キャラメルにリボン





(13.5)


放課後、バス停に向かって歩いていた元就は、見覚えのある黒い車に気づいた。
傍らにはやはり見覚えのある長身の男が立って、腕組みをしてじっとこちらを伺っている。
通り過ぎるときに元就は丁寧に、先日は世話になった、片倉殿、と頭を下げた。小十郎も、こちらこそ色々と無作法をいたした、と礼を返した。
そのまま歩いて行き掛けた元就は、けれど歩みを止めた。
少し考えて、小十郎のところへ戻った。
「何か?毛利殿」
「今日、伊達は具合が悪いと言って・・・午後は保健室で過ごしていた。ご存知だろうか?」
「あぁ、それを。勿論承知しています。わざわざ申し訳ない」
小十郎は丁寧に頭を下げた。
「政宗様を気にかけてくださって、感謝いたします」
そう述べる小十郎を、元就はじっと見つめた。
「・・・ここしばらく、奴は休んでいたが。どこか具合が悪かったのだろうか」
「いいえ、いつもの・・・発作のようなものですな」
「発作?なにか患っているのか、奴は―――」
そこまで訊いてから、元就は口元を掌で押さえた。
「すまぬ。立ち入ったことを訊いた。聞き流してください」
「いえいえ、構いませぬ」
小十郎は、穏やかに笑った。
「大したことではないのです。・・・ただ、奥様と会われると、政宗様はきまって具合が悪くなられる」
「・・・え?」
意外な理由に、元就はぽかんとした。小十郎は続けた。
「先日はいつもに増して、大事な貴方にあのような場面を見られたのもあってショックが大きかったようです。・・・いつもは半日か、せいぜい一日で元に戻られるのですが」
「・・・面妖な話だな」
「あれで、なかなかに繊細な方なのですよ」
小十郎はほんの少し苦笑した。
「奥様と会うと政宗様は体調を崩されるのは伊達家では周知の事実。・・・奥様は弟に跡目を継がせるために政宗様に毒をもっているのではという話が囁かれる始末」
「・・・それは最悪の冗談だな。愚劣極まりない」
元就は眉を顰めた。
「そんなことを言う使用人は解雇すべきだろうな。」
「そうですな」
「そも母親が、実の息子にそんなことをするわけがない。少し考えれば子供でもわかる、くだらぬ」
「ご尤もです」
「・・・まさか、伊達はその話を信じているとでも?あやつはそこまで馬鹿ではないと思うが」
小十郎がさほど否定的でもないので、少しばかり呆れて元就は言った。
小十郎は初めて、困ったように笑った。
「普通に考えればそのとおり、笑いとばす類の話でしょうな。ただ、政宗様は素直でない方なので・・・
「ふむ?」
「本当は奥様と一緒に暮らしたいと思いながら、愛されていないのではないかと半ば諦めに似た不安をお持ちです」
「・・・」
「そのプレッシャーで体調を崩すのだろうと主治医は申しておりましたな」
「・・・待て。片倉殿。その話、奴の母御はご存知なのか」
元就は問うた。
小十郎は頷いた。
「・・・もしや、それで母御は別に暮らしておられるのか」
「・・・結論から言えば、それも理由のひとつですな」
「ならばそのように伝えればよかろう。伊達は完全に母御の真意を取り違えている、先日のやり取りを見るに」
あの日の、母と息子の痛烈な応酬を思い出して元就は首を傾げた。
けれど小十郎は静かに言う。
奥様ご自身が、それを伝えることを望まれないのです、と。元就は怪訝な顔をした。
「一体何故?」
「ほかならぬ貴方様なのでお話しますが」





政宗が幼い頃、高熱を出していたとき。母親は重要な仕事があったために具合の悪い息子を使用人たちに任せて家を空けていた。運悪くウイルスが脊髄に入り政宗は生死の境を彷徨った。彼は持ち前の生命力で死神を振り切り一命を取り留めたが、かわりに視神経を損ない片目の視力は失われた。
母親はその後、政宗の傍を離れていたことを後悔し自分をひどく責めた。政宗の目を見るにつけ自己嫌悪に陥り、母親失格だと自暴自棄になり、精神不安定になった。次男を産むために実家に帰ってから夫のすすめもあって伊達家には戻らなくなった。やがて夫も事故で死に、政宗を正面から見られないまま月日は過ぎ、息子のほうも母親に自分を見てもらえない理由が分からないまま、自分なりにねじれた理由づけをして大きくなってしまった―――





「・・・奥様も政宗様によく似ておられるので」
小十郎は苦笑して、その先は言わなかったが、元就には理解できた。
素直ではない母子は意地を張り合い互いに自分を責め、本音も言わず事実すら見ないふりをして誤解に誤解を招いたまま、平行線をたどっているのだろう。ただ一言尋ねればいいだけなのだと元就は、つい最近の自分を思い出した。
家を出た義母に訊けなかった、ずっと。
自分が嫌いですか、と。
自分をまだ好きですか、と。
ただそれだけのことが。
そして、実際に尋ねてみれば、それはとても簡単で単純で、怖れるほどのことはなかった。
そんなわけがないでしょう、貴方を嫌いになるわけがない、と。義母は強く言い切ってくれた。むしろその質問に驚いていたっけ。彼女には彼女の考えと事情があり、それは元就のことも考えた結果の行動だともう少し後から、彼女自身の口から元就は知った。



あのとき。元就に行動に出るきっかけをつくってくれたのは、元親を失うかもしれないという状況が大きな原因とはいえ、考え方の道筋を照らしてくれたのは。
(・・・あれは、伊達、貴様だったではないか?)
そう、あのとき。
ほとんど事情を知らないはずだった政宗は、断片的な情報と元就の表情や態度から、推論と勘を働かせて、真実に一番近いところを指し示したというのに。
自分のことになると、いかに明敏な者ですら目が曇るらしいな、と元就は小さく吐息をついた。
きっと、あのときの自分と同じように、政宗もはっきりとその言葉を尋ねて、母親の口から己を否定されることが怖いのだろうと元就は思った。
「・・・何故、我にそんな大事な話を?」
やがて少し伏目がちに元就は問うた。
小十郎は、静かに答えた。
「貴方なら、ご理解いただけると思ったからです」
「―――それは」
「政宗様は、ああいう方ですが―――どんな関係でもいい。あの方と貴方が、できれば友人として永くあってほしいと、小十郎は願っています」
「・・・片倉、どの」





「―――なんだ、毛利サンじゃねぇか」





政宗の声がして元就は振り返った。
保健室でのことなど忘れてしまったように、政宗は普段と変わらない様子で手を挙げると、元就に近づいた。
「こんなとこで小十郎と立ち話かよ。どうせくどくどつまんない話ばっかだったろ?悪かったな、そうと知ってりゃもっと早く出てくりゃよかったぜ」
「・・・政宗様」
こほん、と小十郎が眉間に皺を寄せて咳払いをした。
政宗はぺろりと舌を出していたずらっぽく笑った。
「小十郎の待ち時間に付き合ってくれた礼だ、送ってくぜ。
「え」
「乗ってけよ。いいだろ、小十郎?」
「・・・しかし」
遠慮する元就に、
「毛利殿、別に構いませんよ。お気になさらずどうぞ」
小十郎が今更遠慮もないでしょうと、にこやかに後部座席のドアを空けた。元就はほんの少し躊躇したが、政宗の笑顔に圧され、先ほどの話のこともあって頷いた。
乗り込もうとしてふと視線に気づいた。
「―――」



グリーンの自転車を押した元親がいつの間にか其処にいた。じっとこちらを見つめている。
元就も、瞬きも忘れて元親を見つめた。さっきの密事が音を立てて蘇り、元就は我知らず視線を逸らせた。顔が熱かった。
先に乗っていた政宗が、どうした毛利サン?と尋ねてくる。
ドアガラス越しに見て元親に気づいたらしい、表情を固くする。
元親は、けれどしばらくの後、にこりと笑った。



「―――じゃあな」



そう言うと、元親は俯いて愛車に跨った。すぐとペダルを漕ぐ背中は小さくなり、やがて見えなくなった。
呆然と元親の後姿を見送っていた元就は俯き、唇を噛んだ。
「毛利サン?どうした?何か――」
「―――なんでもない。行こう」





車の中で、政宗と元就はとりとめもないことをぽつぽつと話した。
そのうちに政宗の返答がだんだん途切れがちになった。元就が気づいたときには、政宗は元就の肩に頭を乗せてすうすうと無邪気な寝息をたてていた。
小十郎が、バックミラーでその様子を見て微笑んだ。
「貴方といると、余程安心できるのでしょうな。そのように易く寝入ってしまった政宗様を久々に見ました」
「・・・わからぬぞ、片倉殿。こやつ、今日保健室では狸寝入りをして我を騙したゆえ。今も眠ったふりをしているのやもしれぬ」
元就の、すこし悔しそうな、意固地な声を聞いて小十郎は珍しく声を上げて笑った。
「それは申し訳なかった。ご安心召され、今は本当に眠っておられます。間違いありませぬ」
「ほう。言い切るか」
「この小十郎、無駄に長い間その方を見ておりませぬ」
元就はじっと、ハンドルを握る小十郎を見つめた。
「・・・大切にしておるのだな」
やがて小さな声で呟くと、小十郎は気づいて、それから深く頷いた。
「無論。・・・主であり、先代より預かった宝であり、誰よりも可愛い弟のような方ですからな」
「・・・伊達は、幸せ者よ」
小十郎からはもう、応えはなかった。



皆が皆、こんなに相手を思っているのに。通じていないことのほうが多いのは何故だろうと元就は思う。
そういう自分も、元親といつもすれ違っている。政宗に強く言える立場のはずもない。
元就は自分を心の中で哂うと、やがて政宗に倣って彼の頭に寄り添い、瞼を閉じた。
政宗の頭はぽかぽかと暖かく、いつだったか元親に自分もそう言われたことを思い出した。



(・・・伊達は)
“オレに、乗り換えないか”
真剣な眼差しで、昼間そう告げた政宗と、元就の横で幼い表情で眠っている政宗は、これまでならきっと同じ人物だとは繋がらなかっただろう。けれど今は元就はそのふたつの「政宗」をすんなりと受け入れることができる。
(色々な意味で、我と似ているな、確かに)
傍にいて安心できる相手という意味では、彼はすでにさほど元親と変わらない、近い位置まで来ているのだろう。
(・・・でも我らのそれは、“恋人”ではない。・・・伊達、貴様も気づいているのではないか?)
寧ろ、家族や兄弟に近い愛着のようなものかもしれなかった。互いがずっと前に喪ってしまったものを見ている。
そうして、鏡に映った正反対でありながらよく似ている、自分自身のようにも思えた。