たどりつく場所





立っていられなくなる感覚と恐怖はいつ以来だろうか、と。
膝を地面に着くことは好きではない。もう動けないと自ら敵に―――差し向かう相手に示し、負けを認めることになるから。
だから、膝は折らない。最後の最期まで、天を仰ぎ背筋を伸ばして立って、倒れるときは全身で地面を掴んで堂堂と瞼を閉じようと。
元就は思う。
空気に死の臭いが混ざり合う。咳き込んだのは目の前が覆われるような土煙のせいだけではない。鎧の合せ目に不覚にも刀傷を負わされた。陣の後背を取られたのも、奇襲を受けたのも、自ら采配を振るい始めてからすでにもう記憶から消えてしまった昔以来だった。乱世の束の間の、凪のような平和に感覚が馴染んで、戦場に生きる勘が鈍っていただろうかと悔やむ。
この瞬間に、援軍などというものをほんの僅かでも期待した己がいることも、滑稽だった。
誰も頼らない国を造ってきたはずだった。誰にも侵されない広い―――実際は、元就の目の届く範囲の、小さな国。悪い意味でも良い意味でも、元就の認めた者しか入れない国だ。認めたわけではない(と、思う)者を受け入れてしまったから、この結末なのか。
膝を折りたくない。
自分の屍を「奴」が見つけたとき、まごうことなくこれは毛利のからだだと―――たとえ首がなくとも。気づいてもらえるように。膝を折りたくない。
元就は低く笑った。認めていないと頑なに言いながら、己の骸を見つけて欲しいと、「彼」に望んでいる。呼んでいない、来るはずの無い援軍を思ったときもそうだった、ひとつ目のあの男の顔しか浮かばない。
いつから膝を折ったのだろう。あの白い鬼にだけ。いつから背を預けただろう。いつから、あの声を待つようになっただろう。



複数の敵兵が斬りかかる。輪刀でひと撫でにすれば肉を断つ、じわりと掌に伝わる重みに我知らず口元に微笑を浮かべていた。斬って、斬って、己の道を切り拓いてきた。今もそう、元就が刀を振るわねば道は出来ない。一歩を踏み出すそのために、誰のものなのかわからない血の臭いをかきわけて、斬って、また一歩。誰も来ない。
ひとりだ。
ずっと、こうしてきた。ひとりで歩けると信じて、ふたりではむしろ歩けないと厭うた。ふたりだっていいもんだ、歩調も歩幅も向かう先も違っていたって、歩き続ければ未来を目指せるだろうと彼は笑った。そんなことを思い出して、また元就は笑った。
そして、一歩。
戦装束が重く脱ぎ捨ててしまいたかったけれど、その暇はない。駒たちの陣頭に立ち、道を作る。本来ならば陣の奥深くでただ目線だけで戦を進めているはずだった。窮地に陥ったのは己の不覚、だから元就は道を作らねばならない。歩き続ければ未来は開けると、あの鬼の言葉だけを信じて、輪刀を振るう。
いつしか、元就は小さな声で歌を口ずさんでいた。なんの曲だったか。元親が唄っていて、覚えた。詞(ことば)は覚えていなくてただ音の高低をなぞる。また一歩。
自分の声が、兵士たちの踏む地響きで揺れて、別人のものに聴こえた。このうたを謳い続けて、一歩を踏み出して、何処に自分は向かうのだろうと僅かに目深に被った兜の隙間から天を仰いだ。ひとりきりでも歩いてみせようぞ、と、また一歩。
でも、目指す場所がなければ歩けない。
ひとりで歩いても未来はあり、けれどふたりで歩いても在るのなら、ふたりがいいと思った。
口ずさむ調べの狭間に、彼の名前を呼んだ。膝を折らず、何処まで自分は歩けばいいのだろう。一歩は、あと何度繰り返せばいいのだろう。いつになれば彼と自分の声は重なるのだろう。いつになれば―――





「―――毛利ッ!!!」





援軍だ!という自軍の兵士たちの歓声を、どこか他人事のように元就は聞いた。敵兵が浮き足立つ様子がかすんだ視野にも見て取れた。遠くの点が群れとなり、やがて陣頭に立つ白髪の鬼が現れる。兵士たちの士気が上がるのが分かる。号令を、と考えた、けれど乾いた口はうたの続きを口ずさむことしかできないように、常の冷徹な音声を忘れてしまったように動かない。
覚悟を決めた敵兵が襲い掛かる。元就はぼんやりとそのようすを目で追った。腕が上がらなかった。あと数歩、あと数歩進めば彼の元に届くとわかっているのに足が動かない。せめて膝は折らないようにと、この期に及んですら律儀に考える己を馬鹿馬鹿しくなって、元就はまた微笑んだ。自分の上に降りてくる血のついた刀を受け止める力はもうなかった。



けれど。
痛みもなにも訪れず、ただ元就の目の前で、そのつるぎを受け止めたのは白い鬼だった。巨大な槍の柄がふたりを守った。弾き飛ばされた敵兵、ふいに風がごうと吹いて、視界は開ける。元就の顔の上に影が落ちて、毛利、と声が近づく。長曾我部、と呼ぼうとしたが声も出なかった。掌から輪刀が落ちて、膝が震えた。何も考えられない。終わったのだろうか、もう歩かなくていいのだろうかと。
「あと、何歩・・・」
掠れた声がやっと出て、元就は自分の体が地面に吸い寄せられるように沈むのを感じた。血溜りに落ちる膝は、けれど途中で止まった。しっかりしろよ、膝をつくのはあんたらしくねぇと元親が耳元で囁く。抱きかかえられていると―――支えられていると、信じられた。
もう、歩かなくていいのだと気づいて、たどり着きたい場所が此処だったのだと気づいて、元就は肩を震わせた。力の入らない腕をゆっくり、ゆっくりと上げて、元親の背に回す。だいじょうぶ、もう大丈夫だと元親の声がうたっていた。





元親の馬に乗せられ城に運ばれたと後から側近に元就は聞いた。死んだように二日二晩眠り、起きたときは月の無い夜だった。誰か、と小さく声を出すと、隣の間に続く襖が開いて元親が顔を出した。
「起きたかよ」
柔らかい声は耳にひどく心地よく、元就は瞬きも忘れて元親の顔を見つめた。意識せず腕が元親のほうへ、差し伸べるように動いた。元親は部屋へ入ってくると元就の寝床の横に胡坐をかいて、その手を取った。だいじょうぶ、とまたうたう声がする。
「・・・歩き続ければ」
「ん?」
元就の口元に元親は耳を寄せてくる。
「・・・貴様が言った。歩き続ければ未来が見えると」
「・・・俺、そんなこと言ったか」
「言った。忘れたか」
「忘れちまったなぁ」
面目無さそうに首を竦めて、元親は柔らかく笑った。元就はゆっくりと瞼を閉じた。
「ひとりでも、ふたりでも、歩くことに変わりはないと思うたが」
「・・・うん。そうかもしれねぇな」
「一歩を、踏み出すことだけ考えていたら、貴様が来た」
「・・・・・・」
「滑稽なことよ。ひとりで進んでいるつもりで、貴様を待っていた。・・・我は弱者だ」
「んなこたぁ、ねぇよ。―――そう、思い出した」
元親は、元就の手を優しく強く握る。
「ただ遮二無二ひとりで歩き続けるんじゃなくて、・・・ふたりで歩けば、もっと違う未来も目指せるだろうって、そんな話、したっけな」
「・・・・・・そうだったか。忘れた」
「忘れたか。あんたにしちゃ珍しい」
元親は、大きなからだをこごめると元就の額に自分の額をそっと当てた。そうして、あんたの体温に安心する、と静かに告げた。
「よかった。・・・俺は、見てたぜ、あんたを。間に合うように全力で馬を走らせながら」
「我を?」
「毛利元就。あんたの兵士を守りながら、少しずつ俺のほうへあるいてくる、あんたを。・・・間に合ってよかった。ほんとうに、よかった」
そうして、低い嗚咽が元就の額に響いてくる。涙が元就の顔へぽたり、ぽたりと落ちた。



たどり着きたい場所があるから、一歩を踏み出し続けられた。
ふたりは歩きづらいと思ったけれど、そうでもない。そんなふうに思えた。
「長曾我部」
元就は両の掌で、元親の顔をそっと挟んだ。
ゆるやかに口付ける。
「すまぬ。・・・感謝している。そこに貴様がいてくれたことを」
元親は目を瞬いた。
あんたが、そんなふうに言ってくれるなんて、と。照れたように笑いながら、再び元就に、元親からも口付ける。掌を互いに捜した。合わさると、何度も確かめるように握りあう。
絡まる舌が、熱くて、ひとりの寂しさを埋めてくれる。
ふたりでいる自分たちが、愛おしかった。一歩の歩幅も、歩調も、向かう先も違っていたって。此処にこうして、手を取って一緒にいられる、歩いていけるは幸せだと、心から元就は思った。