こころのいろ





唖然と見上げる元親を、うんと体を折り曲げて覗きこんでいた元就は、いつしか四つん這いになって元親ににじり寄る。元親はじりじりと後ずさり、―――文字通り逃げた。
暫くの間もなく、元親は壁際まで到達し、背中がこつんと柱に当たった。もはやそれ以上後退できず、元親は近寄る元就を見つめてごくりと唾を飲み込んだ。
元就は四つん這いのままずんずん元親に近寄り、またさらに面を、これでもかと元親の鼻先に近づけてにこりと綺麗な笑みを浮かべた。
「どうした。我が貴様の言うなりになってやろうと申し出てやっているのだ。嬉しくないのか」
「い・・・いや、ええと、」
「ふむ。・・・何故先ほどからそのように我から逃げるのだ。―――“元親”?」
元親は眼を瞠った。
目の前にいる、“現在の毛利元就”は、出会って以来、彼のほうから元親を諱で呼んでくれたことは一度もない(呼んだのは少し前、例の媚薬騒ぎで元親から呼べと、抱きながら誘ったときだけだ)。
けれど、この面と、笑顔と、呼びかけには、元親は覚えがある。すでに過去の話だと元親自身が心の奥にしまいこんだことでもあるが―――何故なら、もしもここにいる“元就”が元親の疑う人物なら・・・その相手は“元就”の内側に溶け込んで在る。そうして今の“元就”をつくっているはずだったから。
二度と現(うつつ)に出現するはずはなかった。
(・・・そのはず、だろ?あいつは消えてしまったんじゃなかったのか?毛利とひとつになって―――)
元就は元親の逡巡を意にも介さず、ふふ、と小さく楽しそうに笑った。目元は相変わらず朱に染まっている。とろんと目が潤んでいる。元親は乾いた唇を湿らせるように、そっと舌で舐めて、声を出した。
「おい、・・・お前、誰だ?」
「―――誰、だと?」
非常に不満そうに、元就はむうと膨れ面をした。そうして、いきなり手近にあった徳利を掴むと、元親の頭から中の酒をとくとくと元親の頭から勢いよく、ぶちまける。当然のようにびっしょり酒に濡れて、元親は呆気に取られて目の前の男を見つめるしかない。
けらけらと笑うと、元就は空の徳利をぽいと背後に投げ捨てた。
「水も滴るなんとやら、だな。元親」
――そんな言い方は普段の“毛利”ならば絶対にしない。元親は胃が痛くなるような感覚に襲われた。おかまいなしに、元就はにやりと笑う。
「なにをそんなに驚いて、怯えておるのだ?元親?」
「・・・い・・・いや、その」
元親は阿呆のように口をぱくぱくさせた。そのさまが可笑しいのか、元就はやはり子供のようにけらけらと笑うのである。どう見ても普段の元就とは思えず、元親はようやく意を決して、口を開いた。
「・・・あんた、・・・サンデー?なのか?」
元就の笑い声が、ぴたりと止まった。
じろりと、元親をねめつけて、無言である。
元親は、そろそろと両手を元就の―――サンデーのほうへ伸ばした。肩を掴むとそっと揺すってやる・・・
「サンデー?俺だ、わかるか?・・・なぁ、なんであんた、此処に出てきたんだ?あんたはもういなくなって、・・・二度と会えないと思っていたのに、・・・そうじゃなかったのか?なにかあったのか?」
できるだけ優しく訊いてやる。
彼が出てくるということは、“毛利元就”の存続にも関わることだったから、元親は真剣だった。“元就”は、じっと元親を見つめているばかり。





「―――下衆が!!」





一閃、元親は“元就”に思い切り頬を張られていた。火花が散るかと思うほどの痛みに、元親はもんどりうって転がり、したたかに後頭部を壁にぶつけた。
「―――痛ってェ!!!なにしやがる、サンデー!!?」
張られた頬より痛む後頭部を擦りながら、元親は起き上がった。刹那、思い切り大腿部を踏みつけられた。
「うおッ!?・・・あんた一体、何考えてんだ!?痛ェだろうが!!!この足をどけ―――」
「ふん。サンデー、だと?・・・誰だそれは?貴様の過去の妾か、元親」
「―――は?」
かえってきた低い声に、元親はぽかんとした。
大腿部を踏みつけていた元就の足は、今度はいきなりがつんと元親の脇腹を蹴る。それこそ思い切り、である。
「痛ッ!!!・・・おい、いいかげんにしろよこの野郎ッ・・・黙ってりゃ調子にのりやがって!」
「それはこちらの台詞よ。我を見て他者の名を喜び呼ぶとはどういうことだ。疾く説明するがいい、長會我部」
腕組みをして元親を見下ろす元就は、いつの間にか呼び名を元に戻している。元親はいよいよわけがわからなくなって、元就の表情をうかがった。今朝からのままの、元親が選んだ女物の着物を着て、仁王立ちで元親を見下ろすさまは迫力もあったが、どこか滑稽でもあった。
「ええと、・・・あんた、サンデーじゃないのか?」
おそるおそる、再度確認する。
むしろサンデーでないならば、それはそれで問題のような気もしたが。果たして元就は、眦をつりあげた。
「だから、誰なのだ、それは?・・・ふむ、・・・さては貴様、我にこの着物を着せたも、その妾ゆえか」
「・・・はぁ?妾?さっきからあんた、何いってやがるんだ」
この“元就”はどうやらサンデーではないらしいと少し安堵してみたものの、状況が全く見えず、元親は眼を白黒させた。
と、元就は、ぺたりとそこに座り、俯いてしまった。元親が驚いているあいだに、ことりとそのまま、畳の上に転がってしまう。
「お、おい、・・・毛利?毛利だろ?大丈夫か、あんた?さっきからおかしいぞ、なぁ?」
ようやくいつもどおりに名を呼ぶと、ちらりと視線が元親に流れてきたが、すぐにまた伏せられてしまうので元親は困って傍らに近寄ると、畳の上に転がる元就の肩をゆすった。
「ちょっと、落ち着こうぜ。俺もあんたも、・・・なにがどうなってんだ?毛利、あんた、自分が誰か言ってみてくれよ」
「・・・知らぬ」
「おい、なに馬鹿なこと言ってんだ?」
「阿呆は貴様だ。・・・何故我を別人の名なぞで呼んだ」
「―――」
元親は、じっと元就を観察した。
・・・そうして、サンデーに似ていると間違えて、当たり前だと気付いた。
元就は、明らかに拗ねているのである。



「ふん、気に入らぬ。貴様はいつもそうだ、肝心のときになると逃げる・・・」
元就はぶつぶつと口の中で呟いている。
「一体なにがしたいのかわからぬ。貴様を信じろと言って我の境界にやすやすと入ってきたくせに。伊達の屋敷で散々に衆目の前で恥をかかせおって」
「・・・おい、毛利?」
「なのに、いざ戻ってみれば何事もなかったかのようだ。所詮貴様にとっては、我なぞ貴様の部下どもよりさらに下の値打ちしかなかろうからな。」
その言葉を耳にするや、
「・・・はぁ!?おい、おい!あんた、今までなに聴いてやがったんだ!?」
元親は呆れると同時に焦った。
「俺が政宗に、あんたについてどう説明したか、ちゃあんと聴いてたんだろ?だったら、意味はわかるだろうが!?なんであんたが値打ちないとか、・・・いや、野郎共と比べてどうこうじゃねぇだろ。あんたはあんたっていう一個きりの値打ちもんなんだぜ、なぁおい」
一生懸命、元親は諭した。
そして同時に、じんわりと胸の奥が温まっていくのも感じている。
おそらく今まで、一度も聴いたことのない、毛利元就の本音を今、聴いていると思うと嬉しかった。
元親は、横目で畳に転がった徳利を見た。
(サンデーに戻ったんじゃなくて、・・・酒のせいか?)
(だとしたら、こいつかなり酒癖悪いっていうか、・・・サンデーも在る意味こいつの性格の一端だったってことか・・・まぁそれならそれでいいんだが)
考え込む元親の傍で、元就はまだ横たわって膝を抱えたまま、口の中で文句を言っていた。
「こんな恰好もさせて、さんざんに思わせぶりなことを言いおって。・・・それが、結果は、昔の妾に我が似ていたということか―――」
「―――わあぁ!あんた何言ってやがるんだ!?おい待て、そりゃ間違いだ、・・・いや完全に間違いでもねぇが、でも他人ってわけじゃねぇよ!!どっちみちあんただろうが!!」
思わず元親はわめいていたが、元就はさらに頬を膨らませた。
「それみよ。我はサンデーなどという者ではない。誤魔化すとは情けなし」
「いや、だからちがうって・・・」
どうにも説明不可能である。元親はほとほと困り果てて額に手をあて、深いため息をついた。その間に、元就は起き上がると、ゆらゆら揺れながら、元親をじっと見つめて口を開いた。
「惚れているとは、・・・自由な言葉よな。長會我部。貴様の場合、どうとでも受け取れる。誰に対してもそう言う」
「なっ。」
元親は眼を剥いた。
「馬鹿言うな。・・・惚れるってのぁ、そうそう簡単に使う言葉じゃねぇ」
「伊達に、言われた」
唐突に話が変わって、先が読めずに元親は黙った。
元就は俯いた。女物の着物はすでに着崩れて、襟元から白い項が見えて元親はどきりとした。
気付かず、元就は俯いたまま呟く。
「―――我は、・・・貴様にふさわしくない、と」
「・・・!!!」
元親は、息をのんだ。
自嘲するように、小さく元就は笑った。



「尤もな話だと思わぬか。・・・我のような醜い男は、貴様に相応しくないそうだ。あやつめ、言いおる」
「・・・毛利、」
「貴様が我の扱いに困り果てているのがよくわかる。これまでずっとそうだった。よく、わかるが、」
元就は言葉をきった。
面を上げて、しげしげと元親をみつめ、首を傾げた。
「わからぬのはむしろ我自身よ。・・・長會我部、貴様と」
元親を、ゆっくりと、細い指先が指した。
「・・・今は、共にいるのが、どうしてか心地よい。」
「―――」
「貴様に疎んじられても。長く共にいても、他の者のように名を呼ばれることすらなくとも」
「お、おい、毛利ッ」
もどかしく、元親は元就を抱き寄せた。元就はまだ、ひとり、口の中で呟いている。
「・・・貴様など気に入らぬ。雲泥万里、我と貴様は合うわけがない」
「毛利、おい、俺の話も聞け」
「貴様の国元でのやり方も、他者との関わり方も、我は何もかもが気に入らぬ。理解もできぬ。貴様とてそうであろう、だから我に意見する、我らはぶつかる」
「・・・毛利、なぁ・・・」
ふと、元就は寂しそうに笑った。元親は何も言えなくなった。
「所詮我は、なにも信じられぬ。・・・貴様が本当は我をどう思っているかなど誰にもわからぬ。我の体を抱いたと以前言ったな、・・・そんなこと、我は知らぬ。覚えておらぬ。貴様の嘘ならばそれまで、本当だとしても貴様が一方的に我を慰み者にしただけのこと」
(・・・えぇ!?)
元親はその言葉に蒼褪めた。
(お、・・・思い出してたんじゃ、なかったってのか!?じゃあなんであのとき、あんな怒ってたんだこいつ!?全然別のことでか!?)
がっくりと元親は項垂れるしかない。
そして、もしも本当にあの濃密な夜を、元就がまったく覚えてないのだとしたら―――元親の告白は、ただ元就にとっては屈辱でしかないはずだったのだと気付いてさらに蒼褪めた。
(なのにあんた、・・・なにも言わずに?ずっと、思いだしたふりをしてたってのかよ?)
だとすれば?
考え込む元親の耳に、小さく小さく、元就の呟きが届いた。
「・・・なのに我は、・・・まだ貴様とともに、旅していたいのだ。何故―――」



元親の腕の中で、まるで音が聴こえるかのように、ぷつりと元就の体は力が抜けた。
「・・・毛利?」
そっとゆすってみたが、元就はもう、すうすうとおだやかな寝息をたてていた。
「・・・おっそろしく悪い酒癖だぜ!ったく!!」
やがて元親はそう言って、元就を優しく抱きしめると、一人肩を震わせて笑った。笑って、笑って、・・・やがて涙がこぼれたが、ごしごしと瞼を片手で擦りながら、もう片方の手で元就を離さず。
ただひたすらに嬉しくて、元親は長い間そうしていた。