(2)

 ――ああ、参った。
 元親は、頭髪をかきまぜて吐息をつく。
 視線を隣へ移せば、デパートのガラスのショーケースの中に、美しく花が活けられている。楕円形の水盤に白い花。小道具はほかに一切無い、いっそ無機質なほどにシンプルな意匠だったが、元親にはそれが海をゆく帆掛け舟に見えた。
 花になど興味は無い。だというのに何故か目を奪われ立ち止まり、そのまま見とれていたのだった…そうだった…元親はそこまで思い出して、また小さく吐息をついた。
 それから、再び、目の前の大通りへ目を転じた。花を抱えて逃げていった小さい背中が見えないだろうか、とのびあがって探す。…当然、休日の街の中心、車の行き交う道路、そして向かいの通りも人のひしめく雑踏である。見つかる筈もない。波間に消えた花弁を探すような錯覚が押し寄せて、片目を押さえて項垂れた。
「わざとじゃ、なかったんだがな…」


 花に見とれすぎていて、隣に人が来たことに気付けなかった。
 もっと見ようと左に身体を傾けたところで、そこにいた人物にのしかかる格好になった。あっと思ったときには元親はバランスを崩してしまい、体勢を立ち直そうにも、相手の身体にもつれてしまって叶わなかった。
 元親は倒れた――当然隣にいた人物も、一緒に折り重なって。
 気づけば相手を下敷きにしてしまっていた。
 元親は青ざめた。自分の身体の下にあるうつぶせた身体は華奢だった。持ち物だろうか、花の束がいくつか散らばっている。女性を押し倒してしまった(公衆の面前で)、と、元親は平素無いくらいに慌てふためき、飛び退く勢いで立ち上がった。
「す、すまねぇ!ほんとに…わざとじゃねぇんだ。勘弁してほしい」
 元親はあらためて、倒れたままのその人物の傍におそるおそるしゃがむと、顔を覗き込んだ。ようやく両手両膝をついて起き上がりかけていた人物は、けほっとむせるように咳き込んだ。この身体の上に元親の長身が乗り掛かっていたのだ、その間息ができなかったとしたら苦しかっただろう…元親は本当に、心底申し訳なく思った。
「大丈夫か、あんた。怪我、してねぇか?ん?」
「…これしき…」
 聴こえてきた声は、女性のものではなかった。高めではあったが、それは男性の声帯の発するものだった。
 元親は、あらためて相手を見た。
 ワイシャツにネクタイと、スラックス姿である、…確かに細身で小柄だが、明らかに格好からして女性ではない。どうして気付かなかったのか、と元親は自分の慌てふためきっぷりに呆れ、少し可笑しくなった。
 大丈夫か、ともう一度問うて、元親は相手の肩に手を置いた。相手は元親のほうへ顔を向けた。
「――」
 整った、端正な面立ちの青年だった。顎のあたりで揃えた真っ直ぐな髪が顔に幾筋か掛かっている。痛みや怪我はなさそうに見え、態度も落ち着いたふうで、元親はほっとして少し口元に笑みを浮かべた。
「ぼんやりしてて悪かった。ほら、あの花が――」
 元親は少し振り返って、先程自分が夢中になって見ていたショーケースを視線で指した。
「きれい、ってか、気に入っちまって。船みてぇだなと…」
「…」
「見とれてて、あんたが傍にいることに気付かなかったんだ。ほんとに、すまなかったな」
 元親は、ぽかんと自分を見ている青年にあらためて向き直り、面目ねぇと首をすくめて笑顔を見せた。
 …足元に散らばっている花に何気なく視線を落とし、元親はふと眼を瞠った。あの盛花と同じ花がある。
「…?…この花…あんたのか?」
 元親はまじまじと花を見つめ、それから青年を見た。
 ――青年の元親を見る目は、ところがその瞬間、みるみる色を変えた。
 驚愕なのか、怯えなのか、ひどく大きく見開かれる。同時に、元親の掴んでいる肩が、小刻みに震え始めた。どうしたのだろうと考え――それから元親は少し、呼吸を止めた。時折そういう表情をされることはある。この面相だから仕方ない。慣れていることだ。
 …でも、なにか違う。なにか、ひっかかる。
 どこかで会った気がするのだと気付いた。
(…なんだ?)
「おい、あんた――」
 元親は、彼の肩に置いた手に力籠め、自分の方へ少し引き寄せた。


 …最後まで言う暇は、なかった。
 次の瞬間、耳慣れない大きな音がその場に響き渡った。元親はぽかんと、その音と、同時に自分の頬にやってきた痛みを確かめていた。
 ――思い切り、顔をぶたれたと気付いた。
 なんで、と疑問に思う間もなく、青年は立ち上がると、急いで周りに落ちた花をかき集めて掴み、青に変わった目の前の歩行者信号を確認して大通りを駆けて行った。おいあんた!と元親は声をかけたが、その背はすぐに道行く人々に紛れて見えなくなった。
「な…なんだってんだ、あいつ!?いきなり殴るこたねぇだろうがよ…!」
 確かに、ぶつかってのしかかった俺が悪いんだけどよ、とぶつぶつ言いながら、元親は彼にぶたれた頬をさすった。思い切りはたかれたらしい、じわじわと、後から痛みが広がってくる。
 ひどく、怯えているふうにも見えた。そんなに俺は怖い顔をしているだろうか、と元親は少しばかりくさくさした気分になった。これまで、他者にあんな反応をされたことは無いから余計である。
「…どっかで…」
 会ったような気がする、とあらためて考え、元親は呻いた。
 記憶力はいいほうである。特に、人の顔と名前を覚えるのは得意だ。一度会っていたら、忘れるとは思えない。
 では、いつ、何処で会った?
「…ちがうな。…なんてっか、…」
 独り言ちて、またゆるく頭を振る。不思議な感覚だった。…顔や名前ではない。あの青年の…『存在』とでもいうのか。匂いか。感触か。雰囲気か。
 それを、元親は、知っている気がする。あの顔では、姿ではなかったかもしれない。…でも、知っている。
「…ちぇっ。馬鹿馬鹿しい!」
 これは今度はわざと、言葉にした。
 声が少し大きかっただろうか。すれ違う女性の一群が、ちらちらと自分を見ていることに気付いて、元親はばつが悪そうにまた頭をかいた。名残惜しげにショーケースともう一度覗きこむと、本来の目的地へ向かって、足を踏み出した。

 *

 元親は、クォーターである。
 所謂白人種だった祖父の隔世遺伝が色濃く出た髪はグレイだが、光にあたると白くも見える。相貌や皮膚や髪の色やずばぬけた長身は、日本人のそれとは明らかに違う。人ごみですら目立つことこのうえない。
 ――極めつけに、左目の色が薄い。これは後天的なものだ。事故で弱視になっているため瞳が不確定に白く光る。
 とにかく、よくも悪くも、目立つ。
 が、人に覚えてもらいやすい特徴だと割り切ってみれば、それはそれで結構なことだ。現に、どこにいても、新しい環境になっても、元親は一度で人に名と顔を覚えてもらえた(苗字があまり無いものなのだ)。だからか、友達は多い。幸せなことだ、と思う。
 友人たちには「脳天気な奴」とよくからかわれる。勿論肯定的な意味で、である。
 なにかにつけ、ものごとはなるべく簡単に、ポジティブに捉えるのが元親は好きである。大学に進むとき数学か工学か、で迷った末に工学を選んだのは、現実的に人の役に一番たてると思ったからだ。理論を弄るのもそれなりに好きだったが、現実と関わりある良いもの悪い者、ときに泥臭いものと関わることのほうを選んだ。
 理想どおりに、思うとおりになにもかもが進むものではない。あるがままを受け入れていけばいい。
 …どうしてか、ものごころついたころから、そういうふうに考えるようになっていた。
 周りの者の影響もあったのだろう。お前は教師に向いているぞとよく言われた。そして現に、院を出た後、そのまま大学に残ると思っていた周囲の予測を裏切って高校教師になった。
 元親は個人を比較することもなかったし、ぶつかってくる奴とはとことん向き合って話すタイプだったから、生徒たちからは年の近いこともあって「アニキ」と呼ばれ慕われた(あまりうるさく勉強勉強と言わず、多少の素行の悪さも笑って見逃してしまうため、保護者からの評判はまっぷたつだったが)。
 選んだ仕事には十分満足していたのだが、隣接する大学(母校である)の恩師から講師の席があいたから来ないかと誘われた。迷った末、しばらく研究に没頭するのもいいかもしれないとそちらに移った。一昨年のことだ。
 大学の仕事は、高校教師とはまた違って面白い。学生にも、いろんな奴がいて、それも面白い。時間も寝食も忘れて研究に没頭できる時間があることも面白い。時折悩むことも、しょげることもあるが――おもに、女より男にもてるという類の――総じて、幸せで、楽しい毎日だった。


 元親は寝つきがいい。それはもう、友人や後輩たちに呆れられるほどの。悩みが無いからよく寝られるんだろ、と友人の政宗にもいつか言われた。
 だから、あまり夢を見ない。時折見るが、起きるとたいてい忘れてしまう。
 でも、実は不定期に、同じ夢を見る。
 べつに、なんということはない。知っている場所だったり、知らない場所だったり。なにかが起こるわけでもない。酷く哀しいことや怖いことが起こるわけでも、逆に楽しいというわけでもない。淡々とした穏やかな世界。
 …同じなのは、ただひとつ。
 元親は、誰かに詫びているのだった。
 何度も謝るわけではない。すまない、と。たった一言。それで終わり。
 でも、誰に詫びているのか、わからない。
 心理学を専攻している後輩に、一度さりげなく訊いてみたことがある。夢判断というわけでもないが、それなりに真面目に訊いたというのに後輩は笑って「先輩、どっかで泣かせた女でもいるんじゃないですか。良心のカシャクってやつでしょ」とからかってきた。元親にそんな悩みがあるとは思わなかったのだろう(実際、悩んでいるというほどのことでもない)。
「馬鹿野郎、そんな女、いねぇよ!」
「あぁ、すいません。男でしたか」
 周りの皆が、それを聞いてどっと笑った。元親がやたら男にもてる(人気がある)のを皆承知している。
 元親は苦笑した。その話は終いになった。
 以来、誰にも話したことは無い。

 
 誰に謝っているのだろう…詫びる自分は見えない。視界に映る景色に相手の姿も無い。
 ただ抜けるような青い空と、――太陽がそこにいつも、ある。


(3)