SALVATION



(3)


 捕まえていた鷹匠の手をすりぬけてきたらしい。
 鷹は琥珀色のびいどろのような眼であたりをじっと、睥睨するように動かない。爪の食い込んだ肩は痛みがあるだろうに、男はふり払おうともせず唇を噛んでじっとしている。鷹匠が慌てて駆けこんできて飛びかかり、捕まえた。
 その間も男は俯いたままやはり一言も喋らない。薄暗い粗末な小屋、身に着けた土に汚れた着物。麻紐で結えた髪は背に流れている。のびた前髪で顔はよく見えないが皮膚は日に焼けているのかそれとも汚れか、浅黒かった。
(…まさか?)
 ふいにまた、鷹は甲高く空気をつんざくような声で鳴き力強く羽ばたいた。
 口のきけないという男のところへ行こうとしている。鷹匠が慌てて籠に入れようと抑え込む。
 乱暴な物音と忙しない羽音に、俯いていた男は弾かれたように顔を上げた。もの言えぬ筈の唇が声の無いまま、なにごとか言葉のカタチをつくったのを政宗は見た。
「―――おい、お前…!」
 政宗はその瞬間、足を踏み出した。
 腕を素早く伸ばすと、男の汚れた着物の襟首を掴んだ。周りの者が息をのむ中、筵の上に細い身体をうつ伏せに押さえつけるや、着物を肩甲骨のあたりまで無理矢理引き下ろす。老人たちは悲鳴を上げ、小十郎もまた政宗の元に駆け寄った。
「…ッ、」
 声にならない唸るような音を喉から発して、男は暴れた。仰向けに体勢を入れ替えようともがく。政宗はさせまいと抑えつける。
 ―――勢い余って男の手は政宗の頬に当たった。主君の顔の皮膚を張る大きな音が周りの者を凍りつかせ、無礼者、といくつかの非難と怒号が舞う。
 小十郎が落ち着かせようと政宗の肩を掴んだときには、政宗はもう下ろした男の着物を元通り上げていた。その、どこか慎重で丁寧な所作に、小十郎はなにごとか気付き目を瞠り男を見る。彼は政宗から逃げるように床を転がり、襟元を直しながら壁際へ遠ざかる。けれど決して背を向けず、乱れた髪の隙間からこちらの様子を覗っている。
 ―――政宗は小十郎を振り返った。
「おい、小十郎!この男、連れて帰れ」
 小十郎は一瞬、どうすべきかと思案するように視線を彷徨わせた。
 老人たちが泣き声を上げた。ご主君を打った罪は償わせるゆえ何とぞ御赦しを、と頭を地面にこすりつけんばかりである。壁際に逃げていた男はそれを見ると震える体で翁たちの傍に戻って、同じように政宗に頭を下げた。老人たちをかばっていることは明白だった。
「…そんなこと、しなくていい」
 政宗は呟いた。老爺たちは懇願の声を止めて顔を見合わせた。
 政宗はそろそろと手を、平伏する男に伸ばした。触れようとして、止めた。
 そこに在るのはちっぽけなひとりの、政宗の“領民”だった。探し人なのかそうでないのか、まだ確信は無い。
 なによりも、その魂がどうなっているのか、分からない。
 政宗は確かめねばならなかった。このままこの場に置いておくほうがこの男のために幸せなれば、そうしてやることもできる。けれどその前に、もう一度だけ。
「…この“俺の領民”は連れて帰るぜ。罪科を問おうってんじゃねぇ。確かめたいことがある」
 政宗は小十郎を振り返った。いいだろう?と尋ねる声も表情も力に満ちている。思案していた小十郎はやがて静かに頷いた。


 男は腕を縛られて(逃げないように)籠に押し込められ運ばれた。担ぎ手たちは当然城の近くの奉行所へ行くものと思っていたところ、行き先を途中ではっきり告げられ驚いた。主君の私邸へ、と言う。到着してみれば門前には連絡を受けていたらしく幾人もの政宗直属の部下や屋敷の召使たちが居並んで出迎え、籠ごと奪うように引き取った。担ぎ手たちは自分たちが運んできたのは一体誰だったのだろうと訝りながら、通常より多目に渡された駄賃にそれ以上追究することは止めた。
 

 厳重な見張りが何人もつく中で男は観念したのか人形のようにおとなしくしている―――と、側近のひとりが報告してきたのはすでに夜も更けた頃だった。男の身支度が整うのを待っていた政宗は頷いた。が、
「連れて来てよろしいですか」
 問われ、政宗は一瞬躊躇するように俯き、そのまま視線を逸らした。黙ってしまい返答が無いのを訝しむ側近に小十郎が代わりに、連れてくるよう命じた。政宗はぱっと顔をあげて小十郎を睨んだ。
「なんでお前が」
「…政宗様。今更何を恐れておられるのか」
 的を射た指摘に政宗は親指の爪を思わず噛んだ。しょうがねぇだろ、と呻く。
「…もしかしたら、あの人かもしれねェ。でも、『もう』違うかもしれない」
「人違いが恐ろしくてあられるか」
「そうじゃねェよ、…あの、背の銃創は見覚えどおりだった。あの人だってことに間違いは無い」
「…そうでしょうな。では一体何を」
「あの人だったとして、何故俺の元から去って、あんなとこにいたのか、…俺をもう忘れちまって、あの頃のあの人はいないのかもしれないだろ」
 ―――もしかしたらずっと、拒絶されていたのではないか、と。
 語尾はかすれて不明瞭に委縮した。小十郎はやれやれと額を押さえた。小十郎から見ても元就の行動の意図はさっぱり分からなかったが、では元就が政宗を疎んじていたのかといえば、それは絶対に違うと言いきる自信があった。あんなに仲睦まじく、別れる直前は夫婦か兄弟かというほどに息をすることすら共有しているかのごとくだったのだ。記憶を失っているふうにも見えなかった、逃げたということは政宗だと認識していただろうから。
「…会って確かめるしかできませぬ」
 どこか突き放すように小十郎は言った。
 政宗が不安げに顔を上げたとき、障子の向こうから声がかかった。お連れしました、と言う。入れ、と命じる声が震えた。
 障子が開いて、側近3人に脇を固められたあの男が入ってくる。手はまだ前で縄で縛られていた。長い髪は後ろひとつに結えられていた。しゃんと背筋を伸ばし、真っ直ぐに前を見据えて歩いてくる。その、なにものも寄せ付けぬ冷たく張り詰めた面は一段高い位置に座する政宗にもよく見えた。
 …見間違うはずもなかった。
 政宗は静かに深い息をついた。眼帯を手で押さえ俯くと、小さく口元だけで笑った。
 縄を解くよう部下に言いつける。男の手が自由になるのを見て、政宗は手振りで小十郎以外の者たちに出ていくよう命じた。ひとり、またひとりといなくなる、…
 やがて三人だけになった室内で、政宗はようやく言葉を絞り出した。


「…久しぶりだな。毛利元就」


 男は返事をしなかった。
 ただ静かに其処に坐したまま、物怖じする気配など微塵もなく、むしろ威圧感さえ漂わせて政宗を見つめる。あの鷹の眸にも似ていた。
 この人は何処に在ってもあの頃のままだったのだ、と政宗は内心涙が零れるほどの嬉しさに震えた。むしろ不思議だった、…何故誰も気づかなかった?何故こんなに重く険しく深い気配を持つ者を、誰も?薄汚れた格好をしていても、言葉を発せずとも、おのずと滲みでるものを持っているこの男を。
(…全て隠して、捨てて、生きてきたのか。ここまでの日々を)
 政宗は傍に駆けより抱きしめたい衝動を抑えながらゆっくりと言葉を発した。
「Ha,…ざまァねェな。言いたいことは山ほどあったはずなんだが、…なんか、アンタの顔見たら、…出てこなく、なっちまった」
「…」
 男は―――毛利元就は、身動ぎひとつせず政宗を見つめている。言葉は無い。
「…あのじいさんとばあさんは、アンタのことを口がきけないのだと言っていた。…ほんとうに、声を失くしちまったのか?」
 やはり応(いら)えは、無い。
 政宗はようやく立ち上がると、元就の傍に近づいた。思えば最初に彼が人質として江戸の伊達屋敷に来たときも、こうやって対峙したのだと政宗は思い出した。もうずっと前のことのような気がする。
 ―――来るな、と鋭い声色がした。政宗は毛利元就の隣まできて、伸ばそうとしていた手を止めた。


「…何故、探したのだ」


 絞り出された声は乾いて、掠れていた。声を出すことを長い間拒否していたせいか喋ることにまだ慣れていないふうだった。政宗はその月日を思って歯を食いしばった。
 男は顔を上げた。眼差しは厳しく、けれど力があった。政宗の好きだった目だ。
「貴様は我から解放された。なのに何故、探したのだ。見つけ出したのだ?捨て置けばよいものを、…我が何処で生きようか、死のうが、貴様にもはや関係なかったはず」
「…馬鹿言うな!」
 政宗は鋭く手を伸ばし、元就の衿を掴み上げた。政宗様落ち着きなされと小十郎が思わず声をあげたが構うことなく近づいた面を注視し噛みつかんばかりの勢いで吠えた。
「嵐のせいで連絡が遅れて。俺が、アンタが元親の船に乗らなかったと聞いたときは、もうアンタは何処に行ったかわからなくなってた!…それからずっと探してた。答えろ。俺に訊かせろ。アンタに訊きたかった、…どうして」
 ―――どうして、元親の船に乗らなかったのか。
「なぁ。“元就”?…俺が、アンタのためにしたことは、アンタを自由にしたことは。アンタの願うことではなかったのか?アンタが幸せになることが俺の望みだったんだ!だから手放した、なのに」
 男は―――元就は、ようやく薄く口元を歪めた。政宗は少し、締めあげる格好になっていた襟首の手を緩めた。Sorry、と呟くと元就はゆるく首を横に振り俯いた。伸びた髪がはらりと揺れて顔にかかる。膝の上の拳が握りしめられるのを政宗は視界に捉えた。
 幸せだったとも、と呟きはひそやかに政宗の鼓膜を穿った。
「…幸せだったのだ、我は。あの老人たちとともに、幸せだった」
 政宗はじっと聴いていた。
「誰にも、何処にも、完全な自由など無い。貴様が奔放に生きながらも主君としての枷から逃れられぬように。…それでも我が選ぶ道が我の自由に近づくならば。貴様が我の身の上に望んだことならば。あの場所で生きることが我の自由と幸せだった」
「…Why!?俺はアンタに、もっともっと…此処で暮らすより“遥かに”幸せになってほしかったんだ!ああやって名を捨て、アンタという存在を捨て、声も出せず、その日の糧にも困るような、…そんな暮らしがアンタは此処で俺と暮らすより幸せだったって言いたいのか!?」
 元就は伏せていた視線を上げた。
「恨んだことも、後悔したことも無い。―――貴様の国、だからだ。」
 響いた言葉に、政宗は咄嗟に意味がわからず、言葉をのみこんだ。元就は口元にかすかに笑みを浮かべていた。
 何度か貴様を見た、と遠くを探すような声がした。


「遠目で…貴様は馬上であったが、…兜の三日月が煌いて…いた。貴様が見ゆるたび邑の他の者たちが口ぐちに言ったものだ、…あれが我らのご主君であると。誇らしげに」
「…」
「言葉を封じて…我も共に貴様の駆けてゆく姿を見上げながら…誇らしかった。貴様の統治はよく行き届いていて…不都合は時々にあれど、少しずつ改善されるが見えて…都度、口々に皆が貴様を讃え仰ぎ見る。かつて我を前に不安定に取り乱していた貴様が斯様にも大きく見上げるまでになっていることが」
 眩しく誇らしかった、と、元就はまた言った。
「我は幸せだった。貴様の手の中で安堵して生きられるのが。個としての我ではなくとも。貴様の国の、貴様の守る者たちの一人として生きられるのが嬉しかった」
「…おい、」
「あの場所でいるならば、我は心を己に欺く必要がなかった。毛利元就として生きる限り叶わなかったことだ、…貴様をどれほどに慕って、焦がれて、想っても―――咎められぬ。誰にも迷惑もかからぬ。我は自由だった」
「…毛利の、…」
「二度とまみえることはなくとも。貴様が我に気づかなくとも。…誰かを想う自由すら無いよりは―――『誰か』を真っ直ぐに想えて、我は」
 凛とした面が上がる。政宗を捉えた。唇が言葉を形づくる。


『幸せだった』


 元就、と呼んだ。
 政宗は力いっぱい目の前の細い身体を抱き締めた。前よりもっと痩せた身体の、浮いた骨が腕に伝わる。愛おしくて何度も彼の頬に頬ずりした。
 アンタはやっぱりとんでもない詭計智将だ、俺はどうやったってアンタに勝てるわけがないと政宗は強く強く抱きしめながら政宗らしい皮肉めいた言葉で告げた。ひねくれた言葉を発しながら、ひとつの目から涙が零れた。
「とんでもねェ告白だぜ。…俺は自惚れていいのか。なぁ元就?アンタ、今、俺を好きだと…百万遍くらい言うと同じことを言ってくれたんだろ?なぁ?」
 政宗の腕の中で元就の小柄な身体はいつしか震えていた。言ってくれ、と政宗は懇願した。
「言ってくれよ。また俺に会えてうれしいって。遠くから俺を想ってくれてたのは光栄だが、…俺は、アンタの口からその言葉を聞けるほうが万倍嬉しいんだ。アンタにこうやって触れて、アンタの声を聴いてるほうが幸せなんだ。アンタもそうだって言ってくれ。なぁ―――」
 うつけが、と小さな声がした。政宗は小さく笑った。
「…貴様ならばいつか、…我を見つけるだろうと…」
「あぁ、そうとも。俺は、しつこいんだぜ。なんせ小十郎のお墨付きだ」
 元就は顔を上げた。
 笑顔だった。