キャラメルにリボン





(14)


元親は、もう目も合わせない。





生徒会の事務引継ぎが始まっている。
後輩たちと取りとめもない話をしている浅井たちと少し離れて、元就はファイルの整理をしていた。高等部1年次のときの文化祭のファイルが目に留まる。そういえば最初に長曾我部を認識したのはこの頃だったな、と元就は思い出した。半ば無理矢理、空いてしまったホールでのイベントの穴埋めに、元就がバイオリンを弾くことになって―――



「毛利は、どうする予定なのだ?」
唐突に呼ばれて、元就は我にかえって声のしたほうを振り返った。浅井がこちらを見ている。
「どう、とは?」
「進路だ。外部の大学入試を受けるのか?このままうちの大学に進学か?」
「・・・あぁ」
「まぁ、毛利ならなにを選ぼうと問題ないだろうが」
実のところまだ決まっていないので、元就は少し困って眉を顰めたところ、
「毛利サンは、俺と一緒に、国外逃亡」
政宗の声がして、いきなり肩をがしっと組まれた。元就は驚いてそうした本人を仰ぎ見た。政宗は、先日のことなどまったく覚えていないというふうに、以前と変わらない態度でにやりと笑った。
「一緒に帰ろうぜ、毛利サン。もうそろそろ終わりなんだろ?」
「・・・終わり、だが」
「タイミングぴったりだったな。オレも今、部活終わったとこだ」
「・・・」
待て待て、と浅井が立ち上がった。仕事がまだ済んでいないと小言を言われるのかと思いきや、浅井は別のことを口にした。
「伊達。留学するということか?」
「おう。少なくともオレは、そうするつもりだぜ。準備はしてるんだが、まぁあとはなるようになるだろ」
「それは・・・毛利と貴様が一緒に?」
浅井は腑に落ちないという表情だ。
元就は、浅井の問いは意図的に無視して、政宗に腕を離さぬかと低い声で言った。政宗は、ぺろりと舌を出すと、ようやく元就を腕から解放した。
「じゃあ、毛利サン行こうぜ」
「おい、毛利」
「浅井、皆、失礼する」
政宗に引っ張られるように元就も生徒会室を出た。





来訪者は重なるものらしい。
元就に続けて幾人かが帰り始めたとき、佐助がドアをあけて、じゃまするよと入ってきた。
「浅井の旦那ぁ。あんたのノートが俺様のかばんにはいってたんだけど。ノート入れ違ってない?」
「なに?」
「今日あったっしょ、代数の演習のさ。一緒に受けたじゃん」
浅井が慌てて確認すると、確かに佐助のものと入れ替わっていた。二人が交換していると、「猿飛、あったか?」と廊下から元親の声が響いた。浅井はふと顔を上げた。
「あぁ、あったよ。お待たせ。・・・っと、今日は毛利さんはもう帰ったの?」
佐助はさりげなく浅井に尋ねた。浅井は頷いた。
「帰ったぞ。つい先ほど、伊達と一緒に」
佐助はそれを聞いて、やれやれと肩を竦めた。
「・・・あーあ、ったく、行動が早いなぁ竜の旦那は・・・」
「そういえば、猿飛。毛利と伊達は卒業後は一緒に留学するとさっき言ってたが。そうなのか?」
「え?」
浅井の問いに、佐助は目を見開いてドアのすぐ外、廊下に立つ元親を振り返る。浅井も、同じように元親を見た。
元親は、黙って立っている。
「そうなの?旦那」
「・・・俺はしらねぇよ」
低く抑えた声に、浅井はやっぱりな、と言った。
「長曾我部が聞いていないなら私の勘違いだろう。伊達が勝手に冗談で言っているのかもしれんし」
佐助は驚いて、再び浅井を振り返った。
「・・・なんでそう思うわけ?」
「毛利がそんな大事な話を、長曾我部より先に伊達に話すとは思えんからな」
浅井の至極当然といった言葉に、佐助は思わずまじまじと浅井を見、それから、思わず笑ってしまった。浅井はむっとしたように佐助を少し睨んだ。
「なんだ。私の見解が何か間違っていると言うか?」
「いやいや。浅井の旦那すごいなぁって。たまにはいいコト言うね」
「・・・なんだと?」
「あぁ、褒めてんだからさ。怖い顔しないでよ。まったくそのとおりだよ、ほんとだって!」
自分のノートをかばんに入れて、佐助は生徒会室を出た。
一部始終を聞いていただろう元親は、じっと俯いている。
「浅井の言葉聞いた?」
「・・・」
「あんたたち、そう見えるんだってさ。どう、長曾我部の旦那?」
元親はふいと横を向いた。佐助は、やれやれと思いつつ、なぜか少し嬉しくなった。
「嘘みたいだよねぇ。最初あの部屋で毛利さんとあんた、すごい口げんかしてたの、俺様よっく覚えてるから」
元親は、俺も覚えてるさと心の中で呟いた。
忘れるはずもない。



元就は政宗と駅前の繁華街を歩いていた。夕刻の帰宅時間、学校帰りの学生や買い物客で通りも店舗も人と車でごったがえしている。
こうやって普通に帰るの久々だぜ、身軽でいいよな、と政宗は笑った。今日は小十郎がどうしても迎えに来れなかったらしい。
「・・・さっきの話だけどよ」
急に政宗の口調が変わって、元就は顔を上げた。
「さっき?」
「留学」
「・・・あぁ・・・」
「真面目に、どうだ。オレと一緒に、行かねぇか?入学は半年遅れるが」
「・・・」
「まぁ、大学行ってからでもいいんだが。アンタがいいって言ってくれたら、準備も勉強も一緒にできるし・・・」
政宗は、真剣な表情だった。だから元就も、真摯に考えねばと思った。
元親は、以前そのまま内部進学すると言っていた。幸村も、猿飛も、浅井も。
義母は、元就の好きにすればいいといつも言ってくれる。けれど先日の海外出張へ元就を伴って行ったこともある。知り合いがいるらしいロンドンのパブリックスクールをどうかとすすめられたことも一度ではないことから見れば、海外で勉強すると元就が言えば、それはそれで彼女はとても喜ぶだろうと思う。
期待されている。自分も、したいことがある。父や兄の夢が自分の夢でもある。
隣に立つ政宗も似たような境遇だ。政宗の提案どおりにして、何か問題があるわけではない。
ただ、元親とはこのまま疎遠になって終わるのだろう。
普通に同学年の友人として卒業して、別の場所で別の道を歩む。
元就は、指先で自分の唇に触れた。元親の感触がまだ残っている気がする。
忘れられるわけもない。



政宗が、ラジオの公開番組の人だかりを見つけたらしい。見てみようぜ、と言われて元就の手を引いた。
黙って元就はついていく。
駆け出しの女性アーティストが喋っている。時折ガラス越しに観覧している人々に笑顔をふりまく。いつもとかわらない、駅前の喧騒。
きっと明日も、明後日も、一年後も、さほど変わらないのだろう。
ついこの前まで、隣で立って、元就の手を引いていたのは白い髪の背の高い男だった。今、元就に語りかけるのは違う。この程度の違いは、町の変化という大きなうねりと比べたらなんてことないのかもしれない。
リスナーからの質問に女性アーティストが答えている。他愛のない恋話が耳にざわざわとこだまする。諦めないで想いを伝えてね、と、ありきたりな返答の言葉が響く。
くだらない、と思う。
そうとも、ずっと、なにもかもくだらない、つまらないことだと思って生きてきた。友人なんかいらない。利用できる者がいればいい、人脈はそのために作るもの。学校はもっと先に掴むべきもののための踏み石。早く過ぎ去ってしまえばいいとさえ思っていた。
そんな、色彩の薄い世界を見ていた目をあの男にある日突然、無理矢理塞がれた。彼は言った。
“いいか、つまらないことなんか、なにひとつねぇんだ。あんたがちゃんと見てないだけなんだ。俺が見せてやる”
彼が、どうだと手を離したとき目の前は全く違っていた気がする。人がいて、声がして、心が浮き立つような、明度の高い、賑やかな色と音の溢れる場所。立ち竦む元就の手を引いてくれたのはいつも、元親だった。
(今は―――いない)





「・・・だな。毛利サン?」
一人喋っていた政宗は、手をつないで隣に立つ元就を見た。俯く彼を覗き込む。そして息を呑んだ。
元就の白い頬は濡れていた。
表情は全く変わらず動かず、本人が泣いている事実に気づいているのかわからない。ただ涙だけがぽたり、ぽたり、落ちて、靴先をぬらしていく。
「―――毛利・・・」
「伊達、すまぬ。我は、帰る」
つないだ手はゆるりとほどかれて、政宗ははっとした。彼を再度自分のところへ引き寄せようと手を伸ばした。
けれど、届かなかった。



そうして雑踏の中に溶けるように消える元就の背中を、政宗はただ、声も出せず、突っ立って見送るしかできなかったのである。