カルマ





 大阪城を破壊し尽くして、家康は居城に戻った。
 戦装束にはさまざまに泥や血飛沫がこびりついたままになっている。邸に着いて一息いれる間もなくまたその格好のまま出て行こうとするのを、側近達が気遣って止めた。家康は曖昧に笑った。
「・・・これでいいんだ。とりあえず急いで行きたい場所があるから」
 


 向かった先は重臣・榊原家だった。殿が真っ先に立ち寄ってくれたと家中の者たちは喜んだが家康の目的はそれではない。厳重に緘口令を敷いて、秘密を知る僅かの者はよく守っているらしかった。
 家康は三男の政直を呼んだ。兄二人が不幸にも先立ったため、ゆくゆくは彼が家督を継ぐことになっている。信頼できる若者だ。
 やってきた政直は神妙な面持ちで、此度の勝利お喜び申し上げますと深々と頭を下げた。頷いて、家康は一言、どうか、と問うた。周りは人払いして誰もいない。若い家臣はそっとあたりを見回してひとつこくりと頷いた。立ち上がると、どうぞと襖を開ける。家康は黙って先導されるままに邸の奥へ進んだ。
 案内された場所は当主の部屋だった。通例どおり隠し部屋がある。巧妙に隠された入口を潜り、地下へすすむとほの暗い中、ひとつ、ふたつ、みっつと明りが浮かんだ。家康はいったん立ち止まると物影からそっと様子を窺った。
 家康の目当ての人物は狭い畳敷きの部屋に、壁を向いて座っていた。身には白い襦袢一枚しかつけずその細い手首は縄で自由を奪われていた。口にも枷が嵌められている。舌を噛み切らないために講じられたものだ。
 彼の細い銀の髪が焔のゆらぎに以前と同じように煌いた。間違いなく彼だ、生きている、と家康は逸る心を抑えて政直を促した。頷くと政直はいつもどおりなのだろう、ひとつ咳払いをした。
 お食事です、という声に捉われ人はゆっくりと振り返った。以前のような殺意と憎悪の咆哮は響かず、ただ純粋に透明に、ただのひとりの“石田三成”は其処に座ったままだ。
 政直は膳を置くと、作法どおり丁寧に頭を下げた。そうすべしと家康から重々言い含められていた。彼は忠実にそれを守ってきた。手の使えない三成の口元に手ずから食事を箸で運ぶ。箸ひとつでさえ渡してしまえば自らを殺める手段になるため、何も部屋には置いておらず、ただ壁の高い手の届かぬ位置に置かれた明りだけが現実を照らす。
 静かな食事はすぐに終わった。三成はほとんど用意されたものを食べなかった。空腹とは以前から無縁に近かったが、きっと今はもっとそうなのだろう。最後に水を口に含んで飲み込むと、政直は轡をまた三成に噛ませた。膳を片付け退室する政直を視線で追うこともせずまた壁を向いて座る。
 ずっとああなのです、と、すれ違いざまに若者は家康に言った。憐憫の情が滲んでいて、家康は黙って目で、あとはいいからと促した。若い家臣は心配そうな表情をしたが、何も言わなかった。



「―――三成」
 家康は、幾月ぶりかに彼を呼んだ。
 声音に反応して細い肩がびくりと震えた。けれど振り返らない。家康はそろそろと近づいた。畳を擦る足音が一歩、また一歩、彼との間を詰めていく。
 すぐ彼の背中の傍に立って、家康は、静かに言葉を彼に投げかけた。ずっと前から用意していた、彼にとって最も残酷な宣告だ。
「・・・大阪城は、燃えた。跡形もない。なにも残らないよう壊せと、ワシが命じた」
 薄い肩がまた、震えた。家康は気づかないふりをして続けた。彼が泣いて喚いて、殴りかかってきてもそれを受け止める覚悟はあったが、三成は動かない。
「だから、・・・お前のいた場所はもう、無い。豊臣はもう、無くなった。どこにも無い」
 ようやく三成は、ゆっくりと振り返った。憎しみと怒りに溢れているであろうと予測した面は、けれどそぐわぬ静かさを湛えていた。家康はそっと拳を握りしめた。
 三成は関ヶ原で負けた。そのときにきっと、悟ったのだろう。―――自分の守ってきたものがやがて跡形もなく崩れ去ることを。崩されることを、・・・かつての友の手にかかって。
 家康は、静かに彼の傍にしゃがむと、彼が話すことができるよう轡を解いた。三成はじっと家康を見つめてくる。縛られた手を取って、家康は言った。
「お前は、自由だ。・・・何処へなりと行くといい。“西軍大将・石田三成”は死んだことになっている。お前のしたかったことをして、好きなように生きればいい」
「―――」
 初めて、三成は目を瞠った。それは恐怖の表情だった。それすらも予測していた家康は、なおも残酷に続ける。三成のきれいな真白い心を傷つける、蹂躙する喜びが密かにこころの内で綻んだ。
「豊臣のことなど忘れて・・・ワシのことも忘れて、一人の“石田三成として”―――」
「・・・私を、捨てるのか?」
 数か月ぶりに聴いた声は酷く掠れて震えていた。家康は黙った。三成はどこか茫然とした貌で家康を見つめてくる。捨てるのか、私を、と、また言葉が零れた。家康は視線を伏せた。じわじわと、どす黒いものが胸を侵食していくのがわかる。
「・・・捨てる?お前は、最初からワシを憎んでいた。でもワシはお前を助けた。・・・それでは駄目か」
「・・・・・・」
「殉じるべき対象はもう無い。ワシを殺してもなにも戻らない。・・・だから、これは情けだ。独りで自由に生きろ」
 


 独りで、という言葉に三成は苦悶の表情を浮かべた。哀れなほどに反応して、歯を食い縛る。いやだ、という声が零れ落ちたが家康は聴こえないふりをした。そのまま立ち上がる。
「出立の準備は政直に言いつけておく。ワシの命を狙いたければいつでも来い。この国の王になったワシに立ち向かうなら、いつでも受けてたつ」
「・・・捨てる、のか?家康?私を―――独りに、するのか!」
 問い掛けはやがて叫びになった。家康は三成に背を向けた。・・・立ち去るふりをして、けれどそのつもりはない。
 家康は待っている。浅ましいことだ、と喉の奥で小さく哂った。・・・三成が、縋ってくるのを待っている。
「私からすべてを奪って、・・・壊して、・・・私が一体なにをした?どうすればよかったのだ?こたえろ家康、・・・絆を説く貴様が、何故、私の絆を全て断ち切ってきた?・・・無残に敗れた私を嘲笑い、なおも生かし、死ぬことすら赦さず・・・挙句、捨てるのか!貴様を追うことすらさせず―――」
「・・・もう、終わったことだ。三成、お前はもうこの世にいないんだ。仮の名でも命の長らえたことを喜べ。豊臣との絆など早く忘れてしまえ!!」
 一度振り返ると、家康は三成にそう告げた。三成は茫然と家康を見つめた。
「・・・・・・何故、だ?」
 一歩、また一歩と三成から離れる家康に、三成の小さな声が届く。家康は待っている・・・彼の心が完全に屈服するのを。 
 そして、三成はそんな家康の醜い心を、知らない。



「・・・どうして・・・それほどに私を憎む?・・・、の、ですか・・・」



 家康は振り返った。薄暗い部屋の片隅、俯いて畳の上に正座した三成の身体は一目見て分かるほどに震えていた。聴こえてきた言葉の、付け加えられた語尾が敬体だったことにもぞくぞくと喜びを感じて、家康は息を殺して三成を見つめる。
 また、切ない声がした。
「・・・それほどに私が、憎い、ですか。いつから、・・・どうして・・・ですか」
「・・・・・・」
 家康は僅かに眉を顰めた。むしろ憎んでいたのはお前ではないのか、と叫んで問い掛けたかった。友と呼んだ、密かにそれ以上の関わりすらもあった。そのころから一度だって彼を憎んだことなど無い。むしろ親愛の情を一心に注いできたつもりだった。研ぎ澄まされた刃のような彼を気遣い、ときには意見し、彼のよき友であろうとした。
 でも、―――家康の想いは、三成には、届いていなかったのだろう。
 三成が絶対的忠誠を誓っていた秀吉を倒すと決めたとき、家康は三成を切り捨てざるをえなかった。どれほど悩み苦しみ、彼も同時に救い上げる手立てはないかと探ってもそれは無理だった。「徳川」の“立場”は家康に前進することを要求し、結果、最初から友誼など存在しなかったように家康は三成の信頼を裏切った。
 ・・・後悔していないと言えば嘘になる。だから決して、家康は負けられなかった。
 壊して、破壊し尽くしてしまわねばならない。この世から去ってなお彼を縛る神ともいえる秀吉や、半兵衛や、彼を育てた諸々の豊臣色した全てを。なかったことのように消し去って、もう捉われなくていいのだと救ってやりたかった。
 ・・・きっと、最初は、そうだった。今は、そうではない。



 三成は顔を上げた。寄る辺を喪い、誇りも失い、命だけ与えられても彼は生きていけない、そういう者だと家康は知っている。だからこそ今、彼に非道い言葉を投げかけている。待っている。
 彼が、自分に縋るのを―――
 私が憎いですか、とまた嘆きが落ち、涙が落ちる。家康は応えない。どう生きればいいか分からない、と縋る子供のような彼を残酷に見下ろして、家康はその瞬間が近いと知る。
 三成は膝の上に置いた拳をきつく、きつく握りしめていた。



「どうすれば赦されますか。どうすれば、・・・なにをすれば私を見て貰えますか。・・・あなたの心を向けてもらえますか」



(どうすれば、・・・私を愛して、もらえますか)



 透明な器である(そうとしか在れない)三成は、どんな色にも染まる。
 家康はずっと、彼を、彼自身の色で染めてみせて欲しいと願ってきた―――誰でもない石田三成という一個の存在になってほしかったはずだ。
 けれどそう自分に言い聞かせてきたつもりが、長い年月の間に自分の本願が変化するのを家康は息を潜めて見つめてきた。
 豊臣の残滓がたゆたっていた三成という器、今その残り火すらも家康は破壊して、からっぽになった彼にはなにもない。自分で中を満たせと要求され三成は途方に暮れる。何故なら―――彼は、「出来ない」。そういう生き方をするべく生まれて育てられて、今もなおそう在る。我欲など存在しない。自分を満たしてくれるものへ絶対の忠誠をもって報いる生き方しかできない。
 だから、彼は美しすぎるほどに、美しい。
 だから、家康は彼を欲しい。
 家康は三成の傍にゆっくりと近づいた。以前にも増して痩せた身体へ腕を差し伸べると、ずっと前、最初にそうしたときのように彼を抱きしめた。三成の細い肢体は恐怖なのか、悦びなのか、一度びくりと痙攣した。家康が黙ってじっと彼を抱き続けその骨の浮いた肩へ顔を埋めると、互いの身体に挟まれる形になった三成の縛られた腕が微かに動いた。構わず家康はなおも力を籠める。
 最初に三成に触れた・・・あのときと同じ喜びと、―――あのときとは比べ物にならないほどの汚れた黒い喜びがこみ上げる。三成は変わらない。変わってしまったのは自分だけだと家康は知る。きっと昔の自分なら、何度も、何度も彼に諭しただろう。現に反目し別れるまでそうしてきた。誰かのために生きなくていいのだと彼に教え続け、
 ―――そして彼は変わらなかった。
 変わってしまったのは、家康だ。
(・・・それでも、構わない)
 苦い笑いを飲み込んで、家康は言葉を選び、紡ぐ。彼のためだけに。そして自分のために。出会った最初から好きだったと・・・憎んだことなど一度も無いと正直に言えればどれほどよいだろう?
 でも、家康はそうしなかった。
 絶対の力をもって、彼を手に入れねばならない。そうしないと、彼はまた彷徨い、行くべき場所を見失い、壊れて、死ぬ。二度と手放さないために。彼を自由にするのではなく。
 彼の中を、自分だけで満たすために。
「・・・ワシの心が欲しければ、・・・ワシに従え、三成。ワシにお前のすべてを差し出せ。そうすれば―――お前を、見て、やるから」
 抱きしめた三成に、抵抗はなかった。
 そっと抱きしめた腕の力を解き、様子を覗う。三成は俯いたままだ。
「・・・三成?」
 呼んだ声は昔の自分のままに不安げで、家康は一瞬情けなくなった。けれどすぐに応えは返った。睫毛の長い眸は少しだけ視線を上げて、家康を見た。怒りは当然無い、哀しみも勿論無い。・・・求めていたものを得られた安堵感だけが在る。
 三成は少し、笑った。家康は胸を抉られるような哀しみを覚えたが、耐えた。
「・・・ありが、とう、ございます。・・・家康、・・・さま」
 ―――その刹那、二人は従属させるものと、させられる者に、なった。
 家康の中でこれまでに無かった歓喜の渦が湧きおこり、・・・同時に、自分たちの間にあった何かが壊れたことを知って、悲痛な叫びが心に虚ろに響いた。



(変わらなければ、ならなかった。ワシは) 



 家康は同じ褥で眠る三成を見る。手に入れたかったものは此処にある。嬉しい。嬉しい。彼の命を救えた。彼の身も心も手に入れた。きっともう彼は離れていかない。永遠に家康の傍にいる。望みは叶った。
(・・・なのに何故、哀しいのだろう。ワシは―――)
 何処か遠くで誰かが泣いている気がした。まだ稚くて、英雄たちの背を必死に追いかけていた頃の自分に違いなかった。忠勝に守られ、配下の者たちに守られ、自分のために犠牲となった者たちへ涙して此処まで来た。きっと彼らは今の家康を見て讃えてくれる。間違っていたなんて思わない。
(・・・でも・・・)
 家康は眠る三成の瞼に口づけた。少し身動ぎして三成は瞼を薄く開けた。先程まで何度も抱かれ壊れるかというほどに貫かれた身体は辛いだろうに、三成は手を家康の頬に当てるとおずおずと自分から唇を重ねてくれる。・・・その行為が全身を震わせるほどに嬉しいのに。
 彼が欲しかった。
 ずっと彼が好きだった。彼に自分を見てほしかった。
 嘘じゃない。間違いじゃない・・・
 先程の三成の問い掛けは、家康自身の声だ。どうすれば、見てくれますか。どうすれば愛してくれますか。どうすれば―――赦されますか。
 最初に出会ったときの絵が脳裏に蘇る。三成は一途で自分を取り繕うことを知らない若者だった。こんな綺麗な、純粋な者と友達になれたらどれほどに嬉しいだろう―――そんなふうにあのとき、家康は思ったことを覚えている。きっとずっと忘れない。何度も喧嘩して、何度も口論して、仲直りして。互いに友だと信じていた。ずっと友でいられると信じていた・・・
(ワシは、・・・三成の意志で、ワシを求めて欲しかった。ずっと対等にいられる、友で、いてほしかった)
(欲しかったのは、・・・忠誠じゃない、のに。ワシの命令にただ従う、彼じゃない、のに。)
 家康の堪え切れない涙がこぼれる。三成は不安げに家康を見つめ、褥の上に起き上がると夜着の腰帯を自ら解く。衿元から覗く白い鎖骨は燭の炎に浮いて家康を誘う。先程ようやく清めたばかりの身体を家康の上に被せ、三成はぺろりと唇を舐めるとゆっくりと顔を落とし、家康の寝着の前をくつろげ下帯を解き、現れた家康の分身を躊躇なく口に含んだ。
 このうえなく幸せで、このうえなく残酷な。
「・・・三成」
 家康は、天井を見つめたまま、無心に奉仕する三成に話しかけた。三成は唾液に濡れた唇をあけた。咥えていたものを離すと透明な液体を垂らす先端に口づけ、舐め取る。
「・・・ワシが、好きか?」
 ―――欲しい応えは何処にも無いと知っている。
 三成は少し目を瞠った。
 それからどこかはにかんだように笑った。
「勿論、です。家康・・・さま」
 家康は、苦しげに笑った。己を哂った。同僚だった頃の三成にも同じように問うたことがあった。あのとき彼は一瞬とまどい、それから顔を真っ赤にして、なにを馬鹿なことを言うか!と怒鳴り散らして―――それでも、最後は家康の気持ちを受け取ってくれた。手をつないだり、罵られたり、怒りながら心配されたり、そっと口づけてみたり、・・・誰にも秘密で、逢瀬を重ねたり。はっきりとした返答はもらえなくても・・・秀吉や半兵衛には叶わないと知っていても・・・あの頃の三成は、彼の意志で家康を見てくれていた。今は違う。
(・・・もう、遅い)
 どうしましたか、と三成がおずおずと問うてくるのを、なんでもない、と応えて僅かに笑顔をつくると、両腕に彼を抱きしめ、家康は虚しい言葉を彼の耳に囁いた。ほんとうの心を―――けれどきっと、もう二度と、決して届かない心を。



「好きだ、三成。・・・あいしてる」


(了)



※秀吉と違うやり方で三成と心を通わせたかったのに、結果的に同じことを彼に強いてしまうしかできない。でも手に入れたいという欲求から解放されない家康。