キャラメルにリボン





(18)


伊達家の威風堂々とした長屋門を自転車に乗ったままくぐって、元親は玄関へ続く階段前で飛び降りた。スタンドを立てるのももどかしく、インターホンを押す。すぐによく知った小十郎の声が応えた。長曾我部です、と名乗ると扉は重い音をたてて開いたが、小十郎が遮るように立ちじっとこちらを見つめる。
元親は、政宗の部屋のある別棟の方向を見た。
「政宗が、俺を呼びました」
小十郎が問う前にそう告げた。小十郎は一瞬眉を顰めたが、すぐに、ではと言って上げてくれた。靴を脱いで、元親は回廊のような縁廊下を走った。別棟はエレベーターがあるのは知っていたが階段を駆け上がる。ずっと自転車を漕いできたせいか、二階から三階への踊り場で一瞬脚がもつれてバランスを崩し、手をついた。冗談じゃねぇ、と呟いて立ち上がる。
(あんたを、渡したくないって、・・・ちゃんと、伝えないと―――)



「毛利ッ!」
駆け込んできた元親を、床に寄り添うように座り込んでいた二人は顔を上げて同時に見つめた。元親は息を切らして、けれど真っ直ぐに二人のところへ近寄る。
エレベーター使えよ、この家初めてじゃねぇだろと政宗は言ったが元親は返事をしなかった。元就の目の前にしゃがみこんだ。
「毛利、俺は、・・・―――?」
元就の頬に鈍い痣のようなものを見つけて、元親は腕で右目を擦った。汗が目に入ってよく見えなかった。何度か瞬きをして、やはりその薄い色が疵に違いないと理解して、口を―――何か言わなければ、と開けた。元就の切れた口角と、取れた釦が元親を哂うように視界に飛び込んだ。
元親は政宗を見た。腕が我知らず彼に伸びていた、―――胸倉を掴み上げる。政宗の身体が僅かに浮いた。
「・・・政宗。殴るぞ。言いたいことがあるならすぐ言え、今すぐだ」
政宗は、ふんと鼻で哂った。
「―――バッカじゃねぇのか。誰がてめぇにこの状況を教えてやったと思ってんだ、あぁ?」
「なんだと!?」
掴んだまま壁に押し付ける、右目と、左目が互いに互いを視線で刺す。
「俺は、お前なら毛利を――なのに、」
「フン、てめェの甲斐性無しをオレのせいにするか?まず此処に毛利サンがいる理由を考えてみろよ、元親」
「ッ、てめェ・・・」
「――やめよ!見苦しい!!」
元就の声に、二人はっと顔をこちらへ向ける。元就は立ち上がると、元親を、文字通り政宗から引き剥がした。
「長曾我部。伊達は何もせぬ。伊達に怒るは筋違いぞ」
「・・・っ、何言ってる?じゃああんた、その顔、それに、服も」
「何もなかった!何もだ!」
激しくかぶりを振る元就に、元親は目を瞠る。
口元が歪んだ。
奥歯を噛み締め、元親は俯いた。
「・・・なんで政宗を庇う?・・・俺は・・・来ないほうがよかった、のか?」
その言葉に元就は元親を睨み上げ、俯き、唇を噛む。
肩が震えた。
「・・・き・・・貴様はッ・・・」






“―――”








「・・・おいおい・・・」
政宗は目の前で起きた光景に呆気に取られた。
元就が元親を「殴った」のである。平手打ちではない、拳で。
元親はもっと、何が起こったかわからないという表情で元就を食い入るように見つめる。やがてゆっくりと頬に手を当てた。
元就は、俯いて、呼吸が乱れていた。そんな乱暴な行為には慣れているはずもない。握り締めた彼の拳の皮膚のほうが、その手が打ち据えた元親の頬よりも赤く腫れている事実が痛々しかった。
―――元就が顔を上げる。
「いいかげんにせよ!元はと言えば・・・貴様がぐずぐずと。貴様が・・・明らかに貴様が悪い!!」
「・・・毛利、俺は、」
「待てと貴様は言ったな。我は待ったぞ。待って、待って、―――一体いつまで待てと言うか!?我をどれだけ待たせれば気が済むのだ!?」
「・・・すいま・・・せん」
謝罪の言葉は出るべくして出たのだろう。あとは元親は、ただ立ち尽くし、自分を睨み上げてくる元就を、注視するばかりだった、なんと言えばいいかわからない。
やがて政宗は吹き出して笑い始めた。
二人がこちらを不審な表情で見ている。構うもんか、と思った。
膝をかかえ、顔をうずめて、笑って、笑って、笑って。ほんの少し涙が滲んだ。寂しさも負けた悔しさもあったが、何より嬉しいと思えた。元就が元親を殴ったのは、勿論彼自身の元親への腹立たしさもあったろうが、何よりこの場で、政宗の代わりに、政宗のためにそうしてくれたのだと確かに信じられたから。
だから嬉しかった。
「あぁ、―――流石、毛利サンだ。オレが惚れるだけのことはある・・・元親をグーで殴るとはなァ!」
笑い続ける政宗の横で元親は頬をさすりながら少しばかりむくれた表情で俯いている。元就は黙ったまま元親に近づくと、自分が今まさに殴った彼の頬に今度は掌を当てた。謝らぬぞ、と掠れた声が言う。元親は、ひとつ息を吐き出すと元就の頭をぽんぽんと掌で撫でた。それから、苦笑した。
「・・・遅くなったのは俺だもんな。謝らなくていい」
元就は元親のその表情を見つめていたが、今度は床に座ったままの政宗のところへ近づいた。
政宗は膝に埋めていた顔を上げた。手が差し伸べられる。
政宗は素直に元就の手を取った。雨の日に最初に手をつないだときと同じようにひやりと冷たくて乾いた、けれど優しい手だった。あれからまだ何日も経っていない―――いや、もう何日も経った、だろうか?此処まで来るのにはその時間は多すぎたのか、それとも少なすぎたのか。
「伊達。騒がせてすまなかった。・・・我らは、帰る」
複数になった一人称に気づいて、政宗は静かに吐息をつく。立ち上がると、自分の壁際にある呼び鈴を押した。
やがて扉がノックされ、小十郎が静かに現れた。
「送ってやってくれ。―――二人を」
小十郎は、承知、と短く応えた。
だが、元親は、首を横にふった。
「自転車で、帰ります」
自転車?と元就が見上げる。元親は、じっと元就を見つめ、それから幾分照れたように視線を逸らして二人乗りすりゃ大丈夫、送ってくぜと言った。そういえば今まで一度も乗せてもらったことはない。
政宗はじっと二人を交互に見ていたが、やがて頷いた。小十郎が、では門までお送りしましょうと言って先に部屋を出て扉を押さえて二人を待っている。
元親は扉へ向かった。部屋を出るとき政宗に肩越しに、世話になったな、と言った。政宗は肩を竦めて、そうして、言った、―――以前と変わらぬ調子で。
「てめェ、安全運転しろよ。毛利サンに怪我させたらただじゃおかねぇからな!」
「そんな間抜けなことするかよ!」
言い返して、元親は軽く右腕を上げた。
元親の背中を追って行く元就を、政宗は呼び止めた。
元就は歩みを止めた。
ゆっくりと元就に近づくと、耳元に囁いた。
「・・・元親がまだぐずぐず言ったら、知らせて来い。今度はオレがあいつを殴ってやる」
元就は政宗を見つめて、そのあと静かに笑って頷いた。
きれいな笑顔だ、と政宗は満足した。少し躊躇して、けれど再び耳元に唇を寄せる。



「・・・好きだぜ、毛利サン。嘘じゃねぇんだ」



元就は、政宗の眸を見つめ、やがて同じように政宗の耳元に唇を寄せた。
「我も、貴様が、―――好きだ」
響いた声音に、政宗は瞬きをして、・・・それから、小さく笑った。
嬉しくて、少しだけ哀しい。友人としての「好き」それ以上でもそれ以下でもないとわかっている。
振り切るように政宗は、いたずらっぽく、いつもの政宗の口調で尋ねた。
「毛利サン。キスして、いいか」
「・・・それは」
少しばかり困った表情の元就に、政宗は笑って、かぶりをふった。
「ちげーよ、・・・此処に」
元就の頬を軽く人差し指で押す。元就が、少し考えた後頷く。
政宗は、ゆっくりと唇を押し当てた。
「・・・挨拶だ」
「・・・」
別れと、そして始まりの、とは言わなかった。





小十郎が玄関での見送りをすませて部屋に戻ってきたとき、政宗は窓の外を見ていた。
「政宗さま、宜しかったのですか」
その問いかけに、政宗は、いいわけねぇだろうが、見事に負けちまったんだぜと自嘲気味に応えた。小十郎は黙っていた。最初から答を求めたわけではない。
政宗は、口を開く。小十郎に聞かせているのではない言葉が、堰を切って溢れる。
「悔しいし、腹も立つし、・・・元親がまたぐずぐず言って、このまんまアイツら仲違いしちまえばいいって思ってるさ!・・・かっこわりぃな、オレは。だってそうだろ、うまくアイツらくっつけるお膳立てしちまったようなもんだ、これじゃ」
大袈裟に両手を拡げるジェスチャーをして、ばん、と目の前の窓ガラスに両手をついた。
「元親なんかの何処がオレよりいいってんだ?ha,あいつは、意気地なしだ、毛利さんのこと好きでしょうがねぇくせに、もっと近づいて、そうしたらどうなるか怖いんだ、毛利サンも、アイツ自身も。誰も傷つけないようにだと?“毛利が政宗と一緒のがいいって言うなら、自分は引いてもいい”、だと?馬鹿じゃねぇのか。オレだったら毛利サンを全く傷つけないとでも思ってんのか。人と人が関わって、全く傷つかないなんてこたあるわけねェだろうがよ!」
言葉と一緒に、想いが溢れる。
「オレがアイツの立場だったら、もっと強引に・・・あの人が嫌がったって、ものにしたけりゃきっとそうしたろうぜ。アイツ自身が、傷つけるのが嫌なだけだ。いつもそうだ、誰に対してもそうだ。優しすぎるんだ。だから・・・そうやって傷つけまいとして、変な遠慮して、実際は余計に相手に・・・毛利サンに哀しい思いをさせてるのにも鈍くなりやがって。巫山戯んな。自分一人、いいかっこしようなんざ、甘いんだよ!」



「・・・それでも」
窓ガラスに額をつけて、笑う。
「あの人がそれで泣くのはやっぱり哀しいから、うまくいってくれりゃいいなって、・・・思ってるのも本当なんだぜ。」
小十郎は、黙って聞いていた。
「元親は、優しい。自分より他人を優先する。オレには無いものだ。・・・ずっと誰も寄せ付けなかったあの人が、元親だから心を開いたのだって、よくわかってる、・・・オレは、後を追いかけただけだ。あぁ、わかってる。もっと早くあの人とここしばらくみたいに話せてたら何か変わってたかも、て思ったこともあったが、そんなわけない。・・・オレのほうが、元親よりずっと前からあの人を知ってたくせによ。知ろうとしなかったのはオレ自身なんだから」



「だからオレは、アイツに、勝てた気がしたことがねぇよ。・・・いつも。」
いつも。誰に対しても、優しい。
政宗に対してすら。
政宗に嫉妬しているはずなのに、政宗にはっきりと対抗することもしなかった。
友達だから。
(だから、奪いきれなかった)



「・・・元親に偉そうになんざ言えねぇな。オレだって、甘い。問答無用で、奪って、オレのもんにしときゃよかったんだ。本当なら」
「・・・そんなことは、ありませぬ。小十郎は、そういう優しい政宗様が好きですよ」
小十郎は初めて政宗の言葉に応えた。
「・・・ふん。優しくなんかねぇよ」
政宗は、口の端を引き上げて皮肉かよ、と哂った。
「オレは、わがままな半人前の若造ってだけだ。お袋に偉そうになんざ、言えねぇよ。そっくりだ、人のもの欲しがってばかりのとこも、プライドばっか高くて、・・・とっくに自分のものじゃねぇって、気づいてもまだ信じたくなくて、未練がましいとこも。」
「・・・そうですね。そして意地っ張りで、本当は相手を心配しているのに、そう素直に言えないところも、奥様と政宗様は、似ていると思いますよ」
政宗は、顔を上げた。振り返り、笑おうとして、失敗した。
口を引き結ぶ。小十郎につかつかと近づいて、ぎゅっと抱きついた。
こうしていると子供の頃の―――母に置いていかれて泣いていた頃と変わらないと、小十郎は思った。
でも、あの頃と違うことが確かに、ある。
「小十郎。オレ、本当に、あの人が欲しかったんだ。ただのダチじゃなくて。お前や、従兄弟たちと同じかそれ以上に、あの人といると安心できた。なんでだろうな?この人はわかってくれる、って」
「・・・小十郎も、そう思いますよ」
何故だろう、元就といると、元就をとおして自分がもっと、はっきりと見えた。
「最初は氷みたいな面で・・・いつも人を見下して・・・軽蔑してた。でもそれだけじゃなかった」
「最初は興味半分だった。でも、付き合ってみたらどんどん面白くなって、わかんねぇもんだと思った」
冷たいと思ったのは感情の起伏を表すことを知らないから。必要以上の言葉を発する意味を理解していないから。
実際は笑うことも、人を思いやることも彼は知っていた。
そういう個性もこの世には存在するのだと、彼を知って初めて政宗は理解した。
仮面の種類が、政宗と元就は違うだけで、同じなのだと感じていたからこそ。彼を欲しいと思った。



でも、何も見ていないと思っていたその目が、常にたったひとりの誰かを見ていることも。
付き合っていくうちに、さらにどうしようもなく思い知らされた。



「いっそあの人を捕まえてとじこめて、ずっと一緒に暮らしたいと思うくらいに、気に入ってた。変だろう」
「いいえ」
「おかしいに決まってる、・・・でも好きだ。ダチとしても、憧れの対象としても、なァ」
「はい」
「・・・あぁ、元親なんざ、あんな優柔不断なやつ、フラれちまえ!フラれちまえばいいんだ。そうしたらオレ、何度断られても、たとえあの人がオレを嫌っても、チャンスある限りきっと傍にいてやろうと思うぜ。オレだって、きっと、元親みたいになれるはずなんだ」
「はい」
「でも、やっぱり、あの人がいちばん・・・満足できるように・・・なってもらいたいんだ。・・・ほんとはオレがそうしてやりたいと思うが、オレじゃなくても、あの人が笑うなら」
「・・・はい」
「くそッ。オレ、何を言ってるんだ?・・・」
意図せず、元親と同じことを言っていることに、同じように他者を気遣っていることに、政宗は気づいているのかいないのか。
小十郎は優しく微笑んで、政宗の髪を撫ぜた。昔のように。



「チクショウ。・・・オレのこと、情けないって、笑ってるだろう?小十郎。呆れちまったか?」
「いいえ。とんでもない。毛利殿に感謝していますよ。・・・成長されましたな」