キャラメルにリボン





(16)


大抵の場合、元親の英語の成績は決して良くはない。
今回のはいつに増して酷かった。答案を返されたときの、教師のイラついた声と表情をまだ覚えている。他の教科に比べてひとつだけが異常に悪ければ、つまりそれは授業を聞いてないとも取れるから、教える側としては勿論面白くないだろうな、と。元親にもそれくらいはわかる。
わかるが、どうしようもないことだって、ある。
普段ならば追試の前には政宗がつきあってくれる。最近はそれに元就も加わることも多かった。
でも今回は一人で乗り切らなければならないだろう。それくらい、わかっている。わかっているが、やりきれない気分になる。それも仕方ない。
別に喧嘩をしているわけではない。必要ならば政宗とは普通に喋れる。
元就とは―――



実際に触れてみれば元就からはさしたる抵抗はなかった。驚いてはいたようだが、それ以上に何が起こっているか理解できないほうが大きかったのかもしれない。
それでも途中から元就は確かに、控えめにだが反応を返してきていた。拒絶は無かった。それが嬉しくて場所も状況もなにもかも頭から飛んでしまった。あのまま二人だけの世界に没頭できたらどれだけ幸せだっただろう、でも哀しいと言うべきか幸いと言うべきか、元親は我に返れてしまった。目もろくに合わせず言い訳じみた弁解をして、謝って、逃げた。
その後下校時に政宗と一緒にいた元就は、眉を顰めて視線を元親から逸らせた。当然の反応だろうと元親は項垂れる思いだった。だから振りきるように、じゃあなとせいいっぱい明るく言った、つもりだ。
(とことんかっこ悪いってぇか・・・意味不明だぜ、ちっ)
情けないと思う。行為を後悔しつつ、でも謝って逃げてそれで終わりでいいのかと自問し続けている。
わかっていても、脚を何かに絡め取られたように動けないのも事実。



その土曜日午後はなんの予定もなかった。家で追試の勉強でもしようと元親はおとなしく帰路につくことにした。
廊下で幸村のHRが終わるのを待っているらしい佐助に出会った。いつか話してた団子を食べにいくのだと、佐助は肩を竦めて笑っている。
「毛利さんも誘うって真田の旦那はりきってたよ?旦那、無理せず一緒にきたらどうよ」
「・・・いや、マジで遠慮しとくわ。追試の勉強しなくちゃなぁ、英語」
「―――またかよ!?あんた、理数あんだけ出来るのになんで英語そんな出来ないわけ?」
「知るかよ」
憮然と応えると、元親はひとつ伸びをした。
「英語ねぇ。出来たら出来たで、親父みたく夢おっかけて家族ほっぽって海外行ったきりの、仕事に没頭する人生になんのか?いいんだか悪いんだか」
その独り言を聞いて佐助は、首を傾げて元親を見た。
「それは英語嫌いの言い訳じゃないの?」
「・・・うっせぇな。わかってるよ」
「ってぇか、旦那も親の跡継ぐ道なわけ?毛利さんや竜の旦那みたく?初耳だけど」
「・・・どうかな?」
元親は白髪を片手でかき混ぜて考えこんだ。
「親父は、自分で起業してるからな。あいつらんちみたいにずっと続いてる仕事なわけじゃねぇから、支える屋台骨のデカさがまるっきり違うだろ、跡を継ぐとか責任とか、感じる必要、俺にはねぇよ」
「そんなもん?親父さんはついで欲しいんじゃないの、やっぱり」
「・・・そりゃなあ。・・・けど」
煮え切らない返答に、
「ん?つまり、何だ、ほかにもっとやりたいことがあるってか?」
佐助の指摘は図星といえば図星で、元親は我知らず少し焦った。ぼんやりとしたささやかな夢はある、―――家族にも誰にも話したことは無いけれど。
言わねーよ、とだけ小声でぼそりと呟いたとき、幸村と元就のクラスもようやく終了したらしい。一斉に生徒たちががたがたと立ち上がる音がした。元親は、じゃあ俺は帰るぜと片手を挙げて歩き出す。
「とりあえず、やりたかねぇけど、・・・今は追試の勉強しとくわ」
「がんばってくれよ旦那!さらに再試験になっちまって、練習時間減るのはごめんだよ!」
佐助の、エールだか冷やかしだか苦言だかわからない言葉を背に元親は学校を出た。



―――そうして、自分の部屋に戻って、すでに小一時間。
一向に勉強ははかどらなかった。集中しようとしても、当然のように昼間のことが脳裏に浮かんでくる。
元就を縫いとめたときの無機質な壁の冷たさと、反して腕に互いの制服のシャツ越しに感じた体温の落差。驚愕に見開かれた一重の眸。舌先の甘さも。
諦めるために詫びたのに、これでは意味がないと元親は深い溜息をついた。
結局、散歩に出てくると家族に言い残して元親は一人で外に出た。自転車に跨って特に行き先も決めずペダルを漕ぐ。
しばらくそうして走って、気づけば随分遠くに来ていた。元親はコンビニに入ると適当に飲み物と菓子を買い込んで外に出た。
「―――どしたのさ、旦那!」
呼び止める声に元親は振り返る。佐助だった。幸村も一緒で、まだ制服姿の二人に、元親はようと笑顔を向ける。
「こんなとこでなにしてんのよ!勉強するんじゃなかったのかい、旦那」
「さっきまでちゃあんとしてたさ。気分転換に散歩中」
「随分遠出の気分転換だねぇ」
「ちぇっ、―――お前らこそ、随分ゆっくりだったんだな、団子食ってたんだろ?美味かったか?」
元親が言うと、幸村がにこにこして大きな声で喋り始める。
「美味かったでござる!今日は三人で偵察して正解だった、次の機会には長曾我部殿もぜひ」
「・・・偵察?」
「あー、気にしないで。竜の旦那ほっぽってきた言い訳だから」
「そ、それはちがうと言ったぞ、佐助ッ」
二人らしい、いつものやりとりを聞いて、元親は笑った。
幸村が、そういえばと元親を見上げた。
「元就殿は、長曾我部殿のところに行っておられぬのか」
「え?なんで」
元親はその名前にどきりとしたが平静を装い問い返す。幸村は佐助を今度は見上げた。
「だって先ほど、佐助は元就殿に、長曾我部殿の英語を手伝ってはどうかと言って―――」
「ちょっ、旦那!!」
佐助は慌てて幸村の口を塞ごうとして、勢い余ってびしゃんと幸村の顔面を掌ではたいてしまった。幸村はぽかんとした。佐助は慌てて謝っている。
「ごめん、ごめん!ちょっと俺様としたことが慌てちまって、――大丈夫、痛くなかったかい?」
「・・・痛かった・・・」
「ご、ごめんって・・・」
二人のやり取りを見ていた元親は、お前でもそんなオロオロになるのなぁ、と佐助をまじまじと見つめて言った。佐助ははぁとひとつ溜息をつくと、ったく誰のせいでこんななってると思ってんの、とぼやきながら幸村の頬をよしよしと撫でている。
「・・・で、毛利さん、あんたのとこ行ってない?会ってないの?」
「・・・来てないけど」
「そっかぁ。・・・途中で帰ったから、俺様もてっきりあんたのとこ行ったんだと思ったんだけどね。用思い出したとか言ってたし」
「・・・まぁ・・・色々とすまねぇな、猿飛」
「まったくだよ!」
佐助が少しばかり呆れたように言うと、幸村が今度は、では政宗殿のところか?と呟いた。
佐助は幸村の言葉に、あれ?と口元を掌で押さえて考えて、元親をそっと窺い見た。元親はじっと幸村を見ていた。
「・・・猿飛。お前、追試のこと以外に毛利に何か言った?のか?」
佐助はぎくりとした。
「い、いや、なんも。・・・」
「・・・おい・・・」
「ほんとだって!・・・ただ、ちっとばかし気楽に、思うとおりにやってみてもいいんじゃないかなって・・・後先考えずにさ」
「・・・」
「だから竜の旦那のとこに行く理由はない・・・だろ?えーと・・・あれ?」
「―――やっと政宗を選ぶ気になったんじゃねーのか」
急に素っ気無くなった元親の声に、佐助は、えっ、と元親を見上げた。
「えらぶ?何を」
「そりゃ、友人としてのベストポジションだろ」
「そんなわけない・・・って、・・・もしそうなって、あんたはそれでいいのかよ」
「いいんだよ。・・・俺が、政宗を選べって言ったんだから」
佐助は元親の言葉を二秒くらい反芻して、意味を理解すると我知らず叫んでいた。
「――はぁ!?あんたから言ったって!!?」
もうわけわかんないよ!と佐助は頭を抱えた。元親は視線を紫色に変わりつつある空に移した。それから、じゃあ、俺帰るわ、と、ペダルに脚をかけた。
佐助は、ついに元親に、怒鳴った。
「いーかげんに意地張るのやめとけよ、旦那っ!今からとっとと竜の旦那のとこ行って、毛利さんいるなら前言撤回してこいって!」
「・・・やだよ。かっこわりぃ」
「そーやって自分ひとりで勝手にいじけてかえって周り引っ掻き回して、よっぽどかっこ悪いでしょうが!好きなんだったら好きってだけでいーじゃんよ、もう!!!ぐだぐだ考えるのあんたらしくないって!!!」
元親はちらりと佐助を背中越しに見て、ありがとな。と言って笑う。ペダルを漕ぐ背中はすぐ小さくなった。



佐助がその背中を見送ってがくりと肩を落とす。幸村は黙ってじっと二人のやり取りを見ていたが、佐助、と話し掛けた。佐助は、返事をして幸村をふりかえると、ふと気づいて尋ねた。
「旦那、なんで毛利さんが、竜の旦那のとこに行ったかもしれないって言ったのさ?なんか言ってたのかい、あの人?」
幸村は、きょとんと佐助を見上げた。
「いや?今日の団子偵察を政宗殿に報告に行ったかと、少し思っただけだ」
「・・・・・・はぁ!!?」
「毛利殿はあの団子をいたく気に入っておられたからな。・・・あ、でも、そうしたら政宗殿に、先に来たことがバレてしまうか。まぁばれても構わぬのだが・・・どうした、佐助?具合が悪いか?」
佐助は、頭を抱えて座り込んでいた。
幸村は心配そうに、自分もしゃがんで佐助の顔を覗き込む。
「佐助。もしや、然程に、幸村が政宗殿に黙ってきたことを呆れているのか?」
「いや、そうじゃないんだってば・・・」
「すまぬ、確かに仲間はずれのようで潔くなかったな。・・・幸村、これから政宗殿にメールを送って詫びておこう」
幸村は携帯を取り出すとメールを打ち始めた。
佐助は、その様子を横目で見ていたが、やがてしゃがんだままぼんやりと空を見上げた。先ほどの元親のように。
「・・・まぁ、なるようにしか、ならない、ってか?」
独り言は、幸村の、元就殿やっぱり政宗殿のところらしいという声にかき消された。佐助は顔を上げた。
「え。マジ?」
「うむ。団子のことは怒ってないと言っておられる、よかったな、佐助」
「いや、よかったなって、俺様関係ないだろ・・・黙って行ったのはあんただってば・・・」
にこにこしている幸村に脱力しながら呟いた佐助は、けれどふと顔を上げる。
「・・・ほんとに毛利さんそこにいるんだ?」
「うむ。そうらしい。やはり今日のことを報告に行ったのだろう、政宗殿も知っておられるからには」
「それだけならいいけどさ・・・」
「さっきから、佐助は何を心配しているのだ?長曾我部殿と元就殿のことか?」
幸村が、真面目な顔で問いかける。佐助は思わずこくりと頷いた。
「なーんか、ぎくしゃくしちゃってるじゃん?大丈夫かなって」
「あのお二方は親友だ。先ほど元就殿もそう言っていた。幸村は事情はよくわからぬが、我らがさほど心配しなくてもきっと大丈夫だ」



無邪気に、けれど力強く言う幸村の顔を瞬きもせず見つめて、佐助はやがて深い息をついて立ち上がった。
「・・・そうだね。あんたの言うとおりだ。竜の旦那には、毛利さんは団子のこと報告に行ったんだろうね、美味かったって。だから今度は一緒に行こうぜって。・・・よし、そういうことにしておきましょうや」
自分に言い聞かすように呟いて、佐助は幸村の手を引いて立ち上がらせた。
「・・・そのついでに、毛利さんが、自分でどうしたいか決めたらいいことだよな」
「佐助?」
「なーんでもないよ。・・・なぁ、旦那は、長曾我部の旦那も、竜の旦那も、毛利さんもすきだろ?これまでも、これからも」
幸村は、その問いかけに呆けたように佐助を見つめていたが、すぐに破顔一笑、勿論だと大きく頷いた。佐助も頷いた。あの三人の関係が微妙に変化しても、それは三人の問題だから。自分たちは変わらず同じようにあの三人それぞれとつきあっていきたいと思う。
幸村が、佐助のシャツの袖を引いた。
「・・・一人忘れているぞ佐助」
「ん?誰」
「佐助だ。幸村は、佐助のことも大好きなのだ。いつも世話ばかりかけているが、感謝している。本当だ」
大真面目な口調に、佐助はあっけにとられて幸村を見つめた。
それから、額を掌で押さえてくつくつと笑った。あぁ、ほんとかなわないなぁ、と。
「ありがとさん、俺もあんたが大好きですぜ。・・・さぁ、帰ろうか、旦那」





(わけわかんないのは、俺だ)
元親はペダルを漕ぐ。
(自分で勝手に引っ掻き回して、か・・・確かにここ最近は、そうだな。かっこわりぃ)
(俺が、最初から自信がないから、駄目なんだろう。元就にも政宗にも、猿飛にもイライラさせちまってるな)
(どうすべきか、じゃなくて、どうしたいか、だけを考えれば―――俺は)



携帯がメール着信を知らせた。
自転車を止めて、元親はポケットから取り出して画面を見て、―――息を呑む。
「っ、くっそ、あの野郎!!!」
このタイミングでこんなメール送ってきやがって、と。携帯をポケットにねじこむと元親は方向転換した。
政宗からだった。



『毛利サン、喰っちまっていいか?』



彼特有の悪戯なのか、それとも本気なのか、真意は元親にはわからない。
でも、さっき幸村たちに出会ったことも、佐助の言葉も、このメールも、自分の背中を押してくれていると。たとえ本当は違っても、今はそう考えるべきだと元親は思った。このまま動かなければ、本当に“かっこ悪い”。もう遅くても、元就にすでに愛想ををつかされているとしても、やっぱり。



(俺は、元就が、好きだ。)