ことのは





酒をすすめられた。
口にしたのは何年ぶりだろうか。飲んでもよいという気分になったのは、自棄っぱちだったせいかもしれない。元就は、元親のことも、自分のことも、分からず。ただ苛立ちが募るばかりだったから。






気づけば、ほの明るい場所に立っていた。
金の光がふわりふわりと元就の周囲を漂う。
目の前に、いつの間にか誰かいる。長會我部?と尋ねると、相手はくすくすとふわりと広がる袖で顔を隠して笑っている。元就は訝しみ、誰ぞ、と声を荒げて再度問うた。
相手は、袖を下ろした。
「―――」
元就は息をのんだ。
・・・水鏡で見る自分と、そっくり同じ顔が其処にあった。



同じ顔をした相手は、けれどその面に元就には決してできないであろう不思議な笑みを浮かべていた。そうして、言うのだ。
「元親が嫌いか?」
「・・・なに?」
急で意外な問い掛けに、元就は眉を顰めて相手を油断なく相手を観察する。どこからどう見ても同じ顔。格好は黒い奇妙な外套めいたものを身に纏っている。どこか無邪気に、相手はまた問うた。
「では、好きか?」
「―――そ、―――それは・・・」
元就は咄嗟のことに応えられない。思わず俯いた。
(なんだこ奴は?・・・なんということを突然に訊いてくるのだ)
元就は鼓動を鎮めるように胸元を掌で押さえた。相手は、おかまいなしである。嫌いか、ならば要らぬか?と身を乗り出して尋ねるのである。何処かで見たような、と元就は考えて気付いた。
(・・・いつぞやの、子供に似ているな)
けれど、あの子供より、目の前の男はさらに強引な雰囲気を纏っていた。
「貴様が要らぬと言うなら、我が貰う」
きっぱりとした笑顔で、言う。元就はごくりと、聴こえてきた言葉に驚き、唾を飲み込んだ。たたみかけるように声が続く。
「我はそもそも、元親が欲しかったのだ。元親も、貴様の体も―――意識も。全部、欲しい。我に呉れぬか、“元就”」
「だ・・・黙れ!」
元就は無意識に叫んでいた。相変わらず金色の糸くずのような光がちらちらと舞う。上も下も無い。現ではない、夢だと分かりきっている。
なのに何故こんなに必死になるのか、己自身が不可解だったが、その疑問に構っていられる余裕はなかった。
「貴様、何者だ?・・・いや、貴様が何者であろうと我には関係ないこと。貴様ごときに我をどうこうさせる気は無い」
「―――では元親は?」
謳うように相手は尋ねる。要らぬなら寄越せ、と言わんばかりの期待に満ちた目だった。元就は眉を顰めて視線を外した。どう答えればいいかわからなかったのである。
「・・・長會我部は、長會我部自身のものだ。我が決めることではない」
やがて出た言葉はそれだった。
相手は、笑っている。今度は、明らかに元就を馬鹿にしている笑いだった。
「ふん、成程。相変わらずだ。なにもかわっておらぬではないか。・・・貴様は、元親が何も言わなければ、どうとも動かぬ、そういう者よ」
「な・・・なんだと?」
「賢しげに能書きを述べているが、所詮はただの意気地なしにすぎぬ。元親を気に入っておるくせに自分からは何もせず。・・・どうせ手に入れられなくても、なにかと理由をつけて己を誤魔化すつもりであろうに。―――ならば我に呉れてもよかろう?」
「・・・戯れ言を申すな!!」
「戯れ言などではない」
しんと、急にあたりが静まり返る。目の前の元就と同じ姿のその者が、どこか悔しそうに、哀しそうに唇を噛んだ。元就は思わず黙った。
「我は貴様よ。・・・貴様は覚えておらぬだろうが、我は知っている」
「―――な、に?」
元就は急にざわりと恐怖を感じた。此処は何処で、どうしてこんな、臨場感のある夢を・・・見ているのだ?
「我が我と言う人格を捨てる際、以前の貴様と約定を交わした。・・・・・・多くを耐えても、本当に得難いものを見つけたときは心のまま、手に入れる望みに従うことを。その条件で我は我と名を捨てた」
元就はなにも言えず、ただその言葉を聞いていた。
「・・・それが・・・もはやできぬと申すなら、・・・約定は破棄される。我は我を再び得て、貴様と分かたれるであろう。そうして、我の欲するものを得る。・・・元親とのさらに深い信頼を、奴とのすべてにおけるつながりを、・・・そして“愛”を」
「・・・・・・ッ」
元就は咄嗟に面を伏せたが、聴こえてきた言葉の気恥ずかしさに耳まで真っ赤になった。呼吸が苦しい。相手はそれを見てさらに哂う。
「貴様には出来ぬであろう?・・・我ならばできる」
「・・・・・・」
「元親も、注いでも注いでもこぼれるばかりでなにも応えぬ貴様より、我のほうがよいであろう。貴様はなにもできぬ木偶の坊―――」
「そ・・・、そんなことはないッ!!!」



元就は、顔を上げて叫んでいた。
右手を大きく左右にふりはらう。そうして、目の前の“自分”を睨みつけた。
「我は、貴様とは違う。・・・貴様は、我ではない。我は貴様の言うとおりはできずとも、・・・我のやり方で、長會我部に思うさまを、・・・伝えることはできる!」
「―――ふん。大嘘を吐きおって」
「嘘、ではない!」
元就は一歩、前に踏み出した。すべてが曖昧模糊な夢の中で、踏み出した箇所がなにもない空に足場となる地をつくった。きっと前に歩めば・・・あるいは平坦ではなくとも、こうやって道は続いていくのかもしれないと元就は思った。
まったく繋がっていないかもしれずとも、近くまでは辿りつけるかもしれない。そこまで行って、考えればいい。
元親が何を思ってああやって元就を助けにきたのか。どういう意味で惚れていると言ったのか。これから先、元就とどういうふうにありたいと願っているのか・・・
(我が、あ奴を、どう思っているのか)
(伝えることも、できる)
(我の望むとおりではなくとも―――)
(奴と、同じ方向を向いて歩くために、・・・なにができるか、考えることができる。そうとも)
(愛、―――でなくともかまわぬ。旅なぞという茶番にとらわれずとも。もっと深い場所で繋がることがきっとできる)



同じ顔の者は、また、笑った。
今度は、先ほどまでとは違っていた。柔らかく、穏やかに、・・・ただどこか一抹の寂しさを漂わせて相手は黙って背を向けた。どうやら我の出番は無いらしい、元いた場所へ戻るとしよう、と微かな声がした。元就は乳白色のもやの中で、消えていくその背を突っ立ったまま見送った。
もやの中に消える直前、相手は振り返った。
己を欺くな、とその唇が告げていた。欺いたときは赦さぬ、とも。





―――ふと我にかえると、元就の目の前に元親がいた。元就の顔を覗きこんでいる。思案顔して、やがて口を開いた。
「・・・あんた、・・・サンデー?なのか?」
元就は、その言葉に意識がはっきりするのを自覚した。もはや夢の中ではない。すぐ傍らに徳利が転がっている。元親の髪はぐっしょり濡れて酒のきつい匂いが漂っていた。きっと自分がそうしたのだろうと元就は唐突に理解した。覚えていない間は、先ほどの同じ顔の別人がやったのかもしれず、またそうではないかもしれず。
・・・そんなことよりただ、今一番腹立たしいのは先ほどの元親の言葉だった。じろりと、元就は元親をねめつけた。
元親は、そろそろと両手を元就のほうへ伸ばした。肩を掴むとそっと揺する・・・
「サンデー?俺だ、わかるか?・・・なぁ、なんであんた、此処に出てきたんだ?あんたはもういなくなって、・・・二度と会えないと思っていたのに、・・・そうじゃなかったのか?なにかあったのか?」
優しい声だった。
元親は、優しい。誰に対してもこうやって、優しい。
それを思い出して、どうにも悔しくて元就は―――





「―――下衆が!!」





一閃、元親の頬をこれでもかと張っていた。元親はもんどりうって転がり、後頭部を壁にぶつけた。
「―――痛ってェ!!!なにしやがる、サンデー!!?」
後頭部を擦りながら、元親は起き上がった。
(まだ呼ぶか、他人の名を・・・よくもぬけぬけと)
元就は無言のまま立ち上がるとつかつかと元親に歩み寄り、思い切り大腿部を踏みつけた。
「うおッ!?・・・あんた一体、何考えてんだ!?痛ェだろうが!!!この足をどけ―――」
「・・・ふん。さんでー、だと?・・・誰だそれは?貴様の過去の妾か、元親」
「―――は?」
元親のぽかんとした顔に、さらに苛立ちが募った。大腿部を踏みつけていた足で、今度は元親の脇腹を蹴りあげた。
「痛ッ!!!・・・おい、いいかげんにしろよこの野郎ッ・・・黙ってりゃ調子にのりやがって!」
「それはこちらの台詞よ。我を見て他者の名を喜び呼ぶとはどういうことだ。疾く説明するがいい、長會我部」
腕組みをして元親を踏みつけたまま、見下ろす。元親は眼を白黒させている。
「ええと、・・・あんた、サンデーじゃないのか?」
こわごわと、声が再度確認する。
元就は、眦をつりあげた。
「だから、誰なのだ、それは?・・・ふむ、・・・さては貴様、我にこの着物を着せたも、その妾ゆえか」
「・・・はぁ?妾?さっきからあんた、何いってやがるんだ」
(・・・結局、こうなるのか)
元就は急に悲しくなった。
夢の中のあの者が、きっと呆れて笑っているだろうと思うと余計落ち込んだ。今度こそ思うとおりと言おうとしても、元親という人物はわからない部分が多すぎて、元就にはどうすればいいか途方に暮れるしかない。伝えて拒絶されることも、馬鹿にされ嘲笑されることも怖い。素知らぬ顔で形ばかり連れだって旅を歩いていれば、いつまでとは知れずとも、まだまだこのまま(曖昧なまま)歩いていけるはずだった。
(・・・でも。我は、奴と約束してしまった)
夢の中の元就と同じ顔した彼は、消えた。なんとなく、あの者はもはや戻ってこれない場所にいるのではないかと元就は思う。欺くな、と言われた言葉が脳裏にこびりついて離れない。



元就は、ぺたりとそこに座り、俯いた。ことりとそのまま、畳の上に転がった。元親が驚いた気配がする。
(・・・かまうものか)
むしろ不貞腐れた気分になって、元就はそのまま転がっていた。
「お、おい、・・・毛利?毛利だろ?大丈夫か、あんた?さっきからおかしいぞ、なぁ?」
ようやくいつもどおりに名を呼ばれた。ちらりと元就は元親を見たが、すぐにまた視線を伏せた。元親が傍らに近寄る。畳の上に転がる元就の肩をゆすった。掌の温度は温かく心地よかった。
「ちょっと、落ち着こうぜ。俺もあんたも、・・・なにがどうなってんだ?毛利、あんた、自分が誰か言ってみてくれよ」
「・・・知らぬ」
「おい、なに馬鹿なこと言ってんだ?」
「阿呆は貴様だ。・・・何故我を別人の名なぞで呼んだ?」





(・・・言えた)





飛び越えてしまえば、簡単だった。
堰を斬ったように、言葉が出た。普段の元就ならば嫌悪するような愚痴めいたものだったが、もう今更体裁を取り繕う余裕は元就にはなかった。
「ふん、気に入らぬ。貴様はいつもそうだ、肝心のときになると逃げる・・・一体なにがしたいのかわからぬ。貴様を信じろと言って我の境界にやすやすと入ってきたくせに。伊達の屋敷で散々に衆目の前で恥をかかせおって」
「・・・おい、毛利?」
元親が、こわごわと声をかけている。元就は返事をしなかった。返事をしてしまえば、話そうと思っていることが途中で切れてしまいそうだった。全部言ってしまってからでも、返事をするのはそれからでもきっと遅くないと強引に自分に言い聞かせた。おかしな理屈だとわかっていたが、そうでもしなければ言葉が続けられなかったのである。
「・・・なのに、いざ此処に戻ってみれば何事もなかったかのようだ。所詮貴様にとっては、我なぞ貴様の部下どもよりさらに下の値打ちしかなかろうからな。」
「・・・はぁ!?おい、おい!あんた、今までなに聴いてやがったんだ!?」
元親は呆れたように大声で反論してくる。
「俺が政宗に、あんたについてどう説明したか、ちゃあんと聴いてたんだろ?だったら、意味はわかるだろうが!?なんであんたが値打ちないとか、・・・いや、野郎共と比べてどうこうじゃねぇだろ。あんたはあんたっていう一個きりの値打ちもんなんだぜ、なぁおい」
一生懸命、元親は諭していた。
その言葉が嬉しくて、元就は、じんわりと胸の奥が温まっていくのを感じた。
元親の傍にいなければ、きっと永遠に知らなかった温度だ。
それでも元就はまだ横たわって膝を抱えたまま、口の中で文句を言い続けた。全部吐き出してやろうと半ば意地になっている・・・
「こんな恰好もさせて、さんざんに思わせぶりなことを言いおって。・・・それが、結果は、昔の妾に我が似ていたということか―――」
「―――わあぁ!あんた何言ってやがるんだ!?おい待て、そりゃ間違いだ、・・・いや完全に間違いでもねぇが、でも他人ってわけじゃねぇよ!!どっちみちあんただろうが!!」
元親はわめいていたが、かまうものかとばかりに元就はさらに頬を膨らませた。
「それみよ。我はさんでーなどという者ではない。誤魔化すとは情けなし」
「いや、だからちがうって・・・」
元親は額に手をあて、深いため息をついた。その間に、元就は起き上がった。ゆらゆらと体が揺れた。船の上のようだと思った。元親という船の上で、揺れながら、さまざまを知った、よいことも悪いことも、哀しいことも苦しいことも嬉しいことも。理解できないことも。
「惚れているとは、・・・自由な言葉よな。長會我部。貴様の場合、どうとでも受け取れる。誰に対してもそう言う」
「なっ。」
元親は眼を剥いた。
「馬鹿言うな。・・・惚れるってのぁ、そうそう簡単に使う言葉じゃねぇ」
「伊達に、言われた」
元親は黙った。
元就は俯いた。女物の着物が視界に入った。すでに着崩れて、裾からのぞく脚はまぎれもない自分の筋張ったものだった。元就は自分の顔も、体も、すべて嫌いだった。端正だと褒められたことも少なくないが、抑揚の少ない造り物のような、どこにでもあるがらくたのように思えて。値打ちがあるとすればただ折れずに淡々と為すべきことを為す頭脳だけだと思っている。
だから、元親が元就という一個人にたいして「ひとつきりの値打ちもの」と言ってくれることは不思議でもあり、純粋に嬉しくもあった。他者にも同じように深い思いを注いでいても、元就に対してのこころは変わらないのだろう、元親という男は。
だからこそ、政宗の苦言は痛烈に元就を打った。元親の心根の深さに見合わないと批判されたのだ。
元就は俯いたまま呟く。
「―――我は、・・・貴様にふさわしくない、と」
「・・・!!!」
元親は、声もない。
自嘲するように、小さく元就は笑った。
「・・・我のような醜い男は、貴様に相応しくないそうだ。あやつめ、言いおる」
「・・・毛利、」
「貴様が我の扱いに困り果てているのがよくわかる。これまでずっとそうだった。よく、わかるが、」
元就は言葉をきった。
面を上げて、しげしげと元親をみつめ、首を傾げた。
「わからぬのはむしろ我自身よ。・・・長會我部、貴様と」
元親を、ゆっくりと、細い指先が指した。
「・・・今は、共にいるのが、どうしてか心地よい。」
「―――」
「貴様に疎んじられても。長く共にいても、他の者のように名を呼ばれることすらなくとも」
「お、おい、毛利ッ」
元親は元就を抱き寄せてくれた。
元就はその感触を再度の夢のように感じながら、ひとり、口の中で呟き続ける。全部言ってしまわねばならなかった。そうしないと何も始まらなかった。
「・・・貴様など気に入らぬ。雲泥万里、我と貴様は合うわけがない」
「毛利、おい、俺の話も聞け」
「貴様の国元でのやり方も、他者との関わり方も、我は何もかもが気に入らぬ。理解もできぬ。貴様とてそうであろう、だから我に意見する、我らはぶつかる」
「・・・毛利、なぁ・・・」
「所詮我は、なにも信じられぬ。・・・貴様が本当は我をどう思っているかなど誰にもわからぬ」
決して言うまいと思っていたことを、ひとつ呼吸を置いて、口にした。
「・・・我の体を抱いたと以前言ったな、・・・そんなこと、我は知らぬ。覚えておらぬ。貴様の嘘ならばそれまで、本当だとしても貴様が一方的に我を慰み者にしただけのこと」
元親の反応は、無い。哀しくなって、元就はいったん口を噤んだ。情けない話だと思う。所詮は己も盤上を動く駒のひとつ、・・・駒を動かす者は人智を超えた存在に違いなかった。だから個を捨てて生きることを己に課して、部下たちにも課してきた。個人としての元就などどうでもよい存在のはずだった。元就のことを、丁寧に、一生懸命考えてくれる、元親のような者などいなかった。
だからこそ元親に惹かれたと今は知っている。
小さく小さく、元就は呟いた。
「・・・なのに我は、・・・まだ貴様とともに、旅していたいのだ。何故―――」



“何故、だと?・・・それを元親に訊くのか”
先ほどの声が聴こえた気がした。元就は眼を閉じてゆっくりと首を左右にふった。
(問い掛けではない。・・・我の伝えるべきはすべて伝えた。我はこのようにしか、できぬ)
“意気地なしめが”
(意気地なしで結構だ)
元就は急速に薄れる意識の下で、呟いた。
(・・・十何年分かを、今の一瞬で話した気がする。我にしては上出来・・・)



元親の腕の中で、元就は意識を手放した。