(3)

 白は、さほど好きではない。
 けれど懇意にしている生花店に立ち寄ったとき、なんとなくその色に目がとまった。
 白い杜若。花弁の中央に薄らに青紫が刷いたように乗っている。
 いらっしゃい、と明るい気さくな声がかかって、長身の青年――青年というには元就より年上に見えたが――が、奥から花束を抱えて出てきた。大柄の体躯に長髪を頭頂で結いあげている。着ているものも少し派手で浮ついていて、そして無駄に(と、元就は思った)元気のよい大声である。目立つことこのうえないが、今まで見かけた覚えの無い顔だった。
(…新入りのバイトか)
 元就は華道家元としてはまだ他流派にも認知は進んでいない。しかしこの生花店は祖父以来の付き合いだから、店主や馴染みの店員は当然、元就の顔も、立場も知っている。対応もおのずと丁寧である(得意先であるからには当然だ)。
 けれどこの青年は、まるで物怖じせず元就に話しかけてくる。元就のことを、通りすがりに立ち止まった学生程度に(実際学生だが)思っているらしい。
 元就は黙ったままじろりと相手の顔を見上げた。大抵の場合、年齢に似つかわしくないこの視線の強さで相手は怖気づいてしまうのだが、目の前の青年は気にもならないのか、相変わらず人懐こそうな笑顔を向けて話しかけてくる。
「それ、気に入ったかい?お目が高いねぇ!本日のお勧めだよ」
「…勧める、とは、誰の意見だ」
 元就は真顔で問うた。相手は、そりゃあもう、と大袈裟に両手を広げ、元就の顔を覗き込んだ。
「俺、さ。この俺が言うんだから間違いない!」
「…貴様、…その自信はどこからくるのだ?」
 元就は思わず問い返し、眉をひそめた。会話をこんな見知らぬ相手と続けた自分に苛立った。相手はやはり笑っている。
「だって、綺麗じゃないか。此処にある花はみんな綺麗だけどさ、俺は特に今朝、この花見たときこう、ズドンと打ち抜かれたね!誰の手に取られて、どういうふうに飾ってもらえるかわからないけど、いい御縁の場所で見てもらえるといいなぁってさ」
「…」
「ちょうどさっき水替えながら、そんなふうに話してたとこだったからさ」
「…誰と」
「花と」
「…」
「そしたらあんたが立ち止まった。ちなみに、杜若の花言葉は『幸運がやってくる』ってね。…どうだい、運命感じるだろ?」
「…『雄弁』という言葉もある。貴様、喋りすぎではないのか」
 元就は少しばかり馬鹿にしたような顔で言った。
 元就の反応に、けれど青年はくさることなく声をあげて笑い、一本、その白い杜若を取って元就の目の前に差し出した。湿りを含んだ花弁はおおきく柔らかく、誰かの眼差しのようだった。思わず元就は吸い込まれるようにその白を見つめた。
 ほらね、と青年は幾分穏やかな声でまた言った。
「気に入ったんなら一本からでも。あんた、花が好きそうだもんね」
 ――元就ははっと息をのみ、青年を見つめた。そんな筈はない、と口をついて出そうになった。自分を不当に縛り付けるものを、好きになどなれるはずがない…
 元就は、けれど差し出された一本を思わず手に取っていた。
 海と、白い帆を張る船の絵が浮かぶ。どこからやってきたか分からないイメージ。――活けてみたい、と思った。
 脳裏に、今日の仕事先のデパートを思い浮かべる。本当は別の花材を考えていたし、それらをどう活けるか、スケッチもつくってあった。花器の用意もすでにメールで先方に頼んである。これまで別の花に目がいくなどということは記憶に無かった。今から諸々の変更は可能だろうか、と考え…元就はそういう自分に少しばかり狼狽した。どうも、目の前のこの見知らぬ店員に調子を狂わされている気がする。
 でも、浮かんだイメージをきっぱりと捨て去ることもできず、元就は計算してないぞ、とぼそぼそと独り言を口にした。なんだい?と相手が覗きこんでくる。
「べつに…」
 思案しながらやっとそう答えたとき、店の奥から店主の声が響いた。
「これは、毛利の…おい慶次!お前、失礼なことしてないだろうな!?」
「え?なに?この人がどうかしたのかい」
 慶次、と呼ばれた青年はきょとんとしている。店主は、馬鹿、この人はと言って青年の耳を掴んで引っ張ると壁に貼ってある、取引一覧の中の一番上にある流派名を指差した。こちらの家元様だ、と小声で叱っている。ええ!?と、頓狂な大声がして、青年は振り返って元就を見た。かしこまって先程からの態度を詫びるのだろうかと思っていると、青年はこれまたはちきれんばかりの笑みを浮かべる。
「――そうかそうか!いやぁ、俺の審美眼は、やっぱ間違っちゃいないんだねぇ、家元殿と同じ花を気に入るんだから…」
「こら慶次っ!!」
 ――元就は、思わず笑っていた。
 店主と青年が、呆気にとられてこちらを見ている。店主に至っては、恐ろしいものを見たと言わんばかりの驚愕ぶりだ。…当然だろう、元就も、何かが可笑しくて笑ったことは最近滅多に無い。
 ひとしきり俯いてくつくつと笑った後、元就は顔を上げた。いつもの冷たい無表情に戻っている。店主はあらためて、大変失礼いたしましたと頭を下げ、青年にも差し出がましいことを言ったのを詫びるよう促している。
 元就は、けれどそれには応じなかった。あれを、とバケツに入った白い杜若の束を指差した。
「全部だ。…それと、あとは――」
 慶次という青年の顔がぱっと綻んだが、気付かないふりをしておいた。

 *

 息を切らせて走った。
 研究会館のロビーに飛び込むと、片隅に置かれたソファに倒れこんだ。ぜいぜいと肩で息をして半分横たわるようにソファに身を投げ出していると、いかがなさいましたか、と受付係の若い女性が声をかけてきた。新しく入った者だろうか、元就が「誰か」知らないらしい。通りすがりの者が間違えて入ってきたと思っているようだった。
 元就は呼吸を整えながら、じろりと相手の顔を睨んだ。それから、何某を呼べ、と役員であり弟子の一人でもある者の名を呼び捨てで告げた。受付係は少しむっとしたような表情をした(その弟子の名は知っているらしい、呼び捨てにしたので失礼な若造とでも思っただろうか)。そちらの先生はただいまお稽古中でございます、とやんわり断られる。
 元就は思わず苦笑した。
 「家元」などと持て囃されても、結局はただの青二才なのだ。それが証拠に、名前がなければ、こういうぞんざいな扱いしかされない。
 両腕に抱えた花や枝ものの残りは、すっかりくたびれている。
 …ようやく、今ほど元就が告げた役員の一人が下りてきて元就に気づいたらしい。丁重に挨拶してくるのを鷹揚に座ったまま受け流していると、新米の受付係は青ざめた。ようやく周りの者が何が起こっていたのか気づいて、ロビーの真ん中で彼女を酷く叱った。元就は内心で舌打ちすると、顔を上げる。
 笑みを浮かべた。
「――かまわぬ。気にすることはない」
 一同ほっとした表情になった。
 そういえば、と機嫌直しなのか後から来た高弟の一人が口を挟んだ。デパートの方から、本日の作品が大変好評だと言伝がきていたと。
 そうか、と曖昧に元就は返事して立ち上がると自分のいつも使う控室に向かった。役員が一緒に付き添った。
 エレベーターに乗り込み、扉が閉まると元就は冷たい表情のまま、言った。
「教育がなっておらぬな。会館の顔である受付の者に、上下のなんたるかを覚えさせることもできぬのか」
 役員は竦み上がった。申し訳御座いませんという声は震えている。元就は続けた。
「先程の者はやめさせよ。事務局にもよくよく言い聞かせておけ。…所詮我が流派など新興、貴様らとて他流に行けば日陰に座ることしかできぬ。今いる椅子を守りたければ組織を守り、心して勉めることだ。…それから、あのように人目のある場所で叱責するような愚行を犯すなと周知徹底させよ。誰の目があるかわからぬ、ひいては流派のイメージダウンにつながりかねぬ」
 役員は、深く頭を下げて詫びている。
 エレベーターは目的階に着いた。元就はついてこようとする彼を視線で制して、自分だけ降りた。
 控室に入ると、すっかりしおれかけた花を水切りして桶に放し、鍵を閉めてソファに横たわった。
 白い天井を見つめていると、先程つくってきた作品が思い浮かんだ。叫びたい衝動にかられた。…あれは我ながら納得のいく出来だった、と思う。いいか悪いかは実のところよくわからない。流派の教えどおり、活けているだけだ…でも今日は、いつもと違って…楽しい、ような気がした。錯覚かもしれないが。
 父や兄は褒めてくれるだろうか。
 でも、こうも思う。
 あの作品に「肩書き」が書きこまれてなかったなら。ただの「元就」の作品だったら。誰か目にとめて立ち止まることなどあるだろうか、と。
 ――そこまで考え、またフラッシュを焚かれたように、瞼の裏に、先程自分に話しかけた男の姿が蘇る。
 「あの男」だった。夢の中で会う、見知らぬ男。
 思い出して、恐怖に身を竦めた。元就に恐ろしい呪いの言葉を投げかける、あの男と顔も、声も、そっくりだった。だから、あの場から逃げ出した…波の音と、海と、空と…其処にすっくと立つ白い帆、白い髪のひとつ目の男。先程の者と重なってゆく。
『あんたのことなんざ、きれいさっぱり忘れるさ』
『大丈夫か、あんた。怪我、してねぇか?わざとじゃねぇんだ、勘弁してほしい』
『あんたが死んだ後、あんたのことを思い出す奴は誰もいねぇ』
『ほら、あの花がきれい、ってか、気に入っちまって。船みてぇだなと…』
 ――どちらが、どの言葉を言ったのかわからなくなる。


 元就は大きく数度、呼吸を繰り返した。
 偶然だ。そう自分に言い聞かせる。他人の空似だ。この世は不条理の塊だ、きっとああいう偶然もあるのだろう。きっと二度と会うこともない。慌てることも、恐れることもない…
(…だが)
『気に入っちまって。船みてぇだなと…』
(奴は、あれが船だと…気付いたのか…)
 名前の無い「元就」を「認めて」くれたのが、あの夢の男…「元就」を「きれいさっぱり忘れてやる」と罵倒する男とそっくりな者だったことが、酷く皮肉に思えた。


(4)