(1)

 痛、と眉を顰めた。
 つうと鮮血が指を伝う。うかつなことだ、落とそうと思っていた花茎ではなく自分の指の皮膚を切ってしまうとは。我ながら珍しいと思う。
 指から掌へ流れる紅い糸をまじまじと見つめていると隣にいた若い弟子が小さく悲鳴を上げ、センセイ大丈夫ですかと慌てている。
 どうということもない、と呟くと血のふつふつと盛り上がる指先を口に含んだ。
 鉄錆と、どこか潮に似た臭いと味に眩暈がした。
 元就は小さく呻くと、口から指を出しその付け根を強く握った。どうやら思った以上に深く切ってしまったらしい。端正な面に淀みの無い笑顔(作り笑いだ、勿論)を浮かべると、弟子と生徒たちに向かう。
「…間抜けな話だが、この状態ではこれ以上の稽古はままならぬ。後日あらためて稽古をつけるゆえ、今日はこれにて終了してもよいだろうか」
 少ししおらしい態度で告げると(演技だ)、珍しいと思ったのだろう、一同驚いたように暫し顔を見合わせていたが、やがて頷いた。元就はさらに軽く目を伏せ、申し訳ない、と謝罪の言葉を口にした(口先だけのことだ)ので、皆元就を気遣い、お気になさらずと声をかけてくる。
(騙すことなど、わけもないこと)
 一人が親切心からか「手当てを」と申し出たが、元就は自分でできるからと、これは素っ気なく言って救急箱を棚から取り出した。ゆっくりと包帯を巻く。誰にも手出しをさせないという空気がひとり、またひとりとその場から人を去らせる。
 …やがて、がらんとした教場に一人残され、元就はようやく振り返った。
 人気の無くなった室内で作業台の上はある程度片付けられていたが、床には切り落とされた花や枝が無造作に、大理石調のタイルを埋めるように散らばっている。とりどりの色を見ていた元就は、やがて床にそっと座り、冷たい石の床を掌で撫ぜた。
 …仰向けに、ゆっくりと、その上に寝そべる。
 切り刻まれた花の海が元就のすぐ近くで、空調の微かな風にゆれている。今日使った花材の紫丁香花(ライラック)の薄紫の花弁が、元就に寄り添うように被さってくる。まるで赤子をあやす手のように思えて、不可解さに元就は眉を顰めた。
「…気に入らぬな」
 独り言ちて鬱陶しそうにその紫を手で押し退けた。けれど手に巻いた包帯に花弁はしつこくまとわりつき、元就は、見覚えのある包帯の白と花弁の薄紫のコントラストに顔を顰めた。
 ――声が聴こえる。


『あんたのことなんざ、きれいさっぱり忘れてやるぜ』


「…ふん」
 元就はゆるゆると起き上がった。
 身体についた花弁や枝葉をはらうと、上着をはおり、散らかったままの教場を出た。どうせまた明日来るのだ、そのときに片付ければいいだけのこと。その前に誰かが気づけば片付けるだろう。気にするまでもない。
 鍵をかけると元就は踵を返した。
 一階のフロアを通るとき、事務室にいた者が「家元」と呼びかけた。元就はじろりと相手を睨みつけた。
「…まだ我は家元ではない。軽々しくその名で呼ぶな」
 相手は少し怖気づいた表情をした。忙しなく詫びると、研究会と展覧会の日程等をたどたどしく伝えてくる。元就は溜め息ひとつ、適当に頷くと踵を返した。
 その程度のこと、一度聞けば頭に入ると何度言えば分かるのだろう、それとも他者はそうではないのか。…ああそうだったな、と元就は思い出して自嘲するように笑った。
 うんざりした。
 元就は、忘れられない。
 元々、記憶力はいい。――いいというよりは、むしろそれは病的なレベルのものだ。一度見れば、聞けば、覚える。人としてはおかしいと誰かにいつか、陰で言われた。
 病かもしれない。
 誰もが、生きるうちに通り過ぎるものを多かれ少なかれ忘れて…正確には記憶の引き出しに丁寧にしまいこんで二度と開けないのに。元就はそうではない。一度見たもの、聞いたもの、全て覚えている。
 正確には、忘れられない。
 頭に溢れる膨大な記憶がいつも忙しなく元就を追い立てる。聴こえないふりをしてやりすごす。新しい情報はなるべく簡素に、必要なものだけを――けれどどんなに目を閉じ耳を塞いでも、否応なしに新しい記憶が入ってくる。
 ――いや、それだけならまだ、いい。忘れることはできなくても、片隅に追いやって忘れたふりをしていればいいのだから。
 けれどいつもいつも、母親の胎の中にいた以前から、元就の耳元に囁く声がする。真正面から見つめる貌がある。ひとつ目の、長身の男だった。
 忘れたいのに忘れられない。脳に染みついた、こびりついた、拭えない記憶だった。きっとそれは、生きている今、得たものではない。ではいつの?前世の?…ばかげた話だ!…だが元就は、密かにそう信じている。信じる己を滑稽に哂い、…そして、あの男に再び会うのを、恐れている。
『あんたのことなんざ、きれいさっぱり忘れるさ』
『あんたが死んだ後、あんたのことを思い出す奴は誰もいねぇ』
『あんたはそれしか手に入れられなかった。孤独の魂だ。孤独は、死んだ後も続くんだ』
『永遠の孤独の底で、泣いて後悔しやがれ!』 


 ――こんなにもはっきりと、その容貌も、声も、そのとき響いていた波の音のひとかけらすら、覚えているのに。
 男の名前だけが思い出せないのは、皮肉なことだった。

 *

 忌まわしい呪いの言葉は、当たっていたのか外れたのか。
 元就は、高名な華道家の次男坊に生まれた。その時点では、跡を継ぐ責任は兄にあり、元就は普通に好きなように生きられるはずだった。花が好きなら兄と同じ道を。そうでなければ、別の好きな道を。そう言って父は笑っていたのを覚えている。
 その父が、まだ四十代の若い身空で事故でなくなったのは元就が幼いころだった。家元を祖父から譲られる直前のことだ。隠居する予定だった祖父が家元の座を守り流派は存続したが、やがて祖父も亡くなった。後を、兄が継いだ。
 けれどまだ若く(大学に合格したばかりだった)、神経質だった兄には家元の座はとてつもない重圧だったらしい。
 ある日、兄は亡くなった。稽古をつけてくれながら、花を思い切りよく切りすぎる元就を窘め、でも「お前は花より碁や将棋のような白黒はっきりした世界が向いているかもしれないね」と気遣う優しい兄だった。何故亡くなったか、誰もそのとき元就に教えてくれなかった。…おそらく、自殺だったのだろう。
 放り出された家元という「鉢」は、元就が受け取らざるを得なくなった。気付けば流派の名にしがみつく高弟たちや、末端に至るまで膨大な人数の弟子たち全ての上に、名前を掲げさせられた。勝手に掲げたのは先代、あるいはもっと前からの高弟たちだ。あなたがやらなければ、皆が困るのだと家元代理(元就の後見人)となった叔父叔母が冷たい笑顔で言った。
 逆らえないことを元就は理解するしかなかった。
 将来を嘱望された次代、という煽り文句とともに、流派紹介のパンフレットなどに掲載された自分の笑顔の写真を、元就は怒ることも、哂うこともできず見つめるしかなかった。この写真は、花を生ける者として撮られたものではなかった。父と兄にむかって、見せた笑顔だった。誰にでも見せる安いものではなかっただけに、やるせなかった。十歳のころだった。
 花は、好きでも嫌いでもなかった。嗜みに稽古させられ、覚えがよいために大人には褒められたが、ただそれだけだった。美しいものへの感慨、それを愛でる心は元就の中には存在していなかった。兄の言うとおり、そんな情緒的で、個人的な感覚に興味はなかった。
 後継ぎになると決まってから、花は、嫌いになった。学んだことをそのまま再現するのは得意だったから、天才だと褒めそやされた。
 活けた本人が美しいとも思わないものが、美しいはずがない。元就は心の奥で他者を嘲笑う。
 皆が必要としているのは、流派を、弟子たちの名前を守る家元であって、元就本人ではない。
 でも、守っていかなければならなかった。それが元就の――父と兄が残した責務、だった。


 思い出す映像(ビジョン)がある。
 いつかも重い荷を背負っていた。
 誰かから受け取ったものだった。落とすことも捨てることもできず、ひたすらに前へ進んだ。足は鎖を絡められたように重い。それを引き摺り、時折紅い色が飛び散る中を元就は歩いた。邪魔なものは排除した、利用できるものはなんでも利用した。守るべきものさえ残ればよかった。
 いつしか周りには誰もいなくなっていた。
 なにがあったのか。なにを己がしたのかは元就にはわからない。
 …ただ、今の自分と状況は似ている気がする。
 そして――気づけばいつもあの男が最後、目の前に立ちふさがる。潮風がいつも、男とともに吹いてくる。背後に波の音がする。
 男は哀しい目をして、元就をはじめ静かに、やがて徐々に激しく非難する。どこまでも空しい、と、元就を全部否定して…指差して宣告するのだ。
『あんたを、忘れてやる』
『永遠の孤独で、泣いて後悔しやがれ』
 ――元就の事蹟だけではない。存在そのものの否定の言葉だった。
 それがあんたへの罰だ、すべてを裏切り、ないがしろにしてきたあんたへの。そんなふうに元就には聴こえる…

 *

「――っ」
 はっきり耳元に再現される声音に、元就は都度、身震いする。
 あれが誰か、元就にはわからない。会ったことのない男。…けれど、いつか元就の目の前に、もしも、彼が現れたとしたら。あの恐ろしい呪いの言葉を紡いだら。
 元就は口元を歪め、己の考えを振り払うようにゆっくりとかぶりを振った。
(…怖くなぞ、ない。何を怯える)
(すでに我は、独りだ。…あの者の呪いどおりにな。…今更、我を誰が覚えていようが、忘れようが、我には関係ないこと)
 包帯を巻いた指先を見る。止まったはずの血が、また傷口が開いたのか薄い赤色に滲んでいた。
 ――血の臭いは嫌いだ。鉄の刃物も嫌いだ。
 ほんとうは、守るべき立場も。背負うものもいらない。今この世に生を受けている自分のこの身も。
 花も、海も、嫌いだ。
 思い出したくないものばかり思い出す。覚えていたくなかったのに。何故己は覚えたまま此処にいるのだろう。


(2)

※ライラック「愛の芽生え・思い出・初恋」