利はきゅっと眉を顰めて仰向けに体勢を変えた。手の中の本を、表紙を見えるように差し出すと、それは先日政宗が毛利に送ったものだったので政宗は黙り込んだ。
「貴様に返すのが遅くなっているからな。早く返さねば、貴様のことだ、どうせ急いてくだらぬ行動に出るやもしれぬと思っておったところよ」
「・・・・・・」
「まさかそのまま予測どおりとは、かえって驚いたが」
「・・・悪かったな。本のこともだが、・・・俺はアンタが誰かに毒でも盛られてんじゃねぇかと思ったんだ。アンタは"大事な人質"だからな」
半分嘘をついて、政宗はぷいと横を向いた。毛利は少し咳き込みながら、政宗に書物を差し出した。
「今ちょうど読み終えた。・・・持って帰るがいい」
「・・・その本はいらねぇよ。もう読まねぇし。アンタにやる」
ぼそりと呟いて、政宗は書物を持つ毛利の手を布団の中へ本ごと押し戻した。毛利は、そうか、とだけ言って黙ってしまった。
この前の手紙にはなんと書いたのだったか、政宗はもう覚えていなかった。どうでもいいことだったはずだ。毛利の返信を手に入れるための方便だったから覚えていないのも仕方ない。こうやって会ってしまうと、手紙はもうやり取りできないかと思えば、それはそれで惜しい気がした。
ふと、毛利が言った。
「片倉は、さぞやがっかりするであろうな、貴様が我と会ったことを知れば」
「・・・なんで」
「貴様、我と関わらぬよう言い含められておろう?それくらいは分かる」
「―――」
「そのほうが賢明よ。我は毛利家が刃向わぬための人質であり、他家へ送り込まれることでその家中に波風を起こすための道具だ。・・・貴様もそれくらいは理解しておるだろうに」
「かまやしねぇよ。我慢するのは俺の性に合わねぇんだ」
政宗は言った。毛利はすうと瞼を細めた。
「我慢?なんの?」
「俺は、アンタがどうやら気に入ってる」
毛利は、小さくため息をついたらしかった。
けれど政宗は、どこか言えたこと自体にすっきりしたものを感じていた。
「小十郎に言わせれば・・・"執着"してるらしいぜ」
「・・・くだらぬことよ。国ひとつ背負っているならば、大局を見るが肝要」
「言ったろ。俺は、俺のやりたいようにする。伊達家のことも大事だが、・・・俺自身の納得のいかねぇことは、我慢したって結局はあとからうまく腹の中でかみ合わなくなっちまうんだ。爆発しちまう。それくらいなら、思ったとおりにやる。・・・そうとも」
己に言い聞かせるように、政宗は力強く言葉を区切って言った。毛利は黙って聞いていた。



「むしろ、・・・執着をなくすために、アンタをもっと知らないとなぁ?」