(4)

 目当ての店は、デパートから少し歩いた大通り沿いにある。
 すでに何度か来ているので迷うことは無い。本当ならば一駅分電車に乗ればもっと早いのだが、元親はぶらぶらと歩いて行った。
 先程殴られた頬の痛みはだいぶひいているが、自分の頬を張った相手の、強烈な印象だけは脳裏に焼き付いている。
 ――何処で、会ったのだろう?
 何度かそう考え、また否定する。会ってはいない。間違いない。――でも、知っている。
(…なんでだ?)


 いらっしゃい、と大きな声で迎えられた。元親は友人の姿にほっとして表情を綻ばせた。
「ちょいと久々だね、元親。今日はなに?誰かのお祝い?欲しい花があるの?」
 友人は――前田慶次は、大学時代からの付き合いだ。旧家の跡取りだったが、分家のほうに自分から養子に出て、本家を叔父に継がせたという経歴を持つ。とはいえその叔父夫婦とは実の兄弟のように仲が良い。…仲が良いからこそ、叔父に家督を譲ったのではないかと元親は思っている。
 正義感が強く、在学中も優秀だったのだが、大学を出た後は定職につかず、『経験を積む』と言って様々な職種をアルバイトとして渡り歩いている。だいたいひとところに三箇月から半年程度。長くて一年程度。
 今は、少し前からこの花屋で働いている。
「いや、別に。今日はお前の顔見に来ただけだ」
「なんだなんだ、心配してくれてんの?いやぁ照れるなぁ」
「馬鹿野郎、調子のってんじゃねぇよ」
 軽口を叩き、元親は内心ほっとする。花に囲まれて笑っている慶次は幸せそうに見えた。


「で、引っ越し準備進んでる?」
 唐突に訊かれて、元親は面食らった。
 それが、研究室の移動のことだと理解すると苦笑した。相変わらず耳の早いことだなというと、まぁね、みんな勝手にやってきて、勝手に色々教えてくれるからさと慶次は笑った。
 確かに郊外にあるキャンパスから、都心のキャンパスへ、一部の研究室の引っ越しが行われている。移動する中に元親も入っていた。
「しかし、学部ごと全部じゃないんだろ?なんでまたそんな面倒な」
「学部再編がまたあるらしいからな…色々調整してるんだろうぜ。こちとらまだ下っ端だ、上の意見に楯ついてもしょうがねぇし…せいぜいがんばって荷物まとめるさ」
 とはいえ、実際うんざりした作業では、ある。蔵書だけでもおそろしい量だ。研究費から購入したものをおいそれと捨てるわけにもいかず、友人や学生たちに手伝ってもらって少しずつ箱に詰めている最中である。運び終えても、また異動となるかもしれず、それも面倒なことだった。
「けど、本校のほうだと付属中高も隣だしな…前に教えてた餓鬼どもにまたちょくちょく会えるのは嬉しい」
 元親は言うと、屈託なく笑った。
「石田の奴も、留学先から戻ってきてるらしいし…あと、家康が、近々臨時講師で来るって聞いた」
「…へぇ…そうか…」
 慶次は、少し迷いのある表情をして軽く頷くと、それ以上は追及してこなかった。元親も、それ以上は言わなかった。
 少し会話が途切れる。元親はなんとなしに、店の中をぐるりと見渡した。


「――、」
 隅のほうに一輪、咲いている花に見覚えがあった。
 元親は食い入るようにその白い姿に見入った。
 元親の視線に気づいて、慶次はへぇと少し驚いたような声をあげた。
「気に入ったのかい、それ。なかなかお目が高いねお客さん」
「ちぇっ。茶化すなよ」
「いやいや、本気だよ。今日のオススメだったんだ――けど、悪いね、あいにくもうその一輪しか残ってないんだよ」
「あぁ、いや、別に…欲しいってわけじゃねぇよ…さっき見たのと、同じ花だと思って」
「へぇ?どこで?」
 慶次が瞬きして訊いてくる。元親は大通りを振り返って指差していた。
「デパートの…正面入り口近くのケースの中に飾ってあってよ…」
「あれ、――それもしかして!」
 慶次は、ぱっと表情を綻ばせた。
「さっき、その花を全部買ってった人がいるんだけど、その人のつくったものかもしれないぜ」
「…なんでそう思うんだ?」
「だってその人、華道の家元だもの。すごく若いけどね、うん、若くて――なかなか美人だったな」
「…へぇ」
 慶次の言った「美人」という言葉に、なんだ女性か、と、元親は少しがっかりした。先程元親が押し倒した(と、言うと語弊があるが)あの青年が、そうではないかと一瞬思ったのである。花や枝ものを大事そうに抱えていたから、もしかしたら彼があの『船』をつくったのではないかと。
(…まぁ、そんなはずねぇか)
「珍しいねぇ。元親が花に興味持つなんて」
 慶次は腕組みをすると、元親を覗きこんだ。元親はどこか居心地悪くなり、銀髪をがしがしとかきまぜた。うるせぇ、俺だって花に見とれることくらいあるぜとぼそぼそと口の中で呟いた。
「へぇ!見とれてたんだ?俺も見に行こうかなぁ、ウチで買った花、そんな素敵に活けてくれてるんだ、あの人」
「いや、まぁ、素敵っつうか…ちょっと、な」
「ちょっと、なんだよ」
「まぁ、花もよかったんだけどよ、まるで船みてぇでさ。けど…」
「けど、何」
 慶次は鋭い。元親はたじたじとなった。
「別に、たいしたことじゃねぇんだけどよ…見てたときに、隣にいた奴にぶつかっちまって」
 きまり悪そうに、元親は話した。
 なになに?と慶次は急に身を乗り出してくる。彼は他人の恋話、もしくはそれに類する話が大好きなのだ。…そして、そういう話ではなくても、彼特有のカンみたいなもので勝手に話をつくって進めてしまうこともよくある。それを思い出し、あぁこいつにこういう話をするもんじゃない、妄想膨らませられるんだった、と元親は躊躇したが、どうしてか口が勝手に動いている。
 元親自身が、納得のいかないこの気分を、誰かに話して確認したがっているのかもしれなかった。
「早く話しなよ、元親。つまり、見知らぬ相手と偶然ぶつかって始まるロマンスかい?いやぁ、セオリーどおりだねぇ!――で、どんな人だったのさ、その人」
「ばっ、馬鹿野郎!お前は勝手に話を膨らませるな!そんなんじゃねぇっ」
 だからお前に言うのは面倒なんだ、と元親は口の中で文句を言った。すると、「だって元親が聞いてほしそうだよ」と慶次が言うので、元親は言葉に詰まった。
「さぞきれいな人だったんだろ、元親実はメンクイだもんなぁ。気に入ったのなら名前とか携帯のアドレスとか聞いてくりゃいいのに」
「だ、だから違うって…だいたい、女じゃねぇよ…」
「――はぁ?」
 慶次は呆れたらしい。おいおい元親、普段から野郎にもてるのは知ってるけど、まさかほんとにあんた男がいいのかい?と真顔で問われる。だから違うつってんだろ!と元親は半分叫んでしまい、店長から二人して睨まれた。大の男が二人(しかも二人ともかなりの大柄だ)、花屋の店先で話しこむのは、それだけでなかなかに見映えも悪く滑稽なことかもしれない。
「…で、男ってどういうことだよ」
 慶次が、鋏で花を水切りしながら小声で訊いてくる。元親はバケツの水面に落ちる滴を見つめながら、先程の青年を思い出していた。
「いや…なんて言やぁいいのか…」
「なんだよ。普段と違って歯切れ悪いなぁ」
「うるせぇな。…しょうがないだろ、…こう…どっかで、前に、会ったことがあるようなってのは、正直自分でもそれが正しいのかわかんねぇし」
 ――ようやくそう言うと、慶次は、なぁんだ!とあっけらかんとした声をあげた。
 それから、にやにや笑っている。なんだよ、と怪訝に思い訊くと、いやいや、と言ってやっぱり笑う。
「なんだ。はっきり言いやがれ。なに笑ってやがる?」
「…珍しいなぁと思ってさ。元親、あんたがそんなに、一人に対して執着するのはね」
 元親はきょとんと慶次を見つめた。執着?と、言われた言葉を反芻する。
「執着なんざしてねぇよ。すれちがっただけの相手だ。ただぶつかって、倒しちまって、あやまって、…」
 元親は俯いた。
 あの青年を思い出す。
「ほっそいから女かと思ったら男で、…俺を見てえらく驚きやがって、…そいつのあの白い花が周りに落ちてて…どっかで、会ったような気がして…そうしたら」
 元親は口をつぐんだ。慶次が、不思議そうに覗きこむ。
「そうしたら、何」
「…ひっぱたかれた」
「…はぁ!?叩かれた!?あんたが?」
「おぅ」
「…いきなりかい!?」
「おぅよ。問答無用でこう、ばしんと、思いっきり顔を…」
 ――慶次はいきなり声をあげて笑いだした。元親はむくれた。
「笑いごとじゃねぇぜ。なんで叩かれたのか、さっぱりわからねぇ。俺はちゃあんと詫びたんだ」
「いやぁ…理由なんてわからないけど、おっかしいじゃん?」
「…他人事だなお前…」
 恨めしそうに元親は言った。慶次はひとしきり笑ったあと、一呼吸おいて、急に真顔になった。
「会ったことが本当にあるんじゃないのかなぁ」
「…覚えてねぇよ。俺ぁ、一回会った奴の顔はよっく覚えてるんだ。間違いねぇ、俺はあいつに会ったことはねぇな」
 少しばかり機嫌悪く元親は言った。でも相手はあんたの顔見て驚いたんだろ、と慶次は今度は別のバケツに薬を垂らしながら話している。
「あれじゃないかな。前世でただならぬ仲だったとかさ…」
「はぁ?前世?」
「そう。その記憶が残ってて、なんとなく会ったことがあるような気がする…どうだい?ロマンチックだろ?」
「…くっだらねぇな、おい慶次、花に囲まれて暮らしてるうちにどっかネジが緩んじまったか?」
「えぇ?そりゃ酷いなぁ…」
 慶次は目を見張って溜息をつく。
 元親は、なおも真顔で反論した。理系の塊のような元親には、それは許容できない話だったから。
 ちゃんとした記憶も記録もないのに、何処かで会ったことがある、なんて感じるときは、それは大抵マガイモノの感覚だ。脳の見せる勘違い、錯覚にすぎない。今起こっている事象を過去の出来事と照らし合わせてそういうふうに脳が処理しているだけなのだ――
 そう説明すると、慶次はやれやれとかぶりを振り、両手を大袈裟に広げて元親を覗きこんだ。元親は夢が無いねぇ、と。
「夢だと?夢ってのはそんなちゃちいもんじゃねぇ、もっとこう実現したくなるような」
「違うちがう。俺の言ってるのはね、感覚のことさ」
「感覚?」
「だってそうだろ、どっかで会ったことがある、って感じるくらいに相手になにかシンパシィ感じてるってことだろ?その感覚は大事にしなくっちゃ…恋もはじまらないよ」
「恋だと?…おい、恋とかそういう話じゃなくてだな…」
 元親は話の飛躍に面食らった。同時に、あの小柄な青年を最初触れた感触で女性と間違えたことを思い出し、わけもなく慌てた。線が細くて、容姿のすっきりした青年だった…
 視線を彷徨わせているのを、脈ありと見たのか、慶次は身を乗り出してくる。
「ほら、やっぱそうなんだろ。で、どんな相手?キレイ系?カワイイ系?歳はいくつくらいのコなのさ?」
「ば、馬鹿言え!さっき会ったばっかの奴、そんな詳しく見てるわけねぇだろうが!…ってか、男だって言ってるだろ!」
「いいじゃん、もうこの際男でも女でも。どうせ女より男にもてるんだからさ」
 したり顔でお決まりの言葉を言われてしまう。ほっとけよ、と元親は不貞腐れた顔をしてやった。慶次はいかにも楽しそうに笑っている。
 そういう慶次だって、どうなのだと思う。
 もうずっと両想い(の、はずだと元親は思っている)相手をほったらかしで定職につかずフラフラしている。相手は、きっと、ずっと待っているに違いないのだ。
 俺はね、今、自分探しの真っ最中なんだよ。モラトリアムが長いんだよ、そういう生き方があったっていいじゃん?と言って笑うのを、彼らしいと納得もするし、同時に歯がゆくも思う。司法試験に一発で合格して、未来はちゃんと開けていた。能力が高いことは疑うべくもない。公的機関が嫌なら、「彼女」の事務所で働くことだって可能なのに、慶次はそうしない。理由は聞いても、曖昧にはぐらかすだけなので元親もこれ以上聞かないことにしている。
 なんとなくは、知っている。友人と思っていた人物との関係の悪化と、その友人のその後の人生が関係しているのだろう。別に慶次は悪くない。意見が合わずに物別れするなんてよくあることだ。年齢や環境が違えば普通に起こり得ることだし、年が近くたって考え方が人それぞれ違うことは当然なのだ。…ただ、慶次はあまりに優しくて、全部を自分で引き受けて、何もできないとなると絶望してしまう。何かできるならば完璧にやりたいと願っているのかもしれない。そしてそれは危険なことだ。
 元親は、自分がある程度慶次に似ていることを承知している。…そして、似ているうえで、自分のほうが薄情な部分のあることも知っている。これまで滅多にないことだけれど、ぎりぎりまで譲歩して、不可能ならば「捨て去る」ことも、してきた。
 後悔は、当然つきまとう。もっとどうにかできなかったか。もっと別の方策はなかったか。
 けれど、元親は自分が万能だとは初めから思っておらず、足掻くだけ足掻いてどうにもならなくて、結果散々に傷つく前に、逃げることも生きるうえで必要ではないかと。どこか達観している部分もある。
 いつからそうなったか、実はよく覚えていない。…


「――じゃあ、俺もう行くわ」
 元親は時計で時間を確認すると、片手をあげた。
 慶次が、待ちなよ、というと、いつの間に包んだのか一輪のあの白い花を手渡した。
「おい、これ売り物だろ。もらうわけにゃいかねぇよ」
「いや、これ手違いで残ってしまったんだよ。さっきの彼が全部って言ったのに、最初に俺が手に取ったやつが別のバケツに入ってて」
 だから、お金は彼から貰ってるからこれはね、本当なら捨てられちまう花だから、いいんだよ。可哀相だろ?あんただったら捨てないで拾ってくれるだろ?
 そんなふうに言うので、思わず元親は手を出していた。
 白い花の凛とのびた清楚な姿は、なんとなくあの青年に似ていた…
「…おい、ちょっと待て。『彼』つったか?え?」
 元親は気づいて、はっと顔を上げた。慶次は、そうだよ、と不思議そうだ。
「言ったろ、華道の家元。さっきその花全部買ってくれた人だよ」
「――」
 じゃあやはり、と元親は確信した。
 きっと、彼があの『船』を作ったのだ。
 作り終えた作品を店の外から見ようとしていたのだろう。それで、元親とぶつかった…
 慶次も、元親の表情で気付いたらしい。あんたをぶった相手かい?と少し驚いている。元親は、たぶん、と小さく頷いた。
「なぁんだ。じゃあこの先にその流派の持ってるビルがあるからさ、そこ行けば会えるんじゃない?」
「はぁ?会う?…会ってどうすんだ」
 元親は呆れて訊いた。慶次はまじまじと元親を覗きこみ、首をかしげる。
「だって。あんた、その人に会いたいんだろ」
「…馬鹿言うな。俺を、目が合うなり殴るような奴に、もっかい会いたいわけねぇだろうが…」
 ぼそぼそと呟くと、そうかなぁと慶次はまた首をひねったが、店長に呼ばれて大きな声で返事をすると店の奥へ歩いていく。
「元親」
 振り返りざま、慶次は呼んだ。元親は顔を上げた。
「野郎でもいいじゃん?気になるなら、会ってみなよ」
「なっ…お前なぁ」
「元親、すっごく面倒見いいけど、たまにすごく投げやりだからさ」
「――」
 言われて、元親は立ち竦んだ。
「たまには納得いくまで人間関係つきつめてもいいんじゃない?」
「…」
「ま、いいや…あぁそうそう、家元さんね、そこに流派の名前貼ってあるだろ?そのまんま苗字らしいよ」
 そう言い残して慶次は消えた。
 元親は、壁に貼られた得意先の墨書きを見た。一番上に、毛利流生花取扱、と大きく書いてある。
「…毛利、か…」
 名前を、呟いた。やはり覚えは無い。
「…別に、そんなつもりはねぇんだがな」
 独り言ちて、元親はもらった花を手に、店を出た。
 慶次の言葉が耳に残っている。
 ――決して、人間関係に投げやりなわけではない。むしろ逆だ。元親は人が好きだった。友人は多いほうがいい。家族も大事にしたい。先輩後輩も、先達者も、みんな大事だ。
 ただ、自分が間違った方向へ突き進んでしまったとき、他者を傷つけたくないだけだ。
 そういう経験があるわけではない…その筈だった。記憶をどんなにさらっても、誤解したまま他者と物別れした覚えは無い。自分が悪かった、間違っていたと分かった場合は潔く頭を下げて詫びてきたつもりだ。
 なのに、どうしてか、恐れにも似た思いがある。
 誰にでも好かれることなど不可能だと知っている。…そのうえで、出来る限り誰とでも平等に平和に付き合いたい。相手が間違っているのか、自分が間違っているのかわからないままもめたなら、とことん話し合いたい。
(だが、それが不可能なときが、もしもあるとしたなら――)
 元親は熱してしまうと後に引けなくなる。そういう性格だ。決定的に互いを傷つけあい決裂する前に、引いてしまおうと思う。いつからそうなったのかわからない…
 わかるのは、夢で誰かに詫びる自分がいることだけだ。
 そしてその相手は――おそらく、元親を赦すことは、無いのだ。


(5)