SALVATION



(4)


 再会の後、元就は手元に留め置こうとする政宗の言葉を固辞して『家』に戻った。
 我は早くに父母を亡くしたから、と控えめに言うのを政宗は黙って聞いていた。短い時期とはいえ元就を息子と呼んで傍に置いてくれたあの老人たちの面倒を見たい、と元就は願っていた。政宗に反対する理由は無かった。
 老いた養父母のこと以上に、伊達家にこれ以上己が関わるのは避けたいと思っているらしかった。死んでしまったと目されている亡霊をわざわざ呼び出す必要は無い、と。
 政宗は当初難色を示した(駄々をこねた)が、小十郎にも言い含められ元就の主張を受け入れた。もう俺のことはどうでもいいのかよ、となおも政宗がぼそぼそと愚痴を言うと、元就は目を瞠り、笑った。貴様のほうこそ、と言った。
「貴様こそ、よいのか。我が貴様の民草の一人として今後も貴様をずっと見続けるのを、許せるのか。迷惑に思わぬか」
「――そ…そんなはず、ないだろうが!」
 願ったりだぜ、と政宗は言って胸を張った。元就は、ほうと少し口角を引き上げる。
「よいと申すか。…ならば我が貴様を当主として無能とみなした場合は、駒どもを扇動し伊達家を乗っ取るが、かまわぬな」
 詭計智将の顔は健在らしい。政宗は肩を竦めた。
「おいおい…手抜きしたら即刻Gameoverってことかよ…小十郎より厳しいんじゃねェのかそりゃ?」
 少し離れた位置に控えていた小十郎が口元に手をあてて笑いを堪えている。ちぇっ、お目付役が増えただけじゃねぇかとぼやいて苦笑してから、政宗は少し口を噤んだ。
「…それは、…俺がいなくてもアンタはもう平気ってことなのか?ふっきれたってことか?」
 元就の表情は、その言葉にも変わらない。真っ直ぐに、政宗を見た。
「万が一貴様が我より先にいなくなる日がくれば、我は生きておらぬであろうな」
「――」
「我は貴様のものだ」
 予期しない殺し文句に顔が火照るほど嬉しかったが、わざとそれを隠して政宗は元就を抱き締めた。
 彼は自由になったのだ、と、あらためて政宗は思った。そして彼をそうさせた己を誇った。


 なんの援助もいらぬと言われたが、政宗は後日、せめてもとあの小じんまりした家を小十郎からという名目で改築させた。
 元就は、農作業をしながら近隣の子供に読み書きや碁などを教えているという。
 政宗は政務の合間に時々近くを通る。何度も足繁く通っては元就の素性にいらぬ疑念を抱かせるだろうという配慮から回数は多くない。立ち止まることも稀だ。
 遠くから元就を眺めるのは政宗には新鮮で、楽しいことだった。子供の頃に笑うことを放棄してから長かったせいか、相変わらず表情は乏しいものの、纏う空気は穏やかで静かだった。自らに課した「毛利と安芸を守る」という檻を飛び立ったせいかと政宗は思う。
 政宗は、当主として伊達家を守った。今後はひとりの領民である元就を領主として守り続けることもできる。元就は政宗の元に戻ってきた。その心もはっきりと手に入れた。
 願いは全部叶った…


「――やっぱ、無理だな」
 控えていた小十郎は顔を上げた。
 傍らには、政宗が花押を書くべき書状がまだ山積みになっている。何が無理ですか、今日中にこれ全部に目を通していただきますと小十郎がにべもなく言うと、政宗は首を横に振った。
「そっちじゃねぇ。『あの人』のことだ」
 元就が政宗の国に戻ってから、半年が過ぎていた。
「…元就殿が何か。先日ご様子については報告申し上げたはずですが」
 小十郎は言いながら手元の症状を無理に政宗に押しつけた。
 鬱陶しそうに押し付けられた書状に目を通し、花押を書いて小十郎の手に押しつけ返すと、政宗は立ち上がった。
「俺は奥州筆頭・伊達政宗だぜ、小十郎」
「…よく存じております」
「そうとも。俺は、思ったとおりにやる。…もう十分我慢したからな」
 にやりと、不敵に笑う。小十郎はなんのことか意味が分からず、は?と問い返す。政宗は構わず、馬引けと小姓に言いつけた。小十郎が慌てて、仕事が終わるまでは行かせませぬと立ち塞がったが政宗は意にも介さず小十郎を押し退けた。
「Ha!…冗談じゃねぇぜ、あの人も言ってただろ?あの人は俺のものだ。会いたいときに会えないなんざ性に合わねェ。今からあの人を連れに行く」
 小十郎は政宗の考えをようやく理解した。慌てて食い下がる。
「政宗様!それはなりませぬ、あの方のお心に背くことに…」
「背く?そんなわけねェだろ、小十郎。――あの人は、俺を拒まねェよ。いや、拒ませねェ。じいさんばあさんが気になるってんなら一緒に連れてきてやるさ」
「しかし」
「あの人は、もう亡霊じゃねぇんだ。俺の大事なあの人っていうたった一人以外の誰でもねェよ。だから、誰にも遠慮なんざする必要はねェんだ、そうだろ?」
 …小十郎は呆気にとられて政宗を見ていたが、やがて小さく笑い出した。なんだよ、と不貞腐れた顔をしている政宗に、ひとしきり笑った後ようやくひとつ咳払いをして、ではと居ずまいを正した。
「溜まった仕事はあの御方にも手伝っていただくとしましょう。連れてくることはあの方はお赦しになっても、政宗様の職務怠慢に関しては容赦なく怒ってくださるでしょうからな。小十郎としても渡りに船です」
「…おい…嫌なtagだな…」
 政宗は眉を顰めたが、やがてからからと声をあげて笑った。
 そして振り返る。
 数刻後には、この部屋にまたあの正座して背筋伸ばした姿が見られるのだと思うと心が躍った。彼がいつの間にか自分の心を攫ったように、自分も彼を攫おう。もう十分我慢した。彼のいない生活に。
「行ってくるぜ!」


 颯爽と歩いて行く背を見送って、小十郎は微笑した。政宗が乗り込んだときの元就の表情は容易に想像できた。驚き目を瞠り、嬉しさに目元を染めながら散々に罵ることだろう、――けれどきっとあの小柄な青年は最終的に此処にやってくるのだ。無辜の民草でいることに、彼ももう十分尽くしただろうから。
 失くしたもの以上に、政宗は自分の力で多くを得たと小十郎は思った。必死に足掻いて泣いて堪えてきた。だから――
「…お二方のお帰りをお待ちしております」
 小十郎は敬愛する背に、深々と頭を下げていた。(了)